空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(1)浅草・待乳山聖天 大根まつり 明るさに満ち

2024-05-25 07:43:05 | 日記

上方落語「商売根問」の中に、お江戸の雀が出てきます。

《●「おぅおぅ、おめぇっちは何をしてんだい?」と、これ江戸っ子で言ぃよ りまんねん「あぁ、こらお江戸の兄さんでっかいな。いぃえぇ、いま人間が 下にあんな美味そぉなもん撒いていきましてんけども、こら何ぞ計略やも分 からんちゅうて、わたいら用心してまんねん」言ぅたら江戸っ子が「なにを、 べらぼぉめ」てなこと言ぃよってね。

●「だから贅六(ぜぇろく)雀は嫌だってんだ、何が恐ぇんだい。昔から『虎 穴に入らずんば虎児を得ず』てぇことがあらぁ、高けぇとこに登らなきゃ熟 柿(ずくし)は食えねぇんだ。おいらがこれから手本を示してやるから見てな よ」っちゅうなり、この江戸っ子の雀が「チュチュウ、チュウチュウ、ヂュ ウヂュウヂュウ……」飛んで降りてきて、このこぼれ梅をちょいッとつまん でバタバタバタァ~ッと戻ってきよる。

私たち大阪育ちををあざけって言う贅六(ぜぇろく)。

私なんか、粋から縁遠い贅六雀は、お江戸の粋さが欲しいですね。

MBSテレビ日曜朝のニュース番組で、江戸学の第一人者である法政大前総長・田中優子さんを見ると、

お江戸の粋なお姉さんと思ってしまいます。

 

一月から月一度の企画の様です。

追いつくために、週に一度訪ねます。

<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(1)浅草・待乳山聖天 大根まつり 明るさに満ち

本堂で平田真純住職(左)の話を聞く田中優子さん=いずれも台東区浅草で

 東京という町の下には江戸が生きている。路地裏を歩き、寺社を訪ねて耳を澄ませば、往時の江戸っ子たちのざわめきが今にも聞こえてきそうな錯覚に陥る。刺激的な体験だ。江戸学の第一人者である法政大前総長・田中優子さんに水先案内人をお願いし、探検の旅を始めます。初回は浅草・待乳山聖天(まつちやましょうでん)(台東区)へ。
 
待乳山聖天の1年は、毎年1月7日の大根まつりで始まる。大根は心身を清浄にする「聖天様」の「おはたらき」を象徴するものとされ、まつりでは善男善女が大根を供えてお参りし、お下がりのふろふき大根を食して新春を祝う。
 

大根まつりの日に大根を供える参拝者

 コロナ禍のため中止や規模の縮小が続き、今年は5年ぶりの通常開催。神楽太鼓が鳴り響き、ゆず味噌(みそ)の香りが漂う境内に、温かなふろふき大根を求めて長い列ができた。平田真純住職は「やっと本来の正月が戻ってきました」と穏やかな表情だった。
 
 田中優子さんはまつりの前日に足を運び、平田住職と寺の起源など歴史談議に花を咲かせた。「ここは底抜けの明るさに満ちた大好きな場所」と田中さん。寺のシンボルマークは二股大根と巾着だが、たしかに性の豊穣(ほうじょう)を表すという二股大根といい、財宝のような巾着といい、江戸っ子好みのユーモアが、本殿やちょうちん、石段脇など境内のそこかしこにあふれている。
 
 

参拝者に振る舞われたふろふき大根

 もともと「聖天様」は信仰の山である一方で、隅田川を望む景勝の地として人気が高かった。歌川広重らによる数多くの浮世絵が残っている。歳月を経て、2012年には川の対岸に東京スカイツリーの威容が加わった。

◆江戸の始まり 田中優子

 洗い上げられた白い大根が、本堂中央の壇に積み上げられている。冬の光の中で、実に清浄だ。これが待乳山聖天の日常である。
 
 

参拝者でにぎわう待乳山聖天

 なぜ大根なのか? 大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)(*1)の寺だからである。聖天すなわち歓喜天、別名ガネーシャは、中国西域の敦煌(とんこう)で蘿蔔根(ルオボゲン)と呼ばれる二股の大根をもつ姿で発見されている。ともに描かれている女天は歓喜団といわれる菓子をもっている。これが日本の待乳山聖天では大根と巾着として表現された。
 
 よくある仏教とは異なるシンボルだが、不思議なのはシンボルだけではない。待乳山は推古天皇(*2)の時代に忽然(こつぜん)と湧き出た霊山、とされているのだ。しかもその時、金龍が天より降って山を廻り、さらに十一面観世音菩薩(ぼさつ)が大聖歓喜天の姿となってこの山に降臨した、とある。仏教の菩薩や仏とインドの神々が同じものとされ、そのインドの神が日本にやってきて仏教が広まる。これは典型的な本地垂迹(ほんちすいじゃく)説話(*3)である。推古天皇の時代は、日本に仏教が定着した時代だった。6世紀から8世紀は関東一帯に、上方から朝鮮系渡来人が続々と入植してきた時代でもあった。渡来人は馬の飼育、漁の技術、麻、絹、瓦、皮革、漢字、絵画、そして仏教を日本にもたらしたのである。
 
 浅草の三社祭はよく知られている。その三社とは土師臣真中知(はじのおみのまつち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)のことで、この中の土師氏は埴輪(はにわ)、土器、墳墓の技術者だったといわれている。待乳山は明らかにこの真中知にちなんだ山だ。土師氏の一族は聖天信仰を携えて浅草に定着したのかもしれない。そうであるなら、檜前一族は、観音信仰を持って浅草に入った可能性がある。どちらにしても7世紀ごろのことであるから、浅草は、江戸が開かれた最初の場所なのではないだろうか。(江戸学者・法政大前総長)
 
 ◇ 
*1 仏教の守護神の一つ
 
*2  554~628年
 
*3 菩薩や仏が姿(本地)を神に変えて現れたとする考え方
 

◆ひとあしのばして 池波正太郎生誕地、「アリの街」跡

 
 待乳山聖天の入り口の石段下には「鬼平犯科帳」「剣客商売」などの時代小説で知られる作家・池波正太郎(1923~90年)の生誕地の碑がある。近くの浅草7丁目3番付近で生まれ、待乳山、橋場、今戸などを舞台に作品を書いた。
 
 待乳山の北側は、遊郭・吉原と隅田川を結んだ水路の山谷堀があった。遊客が猪牙船(ちょきぶね)に乗って一夜の夢を買いに通った水路は、現在は埋め立てられ、山谷堀公園となっている。
 
 東側は梅や桜の名所の隅田公園。ここには戦後、廃品回収業者や戦災孤児が集まる通称「アリの街」があった。「アリの街のマリア」と呼ばれた社会奉仕家・北原怜子(さとこ)(1929~58年)の物語は映画や舞台にもなった。映画には若き日の美輪明宏さん(88)が準主役で出演している。 
 
でした。
 
 
 
きぬ乃家 布tさんのコメントです。
関西と関東 (きぬ乃家布t)
 
 お江戸の美学ね、或る爺さんの評ですが。  
──淋しさとか、凩(こがらし)の味わいなんて、関西人にゃわからねえだろうな。関東と関西とでは、全く芸風が違う。商売だって食い物だって、そう。江戸っ子といっても、たかだか三百年の寄り集まりの世界で、何が江戸っ子だってもんだが、関西には詩がねえんだよ。関東は詩か俳句、関西は歌だな。東京だって屁のようなもんだが、関西は同じ屁でも臭いからね、匂うよ。何か文句を言われたなら、大阪なら「言ってもらいまひょ、どこが悪いか。さあ、言うてみなはれ」、これが京都だと「そうどすか。ほな、お引き取りを」だ。風土の違いと思うんだが、土地そのものに香りがあるわけでさあ。関東の風土には「振り捨てて」ってものがある。つまり、金銭とか物欲だけじゃないものを持ってる空気があったんだ。それが、今はない。じゃ江戸っ子は、みんな気持ちがきれいで開けっ放しかというと、それは人さまざま。味が違うだけのことで、良さも悪さも自分の肌に合うか合わないかの違いでさあ。》
 
 
 
zoominさんのコメントです。
 
聖天さんといえば・・・ (zoomin)
 大阪在住の私としては、聖天さんといえば、「生駒聖天」がまず思い浮かびます。生駒山寶山寺のご本尊様は不動明王ですが、鎮守神として大聖歓喜天を聖天堂に祀っていることから「生駒聖天」とか、「生駒の聖天さん」と呼ばれています。

 ところで、我が家の家紋は「下り藤」なのですが、東大阪市にある先祖代々の墓には「丸に違い丁字」の紋が彫刻されています。これはなぜかといいますと、「信心道楽」とまで言われた私の祖父が一時、生駒聖天を篤く(?)信仰していて、石畳なども寄進したそうです。その功をたたえて寺紋である「大根」の紋を家紋にすることを許されたのだと、祖母から聞かされていました。大根の紋そのものを用いるのは恐れ多いとして、見た目が大根の紋とよく似た丁字の紋にしたのだ、ということでした。墓を建立したのがその祖父であったため、丁字の紋が彫刻されているのだと聞いて、そうなのだなと思っていました。
 さて、数年前に初めて生駒の聖天さんに行ってみて驚きました。寶山寺の寺紋は大根ではなく「竜胆車」であったからです。聞かされていたあの「伝説」は何だったのかと謎に思っていました。この度この記事を読ませていただいて、聖天さんと大根には浅からぬ縁があることが分かり、面白く思いました。もう少し調べてみようと思い立った次第です。》
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2 コメント

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関西と関東 (きぬ乃家布t)
2024-05-25 10:24:43
 お江戸の美学ね、或る爺さんの評ですが。  
──淋しさとか、凩(こがらし)の味わいなんて、関西人にゃわからねえだろうな。関東と関西とでは、全く芸風が違う。商売だって食い物だって、そう。江戸っ子といっても、たかだか三百年の寄り集まりの世界で、何が江戸っ子だってもんだが、関西には詩がねえんだよ。関東は詩か俳句、関西は歌だな。東京だって屁のようなもんだが、関西は同じ屁でも臭いからね、匂うよ。何か文句を言われたなら、大阪なら「言ってもらいまひょ、どこが悪いか。さあ、言うてみなはれ」、これが京都だと「そうどすか。ほな、お引き取りを」だ。風土の違いと思うんだが、土地そのものに香りがあるわけでさあ。関東の風土には「振り捨てて」ってものがある。つまり、金銭とか物欲だけじゃないものを持ってる空気があったんだ。それが、今はない。じゃ江戸っ子は、みんな気持ちがきれいで開けっ放しかというと、それは人さまざま。味が違うだけのことで、良さも悪さも自分の肌に合うか合わないかの違いでさあ。
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聖天さんといえば・・・ (zoomin)
2024-05-26 07:11:19
 大阪在住の私としては、聖天さんといえば、「生駒聖天」がまず思い浮かびます。生駒山寶山寺のご本尊様は不動明王ですが、鎮守神として大聖歓喜天を聖天堂に祀っていることから「生駒聖天」とか、「生駒の聖天さん」と呼ばれています。

 ところで、我が家の家紋は「下り藤」なのですが、東大阪市にある先祖代々の墓には「丸に違い丁字」の紋が彫刻されています。これはなぜかといいますと、「信心道楽」とまで言われた私の祖父が一時、生駒聖天を篤く(?)信仰していて、石畳なども寄進したそうです。その功をたたえて寺紋である「大根」の紋を家紋にすることを許されたのだと、祖母から聞かされていました。大根の紋そのものを用いるのは恐れ多いとして、見た目が大根の紋とよく似た丁字の紋にしたのだ、ということでした。墓を建立したのがその祖父であったため、丁字の紋が彫刻されているのだと聞いて、そうなのだなと思っていました。
 さて、数年前に初めて生駒の聖天さんに行ってみて驚きました。寶山寺の寺紋は大根ではなく「竜胆車」であったからです。聞かされていたあの「伝説」は何だったのかと謎に思っていました。この度この記事を読ませていただいて、聖天さんと大根には浅からぬ縁があることが分かり、面白く思いました。もう少し調べてみようと思い立った次第です。
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