はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(44)

2019-11-11 22:32:12 | 【桜の下にて、面影を】
――さっき感じたものは、一体何だったのか。
六条に腕を取られた時、脳内に直接映し出された、遠い記憶のようなものを思い出しながら呟いた。

  尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし
  花と散りにし 君が行へを

それを受けたように、今度は桐詠の手をしっかりと握ってから、澄んだ月のような声で六条が応える。

  吹く風の 行へしらする ものならば
  花と散るにも おくれざらまし

――ああ、以前、確かにこの歌を返されたことがある。
「あなたとは、どこかで会っているのですね?」
疑問文の形を取りながらも、迷いのない言葉だった。
「はい」
俯き加減の彼女の横顔には、もう一片の憂いも見えない。
「遠い昔のことですね?」
「そう、それはそれは遠い昔のことです」
おもむろに吹き通う風。
空には薄暮に浮かぶ、まだまだ発色が完了していない望月が上り始めている。
「私の中にいる、もう一人の私が生きていた時のことですね?」
「――」
桐詠はまるで詮方尽きたように、確証を得ることに囚われた。
「欠けているものを揃えていくことが、この旅の目的なのでしょうか?」
「――」
「他には、何を揃えなくてはいけないのでしょうか?」
「――」
「あなたは、いや、私は一体何者なのでしょうか?」
「――」
彼女は、前を向き直しながら優しく手をほどき、菩薩のような面差しのまま微笑みをつくった。
「お恥ずかしい。つい、気が急いてしまいました」
じわじわとしか動かずにいた重く暗い蓋が、滑車でもつけたかのようにずれ始めているような気がして、一瀉千里(いっしゃせんり)に、捲(まく)し立ててしまった自分を恥じ、桐詠は詫びた。
「いいえ。気にしないでください」
幼子をなだめるように包むように言ってから、六条は飛躍しかけた歩調を戻した。
「そこは、もう少し先にあります。金峯神社というお社を越えた先です」
「もうすこしさき――」
すでに一跨ぎのところまで来ていたことを知り、彼はなおさら気恥ずかしさを感じて一言した。 
「そこで今夜、ある現象が起こります」
「ある現象?」
「それは、二つの月の密接な関わりです」
「二つの月に、ある現象――」
彼はそう呟いて未だ色薄い月を仰いだ。
「望月、か――」
「望月でもあり、超常月でもあります」
「それは?超常月とは何ですか?」
スーパームーンやエクストラムーンというのは聞いたことがあったが、超常月というのは初めて聞く言葉だった。
「今夜、日付が変わる頃のいっとき、この望月が超常月に変わり、その現象は起こります。そして先生は、もう少しでその時を迎えることができるところまでたどり着きました」
「それが、あなたの使命だったということですね?」
使命を終えようとしている者というのは、こんな面相になるものなのかといった、是非もない表情で彼女は頷き、
「ここで言えることは、ここでの私の使命は、これまでとなります」
と莞爾(かんじ)して口を結んだ。
枝垂れの下で待っていた六条と共に、吉野水分神社を後にしてからは、ずいぶんと時間が経っていた。
奥千本にあるはずの白桜までの道のりはかなり険しいもので、高城山へとつながる尾根道は、一歩一歩と確実に踏みしめねばならないほど、足場の悪い上り坂だった。
その頃には、ほとんど日も暮れかけていたことで、一層足元を確かめて歩かなければ、危険なほどに感じられた。
高城山には展望台もあったが、薄暗さもさることながら、とにかくその現象が起こるという場所へたどり着きたい一心で、脇目も振らず先を急いだ。
しかしこのまま尾根道を、懐中電灯もなしに自然光だけで歩くのは、もう難渋するほどに蒼きが黒くなってきた。
――こんなことなら、ライトを持って来るんだった。
まさか月明かりの下、こんな山奥を歩く姿など想像だにしていなかったのだ。
そうして、食い入るように足元を覗き込んでそろそろと歩く桐詠に、六条が声をかけた。
「先生、これを使ってください」
そう言うと、おあつらえ向きの懐中電灯を二つ、背中のナップザックから取り出した。
「あ、ありがとう。用意がいいですね」
そんなところまでお見通しなのかと感心しつつお礼を言い、つくりのしっかりしたライトを拝借した。
途端、ライト一本でこれほど心強くなるものかというくらいに、一転して足取りは軽くなった。
高城山を過ぎてから、吉野の地主神の祀られる金峯神社に着く頃には、四辺(あたり)はすっかり月光世界となっていた。
月明かりだけが差し込む古い本殿は、夜風に騒ぐ鬱蒼とした木々たちに守られていた。
その静かな偉容は、敬して遠ざくがよろしいと思わせるものだった。
もちろん、神社に対する敬意や畏怖ということもあった。
しかし同時に、とにかく超常月がもたらす現象というものの中に、身を置いてみたかったのだ。
そしてその先に待ち受けている、六条がその半生を賭してまで果たしてくれた使命に導かれているものを、確かめてみたかった。
桐詠にとってそれは、これまでのどんな衝動も足元に及ばないほどの引力を持っていた。
そんな喉の渇きやら、空腹やらを感じる暇もないほどの昂りを抱えて、神社を出発することにした。
「ここからならば、もう一歩というところです」
腰掛けていた石段から、つと立ち上がる前、小さな水筒を差し出しながら六条が言った。
「いただいてもいいのですか?」
「どうぞ、遠慮なさらずに。本当に先生は丁寧な方ですね」
桐詠には彼女の言った『丁寧』という言葉が、お世辞ではない、掛け値のないもののように聞こえた。
おそらく初めて彼女から言われた言葉だったはずなのだが、なぜだか言われ続けてきた言葉のようにも思えたのである。
「丁寧、ですか」
お礼の気持ちを込めた、包むような手つきで水筒を受け取ると、ほどよい温度の白湯を注いだ。
「ええ、先生は本当に丁寧でした。そして私にとっては、いつでもお師匠様でした」
「師匠、ですか」
「はい、我が師です」
「教員を辞めたばかりの身としては、いささか後ろめたい気持ちになりますね」
「いいえ、ずっとそうでした。あの歌を詠った時のように」
桐詠に全身、一撃の雷鳴轟かんばかりの衝撃が走った。
――どうして、今まで何も気づかなかったのか。いや、思い出せなかったのか。
「そうだったのか。そういう間柄だったのですね?」
月光に縁取られた彼女の横顔は、何も答えようとはしない。
「そうでした。ここからは、私自身が思い出すべきことでした」
申し訳なさそうに柔和に俯く彼女を見つめながら、桐詠はその時の光景が蘇ってきそうな、確かな気配を感じていた。
「さすがに、喉が乾いていましたね。ライトといい、水筒といい、何から何まで本当にありがとう」
「どういたしまして。では、参りましょうか」
「そうしましょう。あなたの使命、私の目的、すべてを完結させるために」
いつの間にか、高い位置にまで移動していた明月に照らされながら、膝を伸ばした。
月面がすべて見通せるような澄み切ったそれは、錯視の所為か、これまで目にしたことがないほどに鴻大(こうだい)だった。

(つづく)