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旭町に圧巻の庄屋屋敷と、佐々田懋(すすむ)の足跡を訪ねる No.1

2012年11月28日 17時04分48秒 | イベント

 

 

 

旭町に圧巻の庄屋屋敷と、佐々田懋(すすむ)の足跡を訪ねる No.1

 

 

ライトアップされた佐々田家の長屋門 



島根県

浜田市(はまだし)

浜田市観光協会

’はまだエビス’です♪

 

はまだエビス↓

 

 

今回は

『旭町に圧巻の庄屋屋敷と佐々田懋(すすむ)の足跡を訪ねる No.1』 を

お届けします♪

 

 

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■尼子氏の末裔が暮らした庄屋屋敷を見に行く!

「なんてきれい! そしてなんと大きな門…」

がっしりと組まれた石垣の上に海鼠(なまこ)壁の豪壮な2階建て長屋門や藏が視界に入ってきた瞬間、なんとも不思議な感覚にとらわれました。こんなすごい建物が今も建っていることがどこか信じられず、同時にいきなり江戸時代にスルリと連れて行かれたような、心も身体もフワフワと宙に浮いているような感覚が抜けません。目の前にありながら、幻に思えてしまう奇妙な感じは、圧巻の庄屋屋敷がもたらしたものなのかもしれません。土砂降りの雨が朝から降り続いているのに、この一角には清らかな香りに包まれて自らが発光しているような透明な輝きがありました。

 

時を経て重厚な輝きを増す長屋門

 

ここは浜田市旭町木田。江戸時代後期、津和野藩領の木田村、追原村、長谷村の庄屋を務め、後に大庄屋、久佐組郡代も務めた佐々田家の屋敷。佐々田家に関しては後述しますが、戦国大名・尼子(あまご)氏の末裔です。

敷地約1000坪のこの屋敷が7年の歳月を掛けて完成したのは、今から158年前の安政元(1854)年。昭和24(1949)年に、火災によって全体で100畳もの広さがあった母屋、古文書や書画・骨董が収められた内蔵や他の2つの藏、木小屋、牛小屋などを焼失してしまいましたが、長屋門、門藏、上藏、そして屋敷の右横にある安政2(1855)年に津和野藩主を迎えるために建てられた数寄屋造りの離れは焼亡を免れました。

まず長屋門が建っている石垣を歩数で測ってみると、道路に面した部分だけで長さは約56m。右端にはまるでお城の隅櫓(すみやぐら)を連想させるような2階建ての門藏が建っており、かつては長屋門の両サイドから伸びた漆喰の塀が屋敷後方の山の斜面までずっと伸び、敷地全体がグルリと一筆の塀で囲われていました。優美な白壁の塀であると同時に裏山からの侵入を防ぐ防備の意味もありました。今日ではその大半が失われてしまいましたが、斜面のところどころ見える朽ちた白壁や、藏の横の倒れた塀などが往時を十二分に偲ばせてくれます。

 

扉の補強金具まで意匠が凝らされた正

 

 ■ゴージャスな長屋門は大名の屋敷門として誕生

長屋門は江戸時代中期、諸大名の武家屋敷門として誕生しました。大名家は多くの家臣や使用人を屋敷内に住まわせる必要があり、そこで、長屋を建てて住居を確保するわけですが、その住居に防御機能も兼ねさせ門を付けたのが長屋門。まさに一挙両得の合理性の産物です。そして次第に上級武士の表門の様式として確立し、普及していきました。格式や序列を何よりも重んじる武家社会にあって、長屋門の様式や構造は身分や家柄、禄高によって厳しく定められ、本来は武家のみに許されたものでした。時代が下るに連れて、名字帯刀を許された豪農や庄屋なども建てるようになりましたが、漆喰を用いることができるのは武家門のみ。民間では板張りが基本でした。今日まで残る豪農や商家の長屋門のなかには漆喰を使ったものが数多くありますが、これはあくまで特例と見た方がいいようです。藩の手掛ける普請(ふしん)に多大な貢献をしたり、武家との婚姻関係があったりといった場合に、古い長屋門を譲り受けるといった形で作られたようです(あくまで名目としても)。武家の長屋門では前述したように家臣や使用人が居住しましたが、民間の場合は使用人の住まいだけでなく、納屋や仕事場としても活用されました。

 

 この門から向こうは江戸時代 

 

 

 海鼠(なまこ)壁は富と権威の象徴。耐水性を求めて縁起物も発見

また長屋門や藏が威圧感さえ感じさせる重厚さを漂わせているのは、海鼠(なまこ)壁の存在に負うところが大きいのではないでしょうか。海鼠壁は土蔵や塗屋(ぬりや)の外側に方形の平瓦を張り付け、その目地を漆喰で盛り上げたもの。盛り上げた目地の部分が海鼠(なまこ)に似ているので、海鼠壁と呼ぶようになりました。なぜこんなに手間暇かかる手法が必要だったのでしょうか。時代劇に出てくる藏には千両箱や骨董品、先祖代々伝えられてきた古文書といったものが付き物。 要は富と歴史の蓄積場所なのです。財産を守りたい時、何が怖いか? それは今も昔も火事に他なりません。万が一火災が発生した時、最も熱が溜まって藏全体が炎に包まれ、内部に火が入ってしまう構造上の弱点は、軒下です。ですから、火災の熱を溜めないためにできるだけ軒は短くしたいのです。しかし、軒を短くすれば雨が直接壁に当たって、壁を傷めてしまいます。そこで考え出されたのが、耐水性に優れた平瓦を壁に張って目地でつなぎ目を留め、壁を守るという工夫でした。そして江戸の人々は目地が海鼠に似ているからと、形だけで名前をつけたわけではなさそうです。それは、「海鼠」の形が米俵を連想させることから、豊作に通じる縁起物として広く浸透していたからです。火から藏を守るために軒下を短くする、すると雨が直接当たって壁を傷める、だから耐水性に優れた平瓦を張り付けて目地で止める。その目地が海鼠に似ている、海鼠は豊作を象徴する縁起もの‐‐、「こりゃあ、藏には打って付けだね!」となったのでしょう。目地を縁起物の海鼠に見立てるなんて、粋なものですね。

今日、長屋門が残っているのを見ると、「江戸時代の門、発見!」と思いがちです。実は幕藩体制が崩壊した後、明治になってから建てられたものが意外に多いのです。飛び切りゴージャスな長屋門は富と権威の象徴。憧れの存在でした。いくら建てたくても、藩の許可が必要だったり、制約の多い江戸時代では勝手に作るわけにはいきませんでした。しかし御一新(ごいっしん)=明治維新で名目上は四民平等。そこで力を付けてきた新興の商人や新たな富裕層が長屋門を建てたというわけです。

 

             ■佐々田家の長屋門は、なぜ最初から瓦葺なのか

門の上に掲げられた家紋「四つ目結門」              雨に濡れて庭で静かに紅葉する梢                長屋門内の部屋の装飾

 

佐々田家の長屋門は安政元(1854)年、最初から海鼠壁に瓦葺きで普請(ふしん)されました。建てられた当時は庄屋さんですから、公家や武家ではないので、瓦葺きにすることはできないはず。しかしこれが可能だったのは、おそらく藩主亀井氏との関係と思われます。佐々田家は尼子氏の末裔と最初に記しましたが、詳しく言うと、尼子氏が永禄9(1566)年11月21日、月山富田城の戦いで毛利に滅ぼされた時の、尼子の嫡流・尼子義久の弟・倫久(みちひさ)が佐々田家のご先祖。そして初代津和野藩主・亀井�朴矩(これのり)は父祖の代から尼子家の家臣だったのです。尼子が滅亡してから300年近く、かつての主家にたいする�朴矩の思いは、通常の藩主対庄屋のそれとは違っていたのでしょう。

NO.2では、尼子の滅亡後、十数年の幽閉生活を経て、現在の金城町久佐に土着し、庄屋として農民のために働く倫久の子孫たち、そして尼子から佐々田への改姓、明治から昭和に掛けて政治家として、実業家として、また篤志家としてとてつもないスケールで活躍した佐々田懋(すすむ)をご紹介します。懋氏は、倫久から数えて十代目の子孫です。

 佐々田屋敷をご覧になりたい方は、浜田市立木田小学校を目印に県道5号線を旭の梨園方向に進んでください。木田小学校は小高い岡の上ですが、庄屋屋敷は木田小学校を見上げるような位置に」ありますので、周囲を注意深く見回してください。あっと驚くような長屋門が目に飛び込んでくるでしょう。

 

塀のところどころに設けられた透かしは、重厚ななかにも軽やかなアクセントとなっている

 

門から見る木田の田園風景

 

 

 

今回も

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