還暦を迎えた初老のつぶやきNO.2

人生を一回りして、ふと振り返ると・・・。
還暦を迎えて、再スタートかな?
感ずるままにつづってみようかなと・・・!

ある人いわく・・・・・

2012年05月24日 09時45分22秒 | 信仰
一帖目一通
或人いはく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候ふやらん、
如来・聖人(親鸞)の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。
また在々所々に小門徒をもちて候ふをも、
このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。
これもしかるべくもなきよし、人の申され候ふあひだ、おなじくこれも不審千万に候ふ。
御ねんごろに承りたく候ふ。
 答へていはく、この不審もつとも肝要とこそ存じ候へ。
かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、申しのぶべし。きこしめされ候へ。
 故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。
「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、
ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。
さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、
ひとにもをしへきかしむるばかりなり。
そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。
さればとも同行なるべきものなり。
これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。
さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、
たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、
ことのほか切諫をくはへ候ひて、あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、
坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、
また弟子をばかやうにあひささへ候ふあひだ、
われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、
一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、
まことに自損損他のとが、のがれがたく候ふ。
あさまし、あさまし。
 古歌にいはく、
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、
むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、
正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、
信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、
おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、
をどりあがるほどにおもふあひだ、
よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。
    あなかしこ、あなかしこ。
  [文明三年七月十五日]

*「さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず」とは?
今の坊主はどうなんだろう?一流の安心をしらないとある。
信心決定してない。
念仏あげただけでは往生できないとある。
答えは我が心の内にある。あはは

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