はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(51)

2019-11-27 22:30:36 | 【桜の下にて、面影を】
この宇宙には、いくつもの世界が並行して存在しています。
そして、その並行世界を包み込むように、超常世界という、あらゆる世界の物理法則が当てはまらない高次世界が存在しています。
仮に西行殿がいた時代の世界をα世界、桐詠先生のいた世界をβ世界と呼ぶとします。
この二つの世界が成立している空間は、ともに地球という星です。
しかしこの二つの星は、宇宙座標の上で同じ位置に存在している、異なる星なのです。
それは、並行世界といわれます。
α、β両世界の理りに従えば、同じ座標上に異なる星が存在することはできません。
けれど、超常世界に包まれているそれぞれの世界では、衝突も干渉も起こりません。
それぞれが単体として、互いに影響を及ぼさず、互いの存在に気づくこともなく在り続けます。
どうしてそのようなことになるのかというと、α世界とβ世界の位置する宇宙は、
それぞれが別の宇宙だからです。
つまり、α世界はβ世界の外側にある宇宙に属し、β世界はα世界の外側の宇宙に、
存在しているのです。
それぞれが別の宇宙に属している星であって、それぞれの星からは、もう一方の宇宙を確認することはできないのです。
次に時間のお話をしておきます。
二つの世界には、同じ様に時間が流れています。
ですがその時間の進み方には、ほんの僅かなずれがあります。
この、空間は同じであっても時間がずれているということが、歴史に僅少の差を生じさせるのです。
平安時代という世が過去には存在し、その時代を生きた歌人たちも確かに存在する、
しかし西行殿の存在が残っていないというのは、そういうことなのです。
つまり桐詠先生のいたβ世界においては、西行なる人物は存在していなかったのです。
西行殿が生きていた世界は、α世界での平安時代だったのです。
α世界を去った後、時を経て桐詠先生として、β世界へ転生されたのです。
したがって、今もパラレルで進んでいるα世界には、西行殿の歴史が刻まれています。
もちろん、二千余残された歌も詠み継がれています。
ちなみに、先ほど桐詠先生が五度の転生を重ねられたと申しましたが、西行殿が桐詠先生になるまでに、α世界に二度、β世界には三度の転生をなされています。
そして二つの世界には、それぞれに衛星が存在しています。
どちらの世界でも、月と呼ばれています。
α世界とβ世界の時間の流れに違いがあるとお話をしましたが、時間の流れが違うというのは、自転と公転の周期に差があるということです。
そうなると、二つの世界の周りを回転する月の自転・公転時間にも、違いが出てきます。
そこから導き出されることは、二つの地球と二つの月が、公転軌道上でぴったりと重なり合うことは、とても稀なことということです。
もう一つ。
時間の流れが違えば、それぞれの世界の標準時間も変わってきます。
仮に西行殿がいたα世界の標準時間を用いると、現在はその時から、すでに900年ほどの時間が経過しています。
ただ、それぞれの世界の標準時間というものは、単に自転・公転を元にして作られた時計のようなものであり、単なる相対時間でしかありません。
よって、二つの世界を包摂している超常世界においては、同じ長さの時となります。
たとえば学校の授業の一時限分を、α世界では五十分、β世界では四十分で設定したとしても、超常世界において、実際の時の長さというものを統一の尺度で置き換えたならば、それはどちらも一時限という絶対時間になるのです。
そうして時間の流れがわずかに違う、同じ座標上に同時に存在している、互いに干渉をしない二つの世界と二つの月の軌道が、気の遠くなるほどの時間を経て一致する時があるのです。
それを私たちの世界では、超常月と呼んでいます。
α・β両世界の月が望月の状態で重なり合う時、二つの世界は融合し、超常世界が現れるのです。
超常世界は、二つの地球とは異なる理りで成立する高次元空間ですが、時間の概念もまた、超自然的なステージでのものになります。
すべてが永遠で、すべてが一瞬という時間です。
永遠と一瞬の同義。
それは、こういうことです。
今方までβ世界に属していた桐詠先生は、この超常世界に入られてすぐに、α世界で同じ平安の世に暮らした、佐藤憲康殿にお会いなられました。
その後、こうして私から超常世界についての話を聞いておられます。
それは、桐詠先生がこの白光世界に足を踏み入れてから、あるまとまった時が経過していることを表しています。
しかし、超常月は一瞬の出来事です。
α世界とβ世界、そしてそれぞれの月が奇跡的な軌道の一致を見るのは、完璧な重なりとなるのは一瞬です。
その一瞬を境にして、次の一瞬にはすでに、それぞれの軌道を少し先に進んでいます。
そうして二つ世界と月は、再び離れていくのです。
仮にそれぞれの世界の人たちに、二つの月を眺めることができたとしたら、二つの月はしばらく重なっているように見えると思います。
それは月までの距離による錯覚です。
遠くの星が止まっているように見えるという現象と同じ原理です。
けれど実際に重なる時間は、何秒も何分もあるものではありません。
紛れもなく一瞬のことです。
なのにどういうわけか、今の桐詠先生と私は、一瞬では説明ができないほどの時を過ごしています。
これが、この超常世界での時間なのです。
一瞬という時が、永遠でもあるということなのです。
最後に、超常世界内存在についてです。
この永遠の世界に召喚された人たちは、それぞれの世界での命を終えて、超常世界の存在となるのです。
永遠の霊の存在となるのです。
桐詠先生も、私も、永遠の霊の存在となるのです。
いえ、正確に言えば、数李先生と私はすでに超常世界の存在でした。
使命を与えられるのは、この世界の存在に限られるのです。
この世界は、α世界もβ世界も内包した世界なので、どちらの世界にも通じています。
それでどちらの世界にも、そのままの姿でも、形を変えてでも、存在することができます。
時間も空間も超えることのできる存在故、思うままの場所に、時間を超えて現れることができます。

そこまで言ってから六条は右手をさっと上げた。
するとそれまで二人を包んでいた、広大なのか狭小なのかさえ判断がつかない、輝いた白の空間が一変した。
京の都。
目に焼き付いている枝垂れ桜が、眼前に現れた。
法金剛院。
自ら建立し眠る場所と定めた、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)所縁の寺院。
西行と堀河にとって、失うことのできない無上の寺院。
その時、首尾の整いを実感して、あまりに自然に、素直な声が流れた。

  尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし
  花と散りにし 君が行へを

西行を取り戻した桐詠が、堀河局の化身であった六条へ向けて詠むと、

  吹く風の 行へしらする ものならば
  花と散るにも おくれざらまし

と予定されていたように、使命完遂を実現させるための手鉤となった一首を返歌した。
それは、妹の兵衛局(ひょうえのつぼね)と共に、花のように散っていった待賢門院の侍女として仕えていた堀河局が、同じく璋子を慕っていた西行との間で詠み交わした、大切な歌だった。
そうして、西行の記憶を呼び起こした鉤を残して、四年前とも二日前とも違う輪郭の後ろ姿で、六条は霞のように消え入った。
堀河局の存在に触れ、西行の霊が覚醒した桐詠は、超常世界のすべてを諒解し、この霊の終着駅、その全部を了した。
そして、恐れも悩みも、不安も不可解も、何をも抱えていない心を悟り、枝垂れ桜から視線を外した。

(つづく)