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人生の迷子。

読書の記録をどうする。

2020-08-05 05:29:38 | 日記_2020
ちょっと前に図書館でダ・ヴィンチ(本に関する雑誌)の最新号を読んでたんですけど。
私が本の記事を書くのを面倒に感じている理由がその時わかりました。

本は好きだし読みたい。
読む。
けど、誰かとその経験を共有したり感想を述べあったりしたいというわけじゃない。
私の感想は私の主観で私のものであり、誰かの感想は誰かの主観で誰かのものだからだ。
他人がどう感じようが私が好きな文章が私は好きだし、苦手な文章は苦手なわけで。
本の紹介は見たいけれど誰かの書いた推薦文やレビュー、書評はいらない。(紹介文や要約などは別)
「他人の経験」は自分のものにならないし、自分が受け止めたものと他人が受け止めたものは答えが違うはずだし、自分がよかった、と思っても他人がよくなかったと思うこともよくある話だ。
だからこそ、あまり人に自分の感想を述べたくない。
同時に誰かの評価を自分の中に置いたうえで読みたくない。
先入観をなくして手にしたい。
自分の言葉が誰かに影響を与えるのが嫌なのだ。
それは自分が誰かの言葉に影響されるのも嫌だと思っているということになる。
「こういう本ある?」と聞かれれば「これなどはどうでしょう?」程度には紹介するけれど、何がどうでどういうところがいいよ、なんてことは言わない。
それは私の主観による”よい”と感じる点であって、誰かにとってのヨイは違う答えだろうと推測できるから。
それに気づいたら読了本を紹介するだけにするのが自分としては気楽に書けるなーと思っている。

読書感想文が苦手、というよりも否定的だった。
学生時代の夏休みの宿題が苦痛だった。
自分が読んで「面白かったー」って思った本をあらすじ書いてそれに対してどの部分にどのように感じたかなどを書け、って。
知らんがな。
俺の感想俺だけのもんじゃで。
ずっとそう思い続けていた。
その文章に感じた感覚を言葉にする方が難しい。
明確なポイントをもって評価を得ることなどできない。
言葉の中に含まれている言葉にできない感情や葛藤、におい、温度などを文章に起こすことなど到底無理なのだ。
読書体験による自分の芯の部分に植えつけられるそれらの感覚を言葉にしたところでそれを共有することなど不可能なのだ。
同じ経験値があろうと、主観が違えば体感は違う、体感が違えば見える景色は違う。
そして読書経験を文章にすることを評価の対象とすることに何の意味があるのか。
「好きな本を誰かに読んでもらうための紹介文として書く」なんていう教え方もあるそうだが、いや、人の紹介で読む本を面白いと思うかどうかは別だし、その本が面白くても紹介が面白くなかったら興味を持たないし読書機会を奪うようなことやめてくれません?って思う。
好みの問題もあるから、感想を義務とするのはいかがなものか?とずーーーーーっと思い続けて今に至っている。
そんな人が、レビューや感想を書けるわけがない!
書く意味?ないだろ!って思ってるんだから。
そもそもその紹介文で興味から外れて機会を奪われたくない。
読みたいと思った本は読んだらいいし、どう感じるかは本人次第だし。
個別に聞かれれば答えるかもしれないけれど、そんなにしてまで内容とか感想を聞くなら読めよ、って思うし。

誰かの読書を自分の主観によって邪魔したり、機会を奪ったりしたくないのだ!
本を読む諸君は自分の興味の赴くままに読んでほしいの!
誰かがお勧めしてたから、とか誰かが面白いって言ってたから、っていう理由で読んでほしくない。
自分が「これ面白そう」って選んで読んでほしい。
「読む」という選択をするときに他人の影響による意思決定をしてほしくない。
「あの人は面白いから読んで、って言ってたけど興味ない」っていう本を読んで面白いという感想は出てこないし、身にもならない。
読書体験は常に自分の興味関心とともにあってほしい。

なので、これからは本の感想とかではなく、読んだ本の記録だけを書くことにします。
お好きな購入サイトに掲載されているレビューなどを読んでいただいた方が効率がいいと思います。
私はあくまで、読了本を紹介するだけに徹します。

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