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主語を入れ替える人たち

2008年09月11日 | 読書
僕は環境問題に対してある種の苦々しさを抱いている。それはもちろん表題にあるように主語を入れ替えるからである。

主語を入れ替える例として、とても有名なのが、あのブッシュ・ジュニアの
「アメリカ国民はもう待てないのだ」という言葉。
別にアメリカのすべての人が9.11 の復讐のために、イラクへの攻撃を望んでいたのではあるまいに。あの表現で、日本を含む多くの親米派国家が、大きな戦争に巻き込まれてしまった。

既に過去形で僕は語っているが、アフガニスタンで殺された彼も、その余波の中にいるに違いない。

いや、環境問題である。
先日、出張で山陽新幹線に乗り、穏やかな山容の中国山地を海沿いに通りすぎた。街中にもいろいろな小さな丘があり、それらは、あるものは墓地として、あるものは住宅地として、あるものは公園として利用されていた。
それぞれの住民が、それぞれの地域に望ましい形で丘を、いやそこにある地形をうまく利用する。それは何の問題もないことだと思う。
どう利用されようが、丘は丘だし、きっと人類が生まれる以前から丘であり、人類が滅んだ後もただの丘なのだと思う。
丘自身には、痛みも悲しみもない。

「地球に優しい」というコピーは秀逸であるとは思うものの、環境問題は人類のために行うものだという目的を見失っては意味がないと思う。
武田邦彦教授の著書が売れるのも、その活動に意味はあるのかという問いかけを封殺するような勢いがあったためだと思う。残念なことに彼の著書も結論ありきの議論で構成されていることが山本弘氏の本で暴露されてしまったが。

ある種のリーダーシップもしくは、他者を巻き込む必要のある運動では、しばしば主語を間違う必要があるのでしょう。僕らは、そういうことにもっと懐疑的になるべきだと、ヒトラーによって引き起こされた惨劇、もしくは(まだ歴史的評価は固まってないが)ブッシュ率いるアメリカによって引き起こされた惨劇は語っている。(と、僕は認識している)

いや、わざわざ海外を事例に引かなくても、第二次世界大戦の前段階で、日本の軍事暴走を後押ししたのが、本来主語を「日本」にして語るべき内容を、「アジア」を主語にして語ってしまったせいではないかと思う。
そして、あの頃の相互監視の生きにくさ(いや、僕は体験していませんが)も、しばしば主語を間違えて語ったことによって引き起こされているのではないかと思う。

本来であれば、経済効果によって律するべき何かを、別の基準で律しようとするとき(一概にそれが悪であるとは言いませんが)、日本ではしばしば何かいやな相互監視的ムーブメントが発生するように感じます。

(印象的批評ですいません。もっと具体例で反論すべきですね。でも、自分自身はなぜかまだ体験していなくて、遠い外堀から順番に埋まってきているような嫌な感じがあったもので。もっと言うと「北極グマが死のうが生きようが、自分の生活にはあまり関係ない気がします。さらに、北極グマが全滅することはいけないことで、近所の蚊やゴキブリが全滅するのはいいことなのですか?みんなで農薬撒いていますが。」ってことなんですけど)


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