原発無くても電力足りる

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~推進派・反対派入り乱れる中~反原発運動の更なる強化を!~

2012-08-09 21:08:32 | 原発反対派と推進派
<まだ、デモを非難する言論が生き残っている>

開沼 博という社会学者が反原発デモや集会に疑問を呈するような発言をしている。こうしたことを言う「知識人」「文化人」はこれまでもいたが、この記事が脱原発運動のMLで肯定的に受け止められて流されてきたので取り上げる。(最後にその記事全文を載せておく)
結論から言えば、この開沼氏の論法は、一見「中立的」な用語を用いて、立場も「中立的」であるかのように見せているが、結局は脱原発派を矮小化・歪曲して伝えているだけにすぎない。

<①「予言」・「脚光」・「敬服」などの用いられる用語の非学術性および非論理性から読み取れる開沼氏自身の「マインド」>

 インタビュアーが開沼氏に対して、「昨年の早い段階から、「原発はなし崩し的に再稼働される」と“予言”していましたよね。」などと太鼓持ちの発言をしているが、「なし崩し的再稼動」など、財界の要請や日米関係など政治経済的背景を考慮すれば、誰の目にも可能性としてあり得ることだというのは明らかである。普通はこの程度のことで「予言」などと言われても、小っ恥ずかしくなるものだが、開沼氏はこれを否定もせず持論を展開し続ける。
 また、開沼氏は、「「今すぐ脱原発できる、するぞ」とステキなことを言えば、今は脚光を浴びるかもしれない。」とも述べているが、多くの人が、避難を余儀なくされたり、水道水・食料の汚染が拡大したり、健康被害が出たり、原発事故による汚染による実態的な被害を受けたりして、身に迫って「原発反対」「脱原発」を叫ばざるを得ない状況に追い込まれている中で、「脚光」など誰が欲しがるのか。事故によって原発の危険性、生命や生活の危機を実感した人々にとっては「脚光」などという浮ついた発想など出てくるはずもない。開沼氏にとっては、福島原発事故も生命・生活という重大なレベルではなく、「社会学」のネタとして自らが「脚光」を浴びるチャンスのようなものとしてしかとらえられていないのではないか。こうした軽率な発想がまずもって自分自身にあるからこそ、他人にもそれを当てはめて考えてしまう「マインド」が彼の中で出来上がっているのかもしれない。
  特筆すべきことでもないのに「予言」ともてはやされても否定せず、社会運動を「脚光」という基準で判断してしまうような言説が、果たして原発問題に真摯に取り組もうとしてのことだと判断できるだろうか?むしろ、「野心」から原発問題を「つまみ食い」しているようなものではないのか。
 また、80年代からの反原発運動参加者について「敬服する」と言っておきながら、「若い世代が、その(推進派対反対派の)非生産的な泥沼に自ら向かう必要はない。」とも述べている。「尊敬」とか「敬服」という言葉は、実は精神的ゆとりがなければ出てこない言葉である。なぜなら、自らに自信がない人々は「嫉妬」や、「自己卑下」のためにそれを口にすることが難しい。だから、「尊敬」という言葉が出てくる時は、自分も上下や優劣を意識していないか、それとも実は見下しているかだと推測できる。この開沼氏の「マインド」はどちらに近いだろうか?
そして、その後の「若い世代」は、古くから「原発反対」と叫んできた人々のような「非生産的な泥沼」にはまるべきではないという発言につながり、結局は「反原発」=「非生産的」あるいは「非理性的」という図式に当て嵌めて矮小化してみせているのだ。

<②反対も推進も非生産的と述べておきながら、非難しているのは「反対派」のみ>

 これは下記のインタビュー全文を呼んでもらえば分かるが、一見「中立的」であるかのように見せつつ、「推進派」への批判は一切でてこない。
 それどころか下記のようなことを述べている。
 「まず理解しておくべきなのは、現代の日本の社会システムは精密機械のように複雑だということ。もっとシンプルなシステムなら、比較的容易に原発の代替手段を見つけられたでしょう。
しかし、今の社会はシステムからひとつ部品を外せば、多くの人の生活と生命にその悪影響が出るようにできている。もちろん原発にしても然り、です。そのなかで現実的に何ができるか、時間をかけて議論していくしかない。にもかかわらず、それができていない。」
 これはつまるところ、「原発産業で食っていっている人間もいる」(実のところ、これは「原発利権を享受している層いる」ということに過ぎないことはこの間様々な人々によって暴かれてきた)という「推進派」の理屈とほとんど変わらない。その一方で、原発そのものが「多くの人の生活と生命にその悪影響が出るようにできている」ことには全く触れていない。彼に「生活」・「生命」などというものを語る資格が果たしてあるのか?

<③事実無根・データのすらない「反原発」への誹謗中傷と矮小化>

開沼氏は反原発運動について次のように述べている
「 他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば「騒ぐだけ騒いで帰る人たち」です。震災前からそう。バスで乗りつけてきて、「ここは汚染されている!」「森、水、土地を返せ!」と叫んで練り歩く。
農作業中のおばあちゃんに「そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ」とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、「ここで生きる人のために!」とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて「お疲れさまでした」と帰る。地元の人は、「こいつら何しに来てるんだ」と、あぜんとする。」
これは、一体どの反原発行動のどの部分を指して言っているのだろうか。こうしことは確かにあったかもしれないが、この一つの事例が全てに当てはまるわけではない。探せば容易にこうしたことに対する反証など出てきてしまうだろう。それこそ、旧来の政治的カテゴリーに囚われず、多くの人々が反原発運動を取り組んでいる中、こうした部外からのちゃちなイメージの歪曲化は通用しないだろう。

「そして、それ以上の問題は「震災」が完全に忘却されていること。東北の太平洋側の復興、がれき処理や仮設住宅の問題も、「なんでこんなに時間がかかるのか」と、被災地の方たちは口々に言います。原発の再稼働反対にはあんなに熱心なのに、誰もそこに手を差し伸べない。「再稼働反対」しても、被災地のためにはならない。」
これも同じく、原発反対の人々が被災地のために何もしていないかのような印象を書き連ねているが、果たして本当に丁寧に調べたのだろうか?原発反対運動を取り組みながら、被災地への復興支援ボランティアに行っている人の例などいくらでもある。そもそも、「再稼動反対派」は復興に熱心でもないと言いながら、「再稼動推進派・賛成派」については全く述べられていないのが不自然極まりない。

<④「被災地・原発立地=被害者・犠牲者」という単純なカテゴリー化と、氏自身の言説への権威付け>

 上記③で引いた二番目の発言についてさらに考察する。

原発に反対するとしたら、その意義は別に「被災地」・「原発立地」のためと限定されるような類のものではない。一度原発が事故を起こしたら、その影響は立地や被災地にとどまらないことはすでに明らかにされている。そもそも原発は原発立地が拒否すれば建設されないし、被災地であっても日本という原発推進国の一旦をになってきたわけであって、程度の差こそあれ加害性は否定できない。それは日本のほぼ全地域・住民に言えることだ。
一時期、「関東の電気のために福島は犠牲になった」という論法も一部で流行ったが、そもそも電気は原発なしで足りていることは周知の事実となったため、別に「関東の犠牲」でもなんでもない。「原発利権のための犠牲」というのが正確である。もっと言えば、原発利権だって地元立地の全ての人々に一律で渡るわけではないし、地元でなくても電力会社関係者は多くの利権を教授してきたから単純化して言えないはずである。全くと言っていいほど「利権」にあずかっていない地元住民もいるかもしれない。だとしたら、その人たちこそが純粋な「犠牲者」「被害者」なのか。いや、それはわからない。その人が、原発誘致された時から反対しつづけた人だったのか、何も気にせず反対もしない人だったのか、それどころか反対運動を白い目で見続けたのか・・・・人の数だけ立場というのは無数にあるものなので、単純に加害者・被害者として区別できるものではない。
だから、東京と福島でさえ単純に「加害者と被害者」でないのだから、まして反原発派と被災地や原発立地の関係はそうであるはずがないので、被災地・立地の被害拡大の責任があたかも原発反対派にあるかのようなこの論法は筋違いなのである。そしてそれを言うなら、そもそも推進派や反対もしていないような人々はどうなのか?
 筋違いであるだけに留まらない。このような加害・被害の図式の単純化は、「福島出身」・「福島の研究者」という開沼氏の出自から、氏自身の言論に論理性や正当性とは全く別次元の「箔付け」を後押しするように機能しうる。「福島=被害者」という図式が成立するなら、福島の開沼氏に対しても何か反論をせずに申し訳ない顔をして神妙に話しを聞かなければならないような雰囲気がつくられるだろう。ちょうど、山下俊一が、長崎で被曝体験があるということで一種の権威性を帯びて、福島各所で被曝の危険性を矮小化する公演を行なうのと似たようなものだ。事実、汚染が広がっている被災地においての何らかの「力」を割け、ということは山下の「被曝受忍」論とまったく同じである。

<結び:開沼氏が改めて教えてくれた反原発運動の重要性>

まとめれば、
(1)開沼氏自身が野心的であり、原発問題で売名をしたいという可能性
(2)一見「中立性」を装いながら、原発推進派を批判せずに、根拠やデータもなく反対派を非難していること
(3)福島(被災地)を純粋な「被害者」・「犠牲者」として図式化しようとしており、またそれによって開沼氏の福島出身という出自からの言論の権威付けを図っている可能性
(4)(1)~(3)を総合すると、原発推進派からすれば、開沼氏は、反原発運動をまっこうから潰しにくい現在、徐々にその縮小を図るために寄与する非常に都合のよい人物で、放射能汚染と被曝被害を軽視させるためにも寄与しうる人材であること。(ひょっとするとこうした言説も財界から資金援助があってのことかもしれないし、今後援助されていくかもしれない)
が指摘できる。
開沼氏はこう述べている
「3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政府・財界も姿勢を変えていない。」
確かにこれはその通り。未だに開沼氏のような人間が、一時期脱原発派であったかのような『週刊プレイボーイ』でもち上げられており、一見原発を問題しるような出版物を刊行できているのだから。こうした事実上の推進派・原発維持派とも言えるような人物が、あたかもそうでないかのように振舞えることを許してしまうこの複雑な社会システムをまさしく打破しなくてはならない。
 デモや集会がなければここまで「脱原発」世論は広がらなかった。だから、こうした社会運動は確実に「脱原発」を後押しするのである。ただ、それだけでは足らないのだ。まだ、開沼氏のような人間が持ち上げられてしまっているのだから。
まだまだ、デモや集会をもっと盛大にやらなければならないし、それ以上のこともまだまだやらなければならないと実感させてくれた開沼氏に感謝しよう



*以下、件の開沼氏インタビュー記事を掲載する。元はYAHOO。
デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼 博「“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく」
週プレNEWS 7月19日(木)6時20分配信
昨年3月の東日本大震災よりずっと前、2006年から「原発を通した戦後日本社会論」をテーマとして福島原発周辺地域を研究対象に活動してきた、同県いわき市出身の社会学者・開沼(かいぬま)博氏。著書『「フクシマ」論』では、原発を通して、日本の戦後成長がいかに「中央と地方」の一方的な関係性に依存してきたか、そして社会がいかにそれを「忘却」してきたかを考察している。
原発立地地域のリアルな姿を知るからこそ感じる、現在の脱原発運動に対する苛立ち。「今のままでは脱原発は果たせない」と強い口調で語る開沼氏に話を聞いた。

■社会システムの“代替案”をいかに提示するか

―昨年の早い段階から、「原発はなし崩し的に再稼働される」と“予言”していましたよね。なぜ、そう考えたのでしょう?

開沼 まず理解しておくべきなのは、現代の日本の社会システムは精密機械のように複雑だということ。もっとシンプルなシステムなら、比較的容易に原発の代替手段を見つけられたでしょう。

しかし、今の社会はシステムからひとつ部品を外せば、多くの人の生活と生命にその悪影響が出るようにできている。もちろん原発にしても然り、です。そのなかで現実的に何ができるか、時間をかけて議論していくしかない。にもかかわらず、それができていない。

―開沼さんは、原発立地地域での反対運動にも懐疑的ですね。

開沼 他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば「騒ぐだけ騒いで帰る人たち」です。震災前からそう。バスで乗りつけてきて、「ここは汚染されている!」「森、水、土地を返せ!」と叫んで練り歩く。

農作業中のおばあちゃんに「そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ」とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、「ここで生きる人のために!」とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて「お疲れさまでした」と帰る。地元の人は、「こいつら何しに来てるんだ」と、あぜんとする。

―1980年代にも、チェルノブイリの事故をきっかけに、日本でも大規模な反原発運動が起こりました。

開沼 あの運動は、時間の経過とともにしぼんでいきました。理由はいろいろあります。あれだけやっても政治が動かなかったこともあれば、現実離れした陰謀論者が現れて、普通の人が冷めたこともある。そして今も同じことが反復されています。「原発は悪」と決めつけてそれに見合う都合のいい証拠を集めるだけではなく、もっと見るべきものを見て、聞くべき話を聞くべきです。

―日本で起きた事故が発端という点は当時と違いますが、現象としては同じだと。

開沼 僕は今の運動の参加者にもかなりインタビューしていますが、80年代の運動の経験者も少なくない。彼らは、過去の“失敗”をわかった上で「それでもやる」と言う。「あのときにやりきれなかった」という後悔の念が強いのでしょう。そういった年配の方が「二度と後悔したくない」とデモをし、署名を集めようと決断する。それはそれで敬服します。

でも、そのような経験を持たぬ者は、まず「自分は原発について真剣に考え始めたばかりだ」ということを自覚して、歴史を学び、なぜ3・11以後も日本が原発を選び続けるのか学ぶべきです。この運動は、このままでは近い将来にしぼんでいく。すでに“反原発マインド”を喚起するようなネタ―「大飯の再稼働」「福島第一原発4号機が崩れる」といった“燃料”が常に投下され続けない限り、維持できなくなっている。

―それがなくなったら、しぼむしかない。

開沼 3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政府・財界も姿勢を変えていない。それでも「一度は全原発が止まった!」と針小棒大に成果を叫び、喝采する。「代替案など出さなくていい」とか「集まって歩くだけでいい」とか、アツくてロマンチックなお話ですが、しょうもない開き直りをしている場合ではないんです。

批判に対しては「確かにそうだな」と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない。「脱原発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数」というなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的に批判すべき。にもかかわらず、「批判を許さぬ論理」の強化に本来冷静そうな人まで加担しているのは残念なことです。

そして、それ以上の問題は「震災」が完全に忘却されていること。東北の太平洋側の復興、がれき処理や仮設住宅の問題も、「なんでこんなに時間がかかるのか」と、被災地の方たちは口々に言います。原発の再稼働反対にはあんなに熱心なのに、誰もそこに手を差し伸べない。「再稼働反対」しても、被災地のためにはならない。

―確かにそうですね……。

開沼 先日、フェイスブック上で象徴的なやりとりを見ました。警戒区域内に一時帰宅した住民の方が自殺してしまった。その町の職員の方の「今後はこのようなことがないよう頑張ります」という内容の書き込みに対して、ある人が「これでも政府は大飯原発を再稼働するのか」とコメントした。職員の方は「怒ったり、大きな声を出すエネルギーを被災地に向けてください」と訴えました。救える命だってあったはずなのに、議論の的が外れ続けている。

―先ほど「歴史を学ぶべき」という言葉がありましたが、では、デモや怒りの声を上げる以外に何ができるでしょうか。

開沼 原発ありきで成り立っている社会システムの“代替案”をいかに提示するか。どうやって政治家や行政関係者、そして原発立地地域の住民に話を聞いてもらうか。少なくとも今の形では、まったく聞いてもらえない状況が続いているわけですから。

かなり高度な知識を踏まえて政策を考えている団体は少なからずあります。自分で勉強して、そういうところに参加したり、金銭面でサポートしたり。もちろん新しい団体をつくったっていい。「代替案がなくても、集まって大声出せば日本は変わる」と信じたいなら、ずっとそうしていればいいと思いますが。

―確かに、現状では建設的な議論は一向に進んでいません。

開沼 もちろん解決の糸口はあります。例えば、ある程度以上の世代の“専門家”は、原発推進にしろ反対にしろ、ポジションがガチガチに固まってしまっている。これは宗教対立みたいなもので、議論するほど膠着(こうちゃく)するばかりです。そりゃ、「今すぐ脱原発できる、するぞ」とステキなことを言えば、今は脚光を浴びるかもしれない。でも、それができないと思っている人がいるから事態は動かない。立場の違う人とも真摯に向き合わないと何も生み出せません。

若い世代が、その非生産的な泥沼に自ら向かう必要はない。一定のポジションに入れば安心はできます。「みんな脱原発だよね」と共同性を確認し合えば気分はいい。でも、本当に変えたいと思うなら、孤独を恐れず批判を受けながら、現実的かつ長期的に有効な解を追究しなければ。

―世代による“線引き”もひとつの解決策だと。

開沼 僕は原発推進派と呼ばれる人、反対派と呼ばれる人、双方の若手の専門家を知っていますが、ある程度のところまでは冷静かつ生産的な議論が積み重なるんですよ。ここまでは共有できるけど、ここからは意見が分かれるよね、と。例えば「アンダー40歳限定」で集まれば、そこから先をどうするかという建設的な話ができる。僕はそれを身近で見ているから、実はあまり悲観していないんです。

―アンダー40の若手原発討論。それ、週プレでやりたいです。

開沼 面白いと思います。売れるかどうかはわかりませんが(笑)。そういうオープンな議論の試みから現実的な変化が始まります。

(取材・文/コバタカヒト 撮影/高橋定敬)

●開沼 博(かいぬま・ひろし)
1984年生まれ、福島県出身。福島大学特任研究員。東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(青土社・佐藤栄佐久氏との共著)などがある