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鎌倉~江の島周遊――【えんむすび】(前)

2014-01-12 22:51:39 | 鎌倉・相模

【えんむすび】をテーマに、今回訪れた寺社を紹介します。

 

Dsc02876まずは北鎌倉の東慶寺。

1285年、鎌倉幕府第8代執権北条時宗正室 覚山尼が尼寺として創建し、1902年までは男子禁制。

特に江戸時代においては、幕府公認の縁切寺として、女性の積極的意思による離婚を支援。

あまたの女性を救ったといいます。




【まめ知識】

江戸時代において離婚する場合は夫が三行半を書くことが基本。 

妻から夫へ離婚を言い渡すことは許されていなかった。 

女性は寺へ駆け込んでから3年間を比丘尼として奉公すれば、夫との縁は切れ、離婚の効果が生じた。

これは、覚山尼が制定した縁切寺法によるものという。

 

夫との縁が切れた女性は、新たな世界へ踏み出すことが許されます。

そんな由来を持つこのお寺は、不要となった縁を断ち、新たな縁を結ぶ祈願をする場所としてふさわしいお寺と言えるでしょう。

 

Dsc02882_3寺としては少々特殊な機能を具えていたためか、古来より寺名ではなく「松岡」「松ヶ岡」と呼ばれていたそうです。

5代目に後醍醐天皇の皇女・用堂女王を迎え、以来「松ヶ岡御所」と称されるようになります。

さらに20代目に豊臣秀頼の娘・天秀尼を迎え、天秀尼が徳川家康に対し、縁切寺としての東慶寺の従来の特権を主張し認められたことから、その格式はさらに上がったといいます。

敷地は縦に細長く、奥には小林秀雄や和辻哲三、西田幾多郎などの文化人らが多く眠る墓苑があります。

宝蔵館では寺伝来の寺宝を展示するほか、実際に合った駆け込み例を記録した松が岡日記等が所蔵されています。

 

Dsc02883また座禅や写経、茶道・香道の体験など、様々な催しが行われています。
 

花は梅と菖蒲が有名。特に梅の頃はカメラマンが多いです。

この時期は木々の葉も枯れ落ち、うら寂しい風景ばかりですが、蝋梅や緋寒桜がささやかに咲いています。



  

 

  
Dsc01126次に訪れたのは鶴岡八幡宮。

1063年、前九年の役を平定した源頼義が京都の石清水八幡宮を由比ガ浜(現在の材木座)に

勧請し創建したのが鶴岡八幡宮です。

その後1180年に源頼朝が、現在の地に移します。

以来武家の都の中心地として、また東国の総鎮守として、厚い崇敬が寄せられます。

今ではすっかり観光地となった鎌倉の中心施設として、年間を通して多くの参拝客が訪れます。

 

神社としては「八幡宮」なので八幡神(やはたのかみ)を祀っており、ご利益の中心は国家鎮護

・厄除開運・武運長久が主になるのでしょうが、現在では家内安全・恋愛成就・健康長寿・学業成就に交通安全、

ひとことで言うと諸願成就、あらゆるご利益があるような感じです。それも何だかなと思うのですが。

 

ここは本殿へお参りして終わり、ではありません。

境内には他にいくつか社が建てられています。

● 丸山稲荷神社 ・・・ 本殿脇。商売繁盛祈願に

● 白旗神社 ・・・・・・・ 本殿東の階段を下りて左へぐるっと。必勝・学業成就に。

● 旗上弁財天社 ・・・ 源氏池の島。鎌倉七福神の一。技芸上達・金運祈願に。

 
    
特にこれというお願い事がある方は、それぞれの祭神へのお参りをお忘れなく。

 

また、境内の一隅に注連縄で区切られた一画があります。

これは元宮である若宮をお参りする場所として設けられた、「由比若宮遥拝所」です。

鶴岡八幡宮の元宮ですので、前を通りかかったら、こちらにも忘れず一礼していきましょう。

 

また、新年の鶴岡八幡宮は様々な神事が行われます。

興味がある方は事前に鶴岡八幡宮のHPでチェックしていくか、あるいは運が良ければ偶然出くわすかもしれません。

ちなみに一昨年は、こんな日に当たりました(^^)

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鎌倉~江の島周遊――【えんむすび】 承前

2014-01-07 21:56:52 | 鎌倉・相模

ここ十数年、初詣は鶴岡八幡宮に行っています。

しかし何となく行きたいところをふらふらというのも、さすがにそろそろ芸がないように思えてきたので、

今年はテーマを決めて、近隣の寺社も併せて周ることにしました。

 

 
年初めにふさわしいと思い、選んだテーマが「えんむすび」です。

 

「えんむすび」というと、恋愛・結婚の良縁祈願がほとんどでしょう。

だけど恋愛・結婚以外にも、私たちは常日頃から様々な縁に繋がれて生きています。

 
「縁あって」と言いますよね。

家族や親戚、友人、仕事、その他趣味の集まり等、人生において関わり合っている人々すべては

何らかの「縁」によってつながっていると言えます。

言い換えれば「縁」というのは、自分が生きる社会との繋がりです。

 

どのような縁を結ぶかによって、生きる場が定められ、生き方もおのずとそれに沿うものになる。

であれば、望みうる限り良い縁を結びたいし、それが自身の望む生き方に沿うものであってほしい。

あるいは、結ばれた縁によって導かれる生き方もある。

 

どのような縁が結ばれるにせよ、それが自分の人生を豊かにするものであってほしい。

それが良縁祈願の本質ではないでしょうか。

 

 

前置きが少々長くなりましたので、訪れた寺社は次回ご紹介します。


街の変容

2012-01-05 23:56:51 | 鎌倉・相模

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14日午後2時過ぎ――。

三が日も過ぎたというのに、鎌倉は混んでいた。

 

「俺が小学校の頃はこんな人多くなかったのに。」

鶴岡八幡宮の前、信号待ちをしていると後ろの男性が呟いた。
年のころ30代半ば。小学生だったのは20年余り前か。

  

私もこの17年の間、幾度となくこの地を訪れているが、

明らかにここ78年、鎌倉は変わってきている。

 

 

どこか鄙びた感もある、素朴な、しかし豊かな自然に囲まれた雄大さは、

貴族支配からの脱却を目指した東国武士の都の面影を残す街だった。

 

それがここ数年、新しい店、新しい建物が増えて、通りは小奇麗になった。

住宅街の裏道にも、個人の住宅兼カフェが見受けられるようになった。

その変容の様が、例えば自由が丘のような都会の街と同じようなことに

違和感がある。

 

その原因のひとつは、鎌倉を含めた湘南エリアの人口増加だろう。

 

この辺は、10年以上前でも、都心への通勤圏ではあった。

10年ほど前に勤めた職場では、夫婦揃ってサーフィンをするので藤沢に住み、

都内の城東地区まで通勤している人がいた。

通勤に若干時間を要しても、自然のあるところ、海の近くに住みたいという人が、

鎌倉や藤沢、あるいは茅ヶ崎・平塚へ居を構えた。

 

住民の増加に拍車をかけたのは、鉄道各社・各線の相互乗り入れだろう。

特に、JRの湘南新宿ライン。

それまででも小田急が藤沢・江の島方面から新宿を繋いでいたが、

JR1本で品川・新宿・池袋へとアクセス可能になったことの影響は大きい。

その結果、住民の生活、時間的距離が、都会と近くなった。

都会に似た店が増えたのは、そのためだろうか。

   

ふたつめは、観光客の増加。

情報誌が都心近くの日帰り観光地として鎌倉を取り上げるようになったのは、

交通アクセスが便利になったこともあろう。

 
「癒し」を求める時代の空気に、自然があり、神社仏閣があり、

心の平安を得られる都会にほど近い場所として、鎌倉が合致したということも

あるだろう。

 
あるいは、NHK大河ドラマの舞台ということもあったかもしれない。

 

人が集まる場所なら集客・収益が見込めると、個人や企業が新たに出店する。

評判になり、メディアで取り上げられる。

さらに人が集まる。

そのスパイラルで、人が増えていく。

 

しかし面白いのは、いわゆる老舗の喫茶店や甘味処が、観光客の増加ほどに

混雑していないことだ。

実際の売上高はわからないが、少なくとも通りすがりに覗く限り、

通りにどれほど人が溢れていようとも、店内に人が溢れていることは少なく、

時には空席も見受けられる。

 

一方で通りには、煎餅や団子、コロッケやソフトクリームの店が立ち並ぶ。

いずれも食べ歩きできるし、実際に通りを行く人が何かしら食べているのは

珍しくもない風景で、食べながらの入店を禁止している民芸店もある。

 

 

もしかしたら、著しく増えたのは、10代~30代の観光客かもしれない。

 

 

少しずつ、都会の空気をまとい始めた鎌倉。

だがもしかしたら。

この街において、それは初めてのことではないのかもしれない。

 

今から800年余りさかのぼった時代。

 

東国武士は、自らの権利を求めて、都の貴族に反旗を翻した。

鎌倉に幕府が開かれたことで、東国武士団は自治権を獲得した。

 

それは長年搾取されてきた貴族からの独立。

貴族と同化して国を支配してきた平家を倒し、東国武士団は自らの力で

自由を勝ち取った。

  

なのに、京都・貴族へ傾倒していった3代将軍実朝。

鎌倉にはない、京の公家のみやびな文化に、彼は憧れた。

 

貴族文化への傾倒から、公家や院と交流を深め、気を良くした院によって

官位は上がる。

  

実朝暗殺の陰に、東国自治に対する京の介入を懸念した一派がいたとしたら――?

 

源家の血筋が絶えた後、迎えた4代将軍は頼朝の妹の曾孫。

その出自は藤原一族、のちの五摂家が一、九条家。

1226年、摂家将軍の始まり。

 

幼い将軍につき従って、東国へ下った都人も数多いただろう。

彼らが東国武士の世界に染まったとは思えない。

 

鎌倉が、もっとも京との距離を縮めた時代。

 

しかし、決して京文化に染まらなかったのは、ここが東国武士の都だったから。

鎌倉幕府の実権を握っていたのは、常に東国武士。

勝ち得た自治権を維持していくことを、何より重く見た。

だから。

 

 

揺るがぬ誇り。

何より守りたいもの。

現代の鎌倉において、それは何なのか。

 

その答えは、この先も繰り返し鎌倉を訪れることで分かるのだろう。


初日の出

2011-01-01 20:50:29 | 鎌倉・相模

元日の明け方から、横須賀線遅延。

横浜線にトラブルがあったとか。(線路に石、だっけ?)

なんとも新年早々迷惑。

  

横浜駅で立ち尽くすこと15分。

後ろにいた20代の男女3人組。

お目当ては由比ガ浜で見る初日の出だった模様。

「(6時)50分までに着くなんて、絶対無理!」

   

すると、男性のひとりが。

「いいよ、もう。(どこで見ても)最初に見たのが、初日の出なんだよ!」

  

半分投げやりな感じもしたけど。

なんか、妙に説得力のあったセリフ。

  

ということで。

 

今年は、鶴岡八幡宮の源氏池から見た初日の出画像をお届けします。

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観光地

2010-05-26 22:31:51 | 鎌倉・相模

江の島は遠足の生徒が多かった。
長谷は、修学旅行生が多い。

    
しかし鎌倉文学館前の道に座り込んでお昼を食べている中学生と思しき生徒、男女取り交ぜて6名には驚いた。
しかもそれを咎めだてするでなく、「どこから来たの?」などと話しかけているのは観光に来た老婦人たち。
    

・・・それでいいのか?ま、確かに誰に迷惑をかけているわけでもないが。
が。
いくらなんでもそれはどうかと。

   

江ノ電で同じ学校の仲間と乗り合わせて、歓声を上げる修学旅行生。
うるさい。
しかし他の乗客は、彼らの存在すら気にとめていない。

   

ああ、そうか。
鎌倉市民にとって、修学旅行生や観光客の存在は日常なんだ。

  

だから江ノ電の乗客の半分近くが地元民以外であるのは何ら不思議ではないし、彼らが必要以上に大きな声で喋っていても、ホームで入線してくる電車にカメラを向ける人が複数いても、気にすることではない。 

一方で、騒音やゴミで迷惑を被っていることもあるのではないだろうか。

   

それだけではない。 

ここ10年で鎌倉近隣に新しい店が次々とオープンした。

鎌倉の商業圏が広がりつつある。

そのことに対して、地元の人々はどう感じているのだろう。

   

観光地に住むとはどういうことか、初めて思い至った。