空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

弓引き初め

2024-01-14 06:18:10 | 日記

今日の京都三十三間堂。

楊枝(やなぎ)のお加持と弓引き初め

 

楊枝(やなぎ)のお加持はインド伝来で、平安時代からの伝統を持つ法要。儀式では聖樹とされる「楊枝」で観音様に祈願した法水を参拝者に注いで無病息災を願うもので、特に頭痛に効くと伝えられます。同日に開催される大的全国大会は、江戸時代の「通し矢」にちなむ大会で全国から約2000人が参加します。特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の冬の風物詩のひとつです。

日程 2024年1月14日(日)9:00~15:30

料金 無料

場所 三十三間堂[蓮華王院]

京都 三十三間堂で「弓の引き初め」ことし20歳の若者が参加

京都の国宝 三十三間堂で、ことし20歳になる若者たちが華やかな晴れ着姿で弓を引く、新春恒例の「弓の引き初め」が行われました。

京都市東山区の三十三間堂では鎌倉時代から江戸時代に、弓の名人たちが腕前を競い合った「通し矢」が盛んに行われたことで知られていて、毎年この時期に弓道の全国大会が開かれています。

14日は大会に先立って、ことし20歳になる若者70人あまりが参加して、新春恒例の「弓の引き初め」が行われました。

「弓の引き初め」にはことしから男性の参加も始まり、華やかな振り袖やはかまに身を包んだ参加者たちは、1列に並んで息を整えると、60メートル先にある直径1メートルの的に向け、次々と矢を放っていました。

参加した大阪市の大学生は「弓道を大学から始めたばかりで、出られると思っていなかったので嬉しいです。家族に恩返しができるような大人になりたいです」と話していました。

また、京都市の大学生は「寒いこともあり、狙いを定めるのが難しかったです。芯のある強い人になりたいです」と話していました。

でした。

 

《弓始》の俳句

・長身のひかへり射手(いて)や弓始     山口 青邨

・弓始(ゆみはじめ)三十三間雪雫(しずく)  熊口 三兄子

 

【子規365日】■1月14日

いくたびもの深さを尋ねけり     1896(M29)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

 

 

 

谷口 璽照さんのコメントです。

弓と云えば、那須与一。 (谷口璽照)

 さて元久の頃(源平合戦の折)平家の一門は一の谷に陣所をかまえ、須磨の海上に錨をおろし、安徳天皇の在(ましま)す船には日の丸の扇を高く上げ、四方八方を軍勢が取り巻いて御守護もうしている。この時代の戦いは、刀や槍というようなものばかりで、飛び道具といったら後にも先にも弓ばかり。
ところで、かの天皇の御船(みふね)に上げてある日の丸の扇を、誰か射落とす者あるかと問うたところが、音に名高い弓の名人、那須与一という源氏の武士(もののふ)が、身を甲冑にかためて馬に跨り、波風高き須磨の浦に鞭を打って浪を凌いで進み行く。馬の上から弓引き絞り、「南無八幡大菩薩、願わくはあの扇を射させてたばせたまえ」と心の内に祈念して、ぱっと放った弓の矢は約70メートル先の御座船(ござせん)に高く上げたる扇の要に当るなり、扇が砕けて散る有様は、風に吹き散る吉野の桜か、秋の紅葉の散るごとし。 
 そのとき源氏の軍中より「時ならぬ花や紅葉を散らすかな 吉野初瀬の花にはあらねど」と言えば、平家の陣中よりは「扇をば海の藻屑と那須野のに 弓の上手は与一とや聞く」と、敵も味方も一同に大声あげて誉めたとあります。風流なものですね、昔の戦さは。
 落とせるものを打ち落とし、射易きものを射当てたのではない。落とせぬものを射落としたでこそ、いよいよ手柄が顕われて、今の世までも名が残る。 
今、阿弥陀如来の本願も、助かるものを助けるじゃない、助からぬものを助けるが、阿弥陀如来‥‥以下略。

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弓と云えば、那須与一。 (谷口璽照)
2024-01-14 10:10:17
 さて元久の頃(源平合戦の折)平家の一門は一の谷に陣所をかまえ、須磨の海上に錨をおろし、安徳天皇の在(ましま)す船には日の丸の扇を高く上げ、四方八方を軍勢が取り巻いて御守護もうしている。この時代の戦いは、刀や槍というようなものばかりで、飛び道具といったら後にも先にも弓ばかり。
ところで、かの天皇の御船(みふね)に上げてある日の丸の扇を、誰か射落とす者あるかと問うたところが、音に名高い弓の名人、那須与一という源氏の武士(もののふ)が、身を甲冑にかためて馬に跨り、波風高き須磨の浦に鞭を打って浪を凌いで進み行く。馬の上から弓引き絞り、「南無八幡大菩薩、願わくはあの扇を射させてたばせたまえ」と心の内に祈念して、ぱっと放った弓の矢は約70メートル先の御座船(ござせん)に高く上げたる扇の要に当るなり、扇が砕けて散る有様は、風に吹き散る吉野の桜か、秋の紅葉の散るごとし。 
 そのとき源氏の軍中より「時ならぬ花や紅葉を散らすかな 吉野初瀬の花にはあらねど」と言えば、平家の陣中よりは「扇をば海の藻屑と那須野のに 弓の上手は与一とや聞く」と、敵も味方も一同に大声あげて誉めたとあります。風流なものですね、昔の戦さは。
 落とせるものを打ち落とし、射易きものを射当てたのではない。落とせぬものを射落としたでこそ、いよいよ手柄が顕われて、今の世までも名が残る。 
今、阿弥陀如来の本願も、助かるものを助けるじゃない、助からぬものを助けるが、阿弥陀如来‥‥以下略。
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