はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(52)

2019-11-29 21:42:56 | 【桜の下にて、面影を】
☆☆☆

「義清――否、西行」
懐かしい声と共に、深い砂を踏む、耳には届かないくらいの足音が近づいて来る。
すでに西行の霊(たましい)に包み込まれている桐詠には、その聞き慣れた足音が、誰のものであるかが判っている。
そこが、いつの間にか、波音の聞こえる松の横に転じていたことすら不思議とも思わずに。
感慨とともに、微速に振り返る。
佐藤憲康(のりやす)との別れの後、人生を共にした友を迎えるために。
「源季正(みなもとすえまさ)――西住(さいじゅう)」
「ご無沙汰致しておりました。お変わりない姿でいらっしゃいますね、西行」
いつの時代も、折り目正しい話し方である。
「ここであなたにお会いしたのは、これで二度目ですね。いや、二日前を合わせれば、三度となりますか」
讃岐へ渡る前、その時も同じように彼を待っていたことを思い出しながら、西行は言う。
「そうでした。西行をここで足止めさせてしまったのですね、わたくしは」
「ええ。あなたのご家族が病に伏されて、共に渡ろうと図っていた四国への旅に遅れが出てしまい、私がこの浜で、今と同じようにあなたを待っておりました」
「その頃、あなたは高野山に閑居していたので、久しくお会い致しておりませんでしたね。旅ということであれば、陸奥への長旅以来の同行でした。それで西行もわたくしも、久方ぶりの四国旅を心待ちにしておりました」
「されど、あなたが止ん事なき都合で遅れていることを知りながら、私は年甲斐もなく拗ねたりしました」
その時の様子を鮮明に思い出して、西行はいささか恥ずかしさを覚えた。
「確かに西行は、拗ねておりました。それはもう、大いに拗ねておいででした。この腰折れ松に向かって、子供のように拗ねておりました」
そう言って、遠い目をしながら西住は相好を崩した。
「同じ時期に共に宮中にお仕えをして、出家に至った時期もほとんど同じであったあなたには、誠に様々な相談に乗ってもらいました。憲康亡き後の私にとっては、
あなたが生きる支えだったと言っても良いでしょう。殊に、出家を致したにもかからず、想い人への熱情が収まることもなく、愛の永遠と憲康の死から突きつけられた、憂き世の無常という大きな矛盾に挟まれた私は、何遍もあなたに苦悩を晒しました」
「――憂き世、それは即ち無常の世。すべては忘却のうちに消えて行く。さりとて愛は何をも忘れぬことを己に誓う――そう仰っていたことをよく覚えています。あなたの苦悶がまるで自分のことのように思えて、深憂の中に在ったことを覚えています。だからこそ、わたくしが先立たねばならぬ時には、あなたがその苦悶に苛まれてしまうことを心配致しておりました。出家した身ではあっても、解脱などとはほど遠く、最後まで愛に執着し、歌を詠み続けることが分かっていたからです。そして西行の道心が、捨てる、身を捨てる、捨身、すなわち究極的には自死へ向かうという仏道ではなく、積りゆくものを許す、という愛を持ちつつ物思いしながら歌を紡ぎ出し、それらと共に生きるという歌道に成り行くこと、そこにこそ昇華の道を見出してほしいと願っておりました」
「やはりあなたは、私の心の内をすべて見通してくれていたのですね」
その通りの人生を送ってきた西行時代の霊は、澄明に語られる変わらぬ炯眼に敬服した。
「そしてわたくしは、西行や寂然(じゃくせん)を残して、浄土へと旅立ちました」
「まったく予想もできない頃でした。まだまだ共にいられると思っていたものが、
またしても友を喪うことになりました。あの時、あなたのことを慕っていた寂然と私は、心乱れることなく臨終の時をお迎えになられたあなたの姿に、憧憬さえ抱きました。同時に、未だ達観には遠く、親しき者の死に動揺する心、悲嘆する心を自覚した上で、それを恥じることもせずに詠みました。死を受け入れて達観することで悲しみを超越するくらいであれば、このまま達観などせずとも構わない、そういう心を詠みました」

  この世にて また逢ふまじき 悲しさに
  勧めし人ぞ 心乱れし

「あなたもまた、憲康と共に無常というものの徳を積ませてくださったのですね」
そう言った西行は、二日前のどこか追憶を感じさせる、住友苗雅(すみともなえまさ)なる人物との出会いが、西住を思い、亡き後に質朴のまま詠んだ一首を、呼び起こすためのものだったことを悟った。
「それも、漸くここで永遠と合一されるのです。あなたの最も叶えたかった想い、届けたかった想いを詠うことで。誠に、よくここまで凌いでこられましたね。もう何をも恐れることなく、何にも気兼ねすることなくお逢いになられなさい。すぐそこで、お待ちになっておられます」
そう言って、腰掛け松を背にしていた西住は深々とお辞儀をし、そのまま、波打ち際と白光世界の境界線が崩れた中へと溶けていった。

(つづく)