空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

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<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(4)吉原 息づく歴史 痕跡とどめ

2024-06-27 06:22:04 | 日記

この記事、4月21日です。

<大江戸残照トリップ 田中優子さんと歩く>(4)吉原 息づく歴史 痕跡とどめ

「よし原大門」のオブジェの前で田中優子さんに街の説明をする吉原商店会の不破利郎会長(左)=台東区で
 
 江戸の遊廓(ゆうかく)「吉原」(現在の台東区千束4付近)は人と金の集積地だった。にぎわいは芸事や美術、音楽などの文化を生んだ。今回はその吉原、光と陰が織りなす町の今昔をたどる旅。
 
 出発点は台東区の土手通りにある吉原大門の交差点。江戸時代はこの付近まで隅田川につながる山谷堀の水路があり、遊廓を目指す客は船で通うか、日本堤と呼ばれた土手を歩くかだった。
 
 道しるべだった見返り柳が交差点の横に移植されている。この柳を左手に見て緩い坂を南西に進む。坂はくの字に屈曲した衣紋(えもん)坂。五十間道とも呼ばれ、江戸時代は多数の商店がひしめき合っていた。
 
 浮世絵の版元で数々の有名な絵師を世に送り出した蔦屋重三郎の店もその一軒だった。古地図によると、蔦屋があったのは現在の吉原交番の前あたり。五十間道の一番奥にあたる。ただし現在は普通の民家があるだけで、蔦屋の名残はなにもない。
 
現在の吉原を歩くと、かつての遊廓の痕跡は目を見張ってようやく発見できるほどだ。吉原大門のオブジェがあり、この手前を右に行くと、外界との境界となったお歯黒どぶの石垣が少し残っている。ほかには吉原神社と弁天池がある程度。
 
境内の「逢初(あいぞめ)桜」(左)と街路樹の桜が満開となった吉原神社=台東区で

境内の「逢初(あいぞめ)桜」(左)と街路樹の桜が満開となった吉原神社=台東区で

 特殊浴場が並ぶ一角もあるが、隣には民家がある。
 
 江戸時代は季節ごとに町を挙げた大規模な行事があったという。毎年本物の桜を移植する「仲之町の桜」、すべての茶屋が灯籠を飾る「玉菊灯籠」、芸者たちが芝居をする「吉原俄(にわか)」などだ。
 
 こうした文化を研究、保存するために6年前、台東区の支援を得て「燈虹(とうこう)塾」が発足。セミナーを開催するなどの活動をしている。
 
 奥浅草観光協会では「この町には陰もあった。しかし光の部分、豊かな歴史があったことも忘れないでほしい。消えてしまえば二度とは取り戻せない文化もあります」と話している。
 

◆芸者文化 伝え継ぐ 田中優子

田中優子さんに吉原神社の歴史について話す松木伸也宮司(右)=台東区の吉原神社で

田中優子さんに吉原神社の歴史について話す松木伸也宮司(右)=台東区の吉原神社で

 吉原遊廓のあった台東区千束4丁目。久々に行って見るとマンションが増えていた。「建物面積が広かったので開発しやすいのです」と、吉原商店会の不破利郎会長が教えてくださった。不破さんはご自身の経営されるビジネスホテルに畳の部屋を設(しつら)え、三味線や日本舞踊など日本文化の伝承に尽力なさっている。「吉原がなければ芸者さんはいなかったでしょうね」という言葉に私はハッとした。
 
 古代から日本では芸能と性売買が結びつき、吉原もその例外ではなかった。しかし吉原芸者が登場することで、その結びつきが初めて切れたのではないか。そして芸者さんたちは、芸能のみを今日まで担ってくれている。日本文化を考える重要な視点をいただいた。
 
遊廓関係者などを葬った浄閑寺の新吉原総霊塔=荒川区で

遊廓関係者などを葬った浄閑寺の新吉原総霊塔=荒川区で

 この町には江戸時代に5カ所あった神社を統合した吉原神社がある。松木伸也宮司を訪問した。「関東大震災の起こった9月1日には毎年ご祈禱(きとう)します」とおっしゃる。震災の犠牲になった多くの遊女の骨を納めた浄閑寺でも、毎年法要を行っているという。「遊女さんたちが心のよりどころにしてくれていたので、この神社を大事にしなければ」という宮司の言葉に、現代の吉原の人々がその過酷な歴史を熟知した上で、遊女に心を寄せ弔っていることが、うれしかった。
 
 ごく普通の町になった千束4丁目だが、江戸文化を伝え続けようという住民たちの心意気が他の町と違う。ここで生まれ育った蔦屋重三郎の顔が浮かんだ。 (江戸学者・法政大前総長)

◆ひとあしのばして 商売繁盛願った鷲神社 吉原描写 一葉の「記念館」

 
 吉原神社の西に、鷲(おおとり)神社と長国寺がある。11月の酉(とり)の市には商売繁盛を願って大勢の参詣者が集まる。江戸時代の吉原遊廓は、この日はすべての門を開放し、女性や子どもも自由に通り抜けできたという。
 
 神社から北へ6、7分歩くと、樋口一葉とその作品を紹介する台東区立一葉記念館も。名作「たけくらべ」の主人公、美登利の姉は吉原の遊女だった。一葉は吉原周辺に住む人々の暮らしを生き生きと描いた。
 
でした。
 
 
 
 
【子規365日】■6月28日
 
枇杷(びわ)の実に蟻のたかりや盆の上     1898(M31)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

《枇杷》の俳句

梅雨の頃に黄塾する・種が意外に大きい。夏の味覚あふれる果物。

・枇杷むくや月さす緑にうつむきて     春梢女

・満目の白きは枇杷の実を包む     誓 子

・枇杷熟れて人間の眼をひらかしむ     盤 水

横田正知編「写真 俳句歳時記 夏」現代教養文庫 より

 

 

西 逈さんのコメントです。

トルコ→ソープランド (西 逈)

 私が千束に住んで居た頃は、ソープランドはまだ、トルコと称していた。吉原は、私の散歩コースでもあった。トルコの跡地には、たいていホテルかマンションが建っている。兵どもが夢の跡か‥‥。鷲神社の酉の市には、道に迷う家族連れが、少なくない。吉原のトルコ街のネオンを見て「おかあちゃん、きれいだね」「大きくなっても、こんなところに来るんじゃないよ」と、慌てる母親の姿が面白かったものだ。》

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トルコ→ソープランド (西 逈)
2024-06-27 17:44:03
 私が千束に住んで居た頃は、ソープランドはまだ、トルコと称していた。吉原は、私の散歩コースでもあった。トルコの跡地には、たいていホテルかマンションが建っている。兵どもが夢の跡か‥‥。鷲神社の酉の市には、道に迷う家族連れが、少なくない。吉原のトルコ街のネオンを見て「おかあちゃん、きれいだね」「大きくなっても、こんなところに来るんじゃないよ」と、慌てる母親の姿が面白かったものだ。
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