先日、入院中だった祖母が長い人生の幕を閉じた。
十日の早朝に急性心筋梗塞で搬送され、
それから十六日もの間、
祖母は祖母として、眩しく生きた。
わたしが小学五年生の時、祖父は末期の肺がんを予告され、
それから半年ほどだったろうか、闘病の末、天国へ旅立った。
祖父の故郷から戻る時に初雪が降った事を今も覚えている。
当時の祖母は誰よりも悲しみ、泣き崩れ、
誰よりも危うかったのだが、
あれから気づけば二十余年。
時に弱くもあったが、それらは祖母を強い人に変えたように思う。
大怪我をした事もあったし、入院や手術も多かった。
認知症になり、記憶の引き出しの開け閉めを間違える事もあったが、
振り返れば振り返るほどに、やはり「強くなった」人だった。
はじめから強かった訳ではなかった。
悲しみや苦しみ、そして「時薬」が、支えとなり、
立ち上がり生きる力になったように感じている。
祖母の最期には数分間に合わず病院に着いたが、
母もわたしも、まだ弱々しく眠っているのだと勘違いするほど、
穏やかな顔で息を引き取ったようだった。
だからだろうか、これを書いている今も、
(とうに納骨まですべてが済んでいるのに)
実感があるようで無い。
深夜に亡くなり、その日に湯灌、納棺を行い、
翌朝葬儀と火葬、納骨までを済ませるという、
嵐のような二日間を過ごした事も理由のひとつだろう。
弟のように凛として見送る事もできず、
一番悲しいはずの父よりも泣いてしまった、
何とも情けない孫だったが、
コロナ感染症の影響下にある中で、
入院してからの十六日間の中で二度も会えた事は、
何よりも幸せな事だった。
見た目は元気そうなのに、重篤だと言う。
搬送時、既に心筋の下半分が壊死していたと聞いたから、
呼吸もやはり苦しそうだったのを覚えているし、忘れない。
弟と二人で最初に見舞った時も、その後一人で最後に会った日も、
祖母は必ず言うのだ。
「おめんど、気をつけて帰れなァ〜」
「からだっこサ気をつけてなァ」
本当に、いつもいつも、人の事ばかり心配する祖母。
そしてわたしと弟が見舞った時だけ、
繰り返しそれぞれに話していた願いがあった。
「わぁ家さ行ぐ」
「明日退院するねん」
「早く帰りてなぁ、おめが居て、弟が居て、面白えべなァ」
そう言っていた願いを、
生きている内に叶えてやる事はできなかった。
本人はわたし達には「もう無理だろう」という事は、
いっさい言わなかったし、むしろ帰れると思っていたはずなのだ。
わたし達家族もそうだった、
なにしろ、峠は越えたと言われてから、二日後の事だったから。
今も悲しみは消えない。消さない。
言葉にもできず、涙を流せない分の思いは、
納骨後、発熱という形であらわれた。
生前の祖母を「時薬」がひそかに支えてきたように、
今度はわたしが「時薬」に支えられながら、この先を歩く番だ。
時には膝から崩れ落ちる事もあるだろうし、
突然感情が決壊する時も来るだろうが、
すべて受けとめ、受け容れて、
祖母への透明な手紙を、日々、残してゆこうと思う。
二度の面会を「たった」ではなく
「二度も」と思えるような、
そんな大切な時間もあると教えてくれた、
心やさしい祖母への感謝を、ここに束ねる。