宮崎駿の『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』(岩波新書)を読む。
宮崎さんの、19世紀的な、あまりに19世紀的な「知」のプレゼンスに感嘆する。
それを、保守反動というのは易しいが、「アニメーション」という表象文化の権化みたいな記号と方程式のサハラ砂漠で、19世紀的教養こそが、正気を保つのに自然な自己防衛法ではなかろうか。
でなければ、押井守のように仙人になるか、庵野秀明のようにとち狂うか、神山健治のように職人に徹するかしかないのでないか。
ところで、神山監督の『サイボーグ009』は、その基本設定から「冷戦」を排除した瞬間に微妙作と決定したようなものだと、おれは思うが、その「作画」の経験値が日本アニメの歴史的共有資産になるであろうことに、疑いの余地は無い。
んで、おれにとっての『009』は函入りのこれ↑に入っている、「神々との闘い編」に尽きると、ベッタベタなことをいっておきたい。
008のエピソードの最後「そうだろうか?」は、意味深長でいいのう。
19世紀的大河ロマンを20世紀のモダニズムで分断・解体するという、グリフィスの『イントレランス』〔1916〕をなぞった手塚の『火の鳥』に相対するような構造―――未完というのもポストモダンっぽくて(?)よかったのではないかと。