本当はいつでも怖いのだ。
言葉は終わりのない森や海であって、
そのかけらにも失礼のないよう、丁寧に選ぶ。並べる。
けれどもそれが果たして誠実なのか、
常に迷うし、怖いのだ。
一日に多くても二つの「詩もどき」を投稿しているのは、
感覚が薄れてしまわないように。
そして、その日紡いだ言葉を後から読み返して、
妥協していないか、その言葉に失礼がないか、
その日の自分がどんな生き方をしたのかを、
確かめるためでもある。
言葉はいつだって正直だ。なにものよりも嘘をつかない。
自分が少しでも言葉に対して手を抜けば、
それは読む人が一番に気づくだろうし、
書いた自分はどこかでやましさを抱えるので、
長短問わずに濃いものを、と心がけている。
それだけとは思わないが、それが何よりも難しい。
言葉という壊れやすいものを「なんとなく」で扱わないように、
たとえば「てにをは」ひとつにしても、
それは本当にそこに置くべきものであったか?
ら抜き言葉になっていないか?
読み手は何かを想像できるか?
あげるとキリがないのだが、
どこにいても、言葉という鏡を見つめながら、
自分が粗末に生きていないかを、いつも確かめている。
時にはくだけた言葉も使うけれど、
言葉にも相手にも、自分にも。
最低限の敬意と「礼」を欠かさずにありたい。
だからいつでも、何かを書く時は怖い。
怖い事を悪いとは思わない。
大切な事だと思っている。