還暦を迎えた初老のつぶやきNO.2

人生を一回りして、ふと振り返ると・・・。
還暦を迎えて、再スタートかな?
感ずるままにつづってみようかなと・・・!

他力の信心とは?

2012年06月18日 18時15分37秒 | 仕事
一帖第三通
そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、
不思議の名言をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、
しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に心中にこころえおきたり。
そのことばにいはく、
「十劫正覚のはじめより、
 われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。
これおほきなるあやまりなり。
そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。しかれば向後においては、
まづ当流の真実信心といふことをよくよく存知すべきなり。
その信心といふは、
『大経』には三信と説き、
『観経』には三心といひ、
『阿弥陀経』には一心とあらはせり。
三経ともにその名かはりたりといへども、
そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。
されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、
まづもろもろの雑行をさしおきて、
一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、
自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、
一心にもつぱら弥陀に帰命せば、
如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、
これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。
かくのごとくこころえてののちは、
弥陀如来の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。
これをもつて信心決定したる念仏の行者とは申すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
  [文明第五、九月下旬のころこれを書く云々。]
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一心にもつぱら弥陀に帰命せば、
如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、
これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。
うーーーん?分かるかなぁー。一般人に・・・・。
疑問1 一人で弥陀に帰命すればよいのかどうか?
    帰命の方法は?いつ?どこでどのようにすればよいのか。
疑問2 如来の光明によって摂取して捨てないとある。
    帰命したならばとある。
    誰がどのようにしてくれるの?
    一人でできる?
あはは、信心決定する事は分かったけど、
どこへいけば信心決定してもらえるのか?
答えは後の御文章に記されているぞ!!!!
楽しみ、たのしみ・・・・・。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ 合掌




在家無知の身

2012年06月15日 18時27分04秒 | 信仰
一帖目第一二通
 そもそも、年来超勝寺の門徒において、
仏法の次第もつてのほか相違せり。
そのいはれは、まづ座衆とてこれあり。
いかにもその座上にあがりて、
さかづきなんどまでもひとよりさきに飲み、
座中のひとにもまたそのほかたれたれにも、
いみじくおもはれんずるが、
まことに仏法の肝要たるやうに心中にこころえおきたり。
これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞に似たり。
しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、
在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、
一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、
一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、
わが信心は、ひとの信心は、
いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、
ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、
言語道断あさましき次第なり。
所詮自今以後はかたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。
これ真実の往生極楽をとぐべきいはれなるがゆゑなり。
     あなかしこ、あなかしこ。
  [文明五年九月下旬]
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昔の人も、現代人も同じか。
人より良く思われたい、見られたい。
信心を得ても、あまり変わらない事を嘆いている。
あぁーーなんたることかと・・・。
もっと、お互いの信心を確認し合えと!
そのための集まりだぞと・・・。
うーーむ!
地位、名誉、財産、権力を得ようと
人生の目標に掲げ頑張る・・・・。
死ぬときは生まれた時と同様、丸裸だぞ。
無一随者。
持っていくのは、生きてるときの善業、悪業のみ!
その結果で、未来が決まる!
己の未来は、佛のみぞ知る。
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ 合掌

電光朝露の夢幻

2012年06月12日 17時28分00秒 | 信仰
一帖目第十一通
 それおもんみれば、
人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。
たとひまた栄華栄耀にふけりて、
おもふさまのことなりといふとも、
それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。
もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、
いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。
まことに死せんときは、
かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。
されば死出の山路のすゑ、
三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、
またたのむべきは弥陀如来なり。
信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
これについてちかごろは、
この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。
そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、
これを信心のひとといへり。
これおほきなるあやまりなり。
また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、
わがちからかなはずとも、
坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。
これもあやまりなり。
かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、
さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。
まことにあさましや。
師・弟子ともに極楽には往生せずして、
むなしく地獄におちんことは疑なし。
なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、
他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。
      あなかしこ、あなかしこ。
   文明五年九月中旬
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人間の命は、電光朝露のように、一瞬に光って消える稲妻、
朝、葉の上にできる露も、
太陽が昇ればすぐに消えてしまう間らしい。
佛の世界から見れば、人間の寿命は、
アッという瞬間らしい。
それを、お文では、冒頭に
「人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。」
いかに人生を謳歌しても、わずかの間だと言い、
この世のものは、何も持っていけない。
蓄えた財産も、いとおしい妻も子も死に至っては何の力にならない・・・。
ただ一人死出の山路に向かうのみだ。
その行く未来は・・・・・?→→地獄?
地獄はいやだよな!
ではどうすればよいのか?
他力の信心の次第をよく存知した人を訪ねて
信心決定すればよいらしいが・・・。
  金は貯めて置いていく
  罪は作って持って行く
  法は聞かずに堕ちていく
どこかできいたなぁーーー。
南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ 合掌

後生こそ一大事

2012年06月08日 17時56分40秒 | 信仰
一帖目第十通
 そもそも吉崎の当山において、
多屋の坊主達の内方とならんひとは、
まことに先世の宿縁あさからぬゆえとおもいはんべるべきなり。
それも後生を一大事とおもい
信心も決定したらん身にとりてのうえのことなり。
しかれば内方とならんひとびとは、
あいかまえて信心をよくよくとらるべし。
それまず当流の安心ともうすことは、
おおよそ浄土一家のうちにおいて、
あいかわりてことにすぐれたるいわれあるがゆえに、
他力の大信心ともうすなり。
さればこの信心をえたるひとは、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。
「その安心ともうすは、いかようにこころうべきことやらん、
くわしくもしりはんべらざるなり。」
 こたえていわく、
「まことにこの不審肝要のことなり。
おおよそ当流の信心をとるべきおもむきは、
まずわが身は女人なれば、
つみふかき五障・三従とてあさましき身にて、
すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、
すてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、
かかる機をすくわんとちかいたまいて、
すでに 四十八願をおこしたまえり。
そのうち第十八の願において、
一切の悪人・女人をたすけたまえるうえに、
なお女人はつみふかくうたがいのこころふかきによりて、
またかさねて第三十五の願になお女人を
たすけんといえる願をおこしたまえるなり。
かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩の
かたじけなさよと、ふかくおもうべきなり。」
 問うていわく、
「さて、かように弥陀如来の、われらごときのものをすくわんと、
たびたび願をおこしたまえることのありがたさを、
こころえわけまいらせそうらいぬるについて、
なにとように機をもちて、
弥陀をたのみまいらせそうらわんずるやらん、
くわしくしめしたまうべきなり。」
 こたえていわく、
「信心をとり弥陀をたのまんとおもいたまわば、
まず人間はただゆめまぼろしのあいだのことなり、
後生こそまことに永生の楽果なりと、おもいとりて、
人間は五十年百年のうちのたのしみなり、
後生こそ一大事なりとおもいて、
もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、
もののいまわしくおもうこころをもすて、
一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、
そのほか余の仏菩薩諸神等にもこころをかけずして、
ただひとすじに弥陀に帰して、
このたびの往生は治定なるべしとおもわば、
そのありがたさのあまり、念仏をもうして、
弥陀如来のわれらをたすけたまう御恩を報じたてまつるべきなり。
これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとはもうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
   文明五年九月十一日
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この御文章を読む女性にとっては、
えっ?そんなに女って悪い人間なん?と思う人が
いるだろうな・・・。
(女人なれば、つみふかき五障・三従とてあさましき身にて、
すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、すてられたる女人)
なんとかわいそぉーな人間に生まれてしまったのだろう。
お悔やみ申す。なむあみだぶつ・・・・。
そんな女性でも救われるとあるから、感謝!感謝!だな。
後生は永遠に楽果なりと、人間世界はつかの間の
苦楽半ばの世界、長くて八十年?
でも死後は、永遠だという。
それも楽しみだらけ?あはははは
となると、やっぱり後生こそ一大事だ!
 なむあみだぶつ まぬあみだぶつ・・・・。合掌