大脳山脈

大脳あるところ山脈あり

20231128-20231204.

2023-12-04 | 混線頭

僕は左を下にして寝ている。真夜中に目が覚めるとそれが分かる。右を下で寝ていたこともある。上を向いていたり、うつ伏せで寝ていたこともなくはない。あるいはそれらの中間の姿勢で寝ていたこともあっただろう。眠りとは厄介なものだ。

十年前には、大抵、上を向いて寝ていた。天井に浮かぶシミが何かに似ていてそれが何に似ているのかはっきりしないことが悩ましく眠れなくなることもあった。あの頃は、仕事も順調でそのせいでいつも天井を見ながら眠っていたのかもしれない。仕事や人生に順調であるかどうかが、どのような向きで眠っているのかと関係があるような気がする。

いつから左を下に眠るようになったのだろう。天井はどこに行ったのだろう。そもそもこの部屋に窓はないのだが、もしもあったとしたらそこにあるかもしれない窓から月は見えないだろう。月の存在を疑いかねないように建物が設計されているからだ。それでも見えない月がそこにあることを僕は感じている。それはおそらく、月の重力によるものではないだろうか。二番目に近い天体であり、かなりの質量を持つ月の存在を感じられないということなどありえない話である。だとすると、眠りの姿勢は月の引力によって変わっていくのだと考えてもよいのかもしれない。僕からは見えなくても月は僕を支配しているのだろうか。

いや、もしも月が僕の睡眠姿勢に影響を及ぼすのなら、それには一ヶ月の周期があってもよさそうなものだ。月は地球のまわりを一ヶ月に一周するというではないか。だが、上を向いて眠っていたのは十年以上昔の話なのだから、その周期は十年を超えることになる。もしも周期があるとすると、さらに十年前、つまり二十年前にはどうだっただろうか。まだ子供であったあの頃、僕は寝相が悪く眠っている様はまるでダンスをしているようだったと、誰かが言っていた。言っていたのは母だろうか、祖母だろうか。いずれにせよ、一定の方向を向いていたわけではないのみならず頻繁に方向が変わっていたとすると、あの頃の月は空を法則性もなく自由に飛び回っていたという話になるだろう。睡眠姿勢に月の影響はないのに違いない。

だとすれば、睡眠姿勢は僕に一番近い惑星地球との関係によって決まっているのだろうか。眠っているときに、背骨の方向が地軸と一番並行な位置関係になることは幾何学的に明らかだ。地軸という架空の存在が、私という具体的な物質の基幹である脊椎と同じ方向を向いているのだから、地軸が私の睡眠姿勢に影響を与えないわけがないではないか。

では、周期についてはどうだろう。十年ほどの間に地軸の向きが変わったのだろうか。それとも私の背骨の向きが変わったということなのだろうか。それは考えにくい話だ。それというのは十年の間に背骨の向きが変わったという話だ。確かに人類は一生の間に幾度か進化を経験する。それでも背骨の方向だけが変わっていたなどというわけがないのである。背骨が変われば体型も変わるだろうし、確かにこの二十年あまりの間に僕の体型は膨れたり縮んだりはしたけれど、腰の上に腹があり腹の上には胸があり、そして胸の上方に頭が乗っているという構造は変わっていない。そう思う。だから、十年周期の変化は背骨の変容とは相容れないはずだ。

では、地軸の方向に関してはどうだろう。確かに地球は進化しないだろうが地殻変動という変化については耳にしたことがある。だとすると、地軸の向きが長い周期で変わっていることに、人類あるいは僕はほとんど気づいていなかっただけという話なのかもしれない。そして睡眠の間、身体はその微細な変化を感じて反応しているのではないだろうか。

すると二十年あまり前には、地球の地軸は一夜に幾度も変わり僕はそれに操られて夜の間中踊り狂っていたというわけだ。確かに地軸が砕け無数の地軸の欠片となり、沸騰するマグマの中で渦巻いていたのならそれもありうる話だ。おそらく地球が誕生したばかりであれば地軸がまだひとつにまとまらずばらばらに蠢いていたということは考えられるだろう。すると二十数年前に地球が誕生したのだろうか。

あるいは、地軸ではなく地磁気が睡眠姿勢に影響を及ぼしているという可能性も除外できまい。確かに赤道近くであれば、地磁気の方向と僕の背骨の方向は並行になっているだろう。それだけでは地磁気の影響か地軸の影響かを区別することはできないが、極地に行けばそれは並行ではなく垂直に変わってしまう。北極にいる間僕は深夜に逆立ちをして眠っていたのだろうか。目覚めたときに奇妙に肩が凝っていたことは何度もあった。それとも直立していたのかもしれない。確かに目覚めた時妙に足がだるかったことも何度もあった。その変化の間に極から極へと移動していたのだろうか。また赤道と極の途中にいる間には僕はヨガの行者のように床に上下は不明だが不安定で傾いた姿勢のまま眠っていたのかもしれない。その修行の成果によって僕はもうすでに解脱しこの世界にはいないのだとも考えられる。

僕が地表を漂っている間に睡眠姿勢が徐々に変化したのならば、二十年前であろうが二百年前であろうがそこに周期などないだろう。窓のないこの部屋にいたのでは地球を一周していてもそのことに気づくわけがない。それに、もしもあったとしたらそこにあるかもしれない窓から月が見えないのはそもそも月などなかったからなのだろうか。二十年前に地球が誕生したとき、月は生まれていなかったということだろうか。

こうして長い夜が終わりようやく目覚めたとき、僕はどんな姿勢で眠っているのだろう。


虎の思い出

2023-11-13 | 混線頭

自分が本当は虎であると思い込んでいる人は多いものだ。そうでなくとも、誰もが自分は虎の生まれ変わりであると幾分かは信じている。とはいえ大概の者は虎ではない。そんなわけがないのである。

たとえば、

太郎は虎ではなく彪であるし、
大助は彪ではなく髭であるし、
大部は髭ではなく髪であるし、
犬別は髪ではなく鹿であるし、
丈列は鹿ではなく鞠であるし、
下別は鞠ではなく麹であるし、
木刊は麹ではなく菊であるし、
本利は菊ではなく瓜であるし、
杏秒は瓜ではなく禿であるし、
香砂は禿ではなく虚である。

それでも、
虎は虚ではなく虎なのである。

 


Annotated とらのおいたち 2章

2023-11-07 | 混線頭


2. 1の訳
 とにけ君(1)が翻訳を始めるらしいと聞いた。手紙(2)だったかメール(3)だったかあるいは電話(4)だったのかは覚えていない。手紙だったかメールだったかそれとも電話だったのかを思い出せないだけでなく、誰から聞いたのかすら忘れてしまった(5)。きっと、とにけ君自身が連絡をくれたのだろう。たぶん、とにけ君だったのだろう。
 というのもひさしぶりだから会おうかという話になり、大きな門のある駅(6)の前で待ち合わせることにしたからだ。その駅にはもうずいぶんと行っていなかったので、構内でしばらく迷ってしまったあげく、約束の時間(7)にすこし遅れて改札を出た。とはいえ、とにけ君もまた来てはいなかったのである。
 大きな門の東と西(8)の端にある街灯は電球が切れていて(9)暗い。改札の張り紙には「暗闇の中には虎が棲んでいます」(10)とだけ書かれていた。大きな門の東西の暗闇には虎が棲んでいる(11)のだろう。
 暗いといっても大通りを走る車(12)のヘッドライトが(13)大きな門の東西の端の暗がりを照らし出すことはある。その光の中には確かに大きな虎が頭をもたげて横たわっているのが見えた。そのようにして、大きな門の東西の端の暗がりの中には虎が棲んでいるのだと分かる(14)のだった。虎は首輪(15)もしていなければ檻(16)があるわけでもない。もしも虎が空腹(17)であり、もしも私の存在に気づいたり(18)したならば、私はたちまち襲われる(19)のだろう。五体を食いちぎられ(20)腕や脚や内臓まで食べられて(21)しまうかもしれない。その可能性は高い。あるいはとにけ君が遅刻しているのは虎のせいなのではないだろうか(22)。
 大きな門の東の端の暗闇に一頭西の端の暗闇にもう一頭虎が棲んでいる(23)。なぜ大きな門のある駅を待ち合わせの場所になどしたのだろうか(24)。そう後悔し始めた頃にとにけ君はやってきた(25)。安心のあまり涙ぐみそうになった私を見て、とにけ君は何も言わなかった。気持ちが通じているとはこのようなことを言うのに違いない(26)。
 駅にある喫茶店に入り(27)、とにけ君の話を聞いた。まちがいなく翻訳を始めるのだと言う(28)。それが仕事なのか道楽なのかは言わなかった。どちらでも同じだということだ。何の翻訳なのかどんな翻訳なのか聞きたいことはいろいろあった。
「悪-9857と水-3067」
 とにけ君は思い出すようにゆっくりとそう言った。虎の姿を照らし出した2台の車のナンバー(29)だった。
「並-6790」
 私はその次に来た車の番号で答えた。なんと奇妙で美しい一致(30)だろうか。とにけ君と私は強く抱擁を交わした(31)。
「とにけ君が日本語を勉強していたとは驚いたよ」(32)
そう言うととにけ君は楽しそうに笑い、これは翻訳ではありませんでしたね(33)と言った。

3. 1の訳の注
(1)「とにけ君」人名。
(2)「手紙」テキストを紙に書いたもののこと。読者は特定の人物や集団であると想定している。
(3)「メール」食事のこと。
(4)「電話」音声により遠隔地との会話を可能にする装置。隣接地でも使える。音楽を伝えることもできる。ゆえに「電話」はなくても何も変わらない。
(5)「誰から聞いたのかすら忘れてしまった」そんなことはありえない。嘘を書いているのかもしれない。
(6)「大きな門のある駅」大きな門のある駅には大きな門のある理由があるはずだが、それについてはまったく触れられていない。
(7)「約束の時間」は日の暮れたあとの時間であり、夜である。
(8)「大きな門の東と西の端」東西に長く伸びた駅である。
(9)「街灯は電球が切れていて」電球を使っているので古い駅であるということがわかる。電球を販売していた頃の話であることが伺われる。
(10)「「暗闇の中には虎が棲んでいます」」これは、この駅に虎が棲んでいることを述べたものではなく、一般的な事実について述べられたものかもしれない。
(11)「大きな門の東西の暗闇には虎が棲んでいる」このような断定には根拠がない。
(12)「大通りを走る車」駅の前を東西に国道が通っている。
(13)「ヘッドライトが」時は夜である。
(14)「虎が棲んでいるのだと分かる」虎が棲んでいることがわかる。
(15)「首輪」拘束具のこと。
(16)「檻」拘束施設のこと。
(17)「空腹」食欲に満ちている状態。
(18)「気づいたり」獲物がいると認識すること。
(19)「襲われる」食べるために命を奪うこと。
(20)「五体を食いちぎられ」食べるために体を小さな部分に切り分けること。主に腕や脚でおさえ、口で引きちぎるので「食いちぎる」と言われる。
(21)「腕や脚や内臓まで食べられて」食べやすいサイズに分解したのち食することを獲物の立場から述べている。
(22)「とにけ君が遅刻しているのは虎のせいなのではないだろうか」このような虎が存在することと、とにけ君の到着が遅れていることを関連づけ、とにけ君がすでに虎に食べられてしまったために、約束の時間に到着できていないのではないかという不安を表している。
(23)「西の端の暗闇にもう一頭虎が棲んでいる」東西の暗闇の中にそれぞれ一頭の虎が潜んでいるのだという推測を事実と断定している。西の虎を見たのかどうかは明らかではない。
(24)「なぜ大きな門のある駅を待ち合わせの場所になどしたのだろうか」確かにそれは疑問である。だがここでは、それは疑問ではなくそのような決断をした自分に対する後悔を意味している。
(25)「そう後悔し始めた頃にとにけ君はやってきた」だが、後悔する理由などなかったことが、とにけ君の到着によってあきらかになる。
(26)「気持ちが通じているとはこのようなことを言うのに違いない」そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
(27)「駅にある喫茶店に入り」駅の喫茶店では虎の危険があるはずだが、勇敢な二人はあえて駅の喫茶店に入ったということだろう。
(28)「翻訳を始めるのだと言う」虎の話はともかく、とにけ君が翻訳を始めるのだという冒頭の話題に戻った。
(29)「車のナンバー」すべての車には唯一の番号が割り振られており、それのことである。番号は「文字」と「数字」の二つの部分からなる。
(30)「奇妙で美しい一致」何を言いたいのか不明である。
(31)「強く抱擁を交わした」何のためなのか不明である。
(32)「「とにけ君が日本語を勉強していたとは驚いたよ」」話者の発言である。とにけ君は日本語の学習者であることがわかる。
(33)「これは翻訳ではありませんでしたね」これは「1の訳」と名付けられてはいるが、ほとんど原文と同じであり、翻訳とは呼べないという意味である。原文では「では翻訳を始めましょう」とあり、とにけ君はこの「1の訳」が「1」の翻訳として書いていたことが分かる。

 


とらのおいたち

2023-11-06 | 混線頭

1.
 とにけ君が翻訳を始めるらしいと聞いた。手紙だったかメールだったかあるいは電話で聞いたのかは忘れてしまった。手紙かメールかそれとも電話のどれであったとしても、それが誰からのものだったのかすら思い出せない。とにけ君自身が連絡をくれたのかもしれない。たぶんとにけ君だったのだろう。
 ひさしぶりだから会おうかという話になって、大きな門のある駅の前で待ち合わせをした。その駅にはもうずいぶん行っていなかったので、構内でしばらく迷ったあげく、約束の時間にすこし遅れてしまうことになった。とはいえ、とにけ君もまた来てはいなかった。大きな門の東と西の端にある街灯は電球が切れていて暗い。改札の張り紙には「暗闇の中には虎が住んでいます」と書かれていた。大きな門の東西の暗闇には虎が住んでいるのだろう。
 暗いといっても大通りを走る車のヘッドライトが大きな門の東西の端の暗がりを照らし出すことはある。光の中には確かに人の背丈よりも大きな虎が寝そべっているのが見えた。そのようにして大きな門の東西の端の暗がりの中には虎が住んでいるのだと分かった。虎は首輪もしていなければ檻があるわけでもない。もしも虎が空腹であり、もしも私の存在に気づいたりしたならば、私は襲われるだろう。五体を食いちぎられて食べられてしまうかもしれない。その可能性は高い。あるいはとにけ君が遅刻しているのは虎のせいなのではないだろうか。
 大きな門の東の端の暗闇に一頭西の端の暗闇にもう一頭虎が住んでいる。なぜ大きな門のある駅を待ち合わせの場所になどしたのだろうか。そう後悔し始めた頃に、とにけ君はやってきた。安心のあまり涙ぐみそうになった私を見て、とにけ君は何も言わなかった。気持ちが通じているとはこのようなことを言うのに違いない。
 駅にある喫茶店に入り、とにけ君の話を聞いた。まちがいなく翻訳を始めるのだと言う。それが仕事なのか道楽なのかは言わなかった。どちらでも同じだということだ。何の翻訳なのかどんな翻訳なのか聞きたいこともいろいろあった。
「悪-9728と水-3234」
 とにけ君は思い出すようにそう言った。虎の姿を照らし出した2台の車のナンバーだった。
「並-6494」
 私はその次に来た車の番号で答えた。なんと奇妙で美しい一致だろうか。
「とにけ君が日本語を勉強していたとは驚いたよ」
そう言うととにけ君は楽しそうに笑い、では翻訳を始めましょうと言った。

2. 
 とにけ君が翻訳を始めるらしいと聞いた。手紙だったかメールだったかあるいは電話で聞いたのかは忘れてしまった。手紙かメールかそれとも電話のどれであったとしても、それが誰からのものだったのかすら思い出せない。とにけ君自身が連絡をくれたのかもしれない。たぶんとにけ君だったのだろう。
 ひさしぶりだから会おうかという話になって、大きな門のある駅の前で待ち合わせをした。その駅にはもうずいぶん行っていなかったので、構内でしばらく迷ったあげく、約束の時間にすこし遅れてしまうことになった。とはいえ、とにけ君もまた来てはいなかった。大きな門の東と西の端にある街灯は電球が切れていて暗い。改札の張り紙には「暗闇の中には虎が住んでいます」と書かれていた。大きな門の東西の暗闇には虎が住んでいるのだろう。
 暗いといっても大通りを走る車のヘッドライトが大きな門の東西の端の暗がりを照らし出すことはある。光の中には確かに人の背丈よりも大きな虎が寝そべっているのが見えた。そのようにして大きな門の東西の端の暗がりの中には虎が住んでいるのだと分かった。虎は首輪もしていなければ檻があるわけでもない。もしも虎が空腹であり、もしも私の存在に気づいたりしたならば、私は襲われるだろう。五体を食いちぎられて食べられてしまうかもしれない。その可能性は高い。あるいはとにけ君が遅刻しているのは虎のせいなのではないだろうか。
 大きな門の東の端の暗闇に一頭西の端の暗闇にもう一頭虎が住んでいる。なぜ大きな門のある駅を待ち合わせの場所になどしたのだろうか。そう後悔し始めた頃に、とにけ君はやってきた。安心のあまり涙ぐみそうになった私を見て、とにけ君は何も言わなかった。気持ちが通じているとはこのようなことを言うのに違いない。
 駅にある喫茶店に入り、とにけ君の話を聞いた。まちがいなく翻訳を始めるのだと言う。それが仕事なのか道楽なのかは言わなかった。どちらでも同じだということだ。何の翻訳なのかどんな翻訳なのか聞きたいこともいろいろあった。
「悪-9728と水-3234」
 とにけ君は思い出すようにそう言った。虎の姿を照らし出した2台の車のナンバーだった。
「並-6494」
 私はその次に来た車の番号で答えた。なんと奇妙で美しい一致だろうか。
「とにけ君が日本語を勉強していたとは驚いたよ」
そう言うととにけ君は楽しそうに笑い、これでは翻訳になっていませんねと言った。

 


私には名前があります

2022-06-19 | 混線頭

 私には名前があります。
 それは、これまであなたが知っていたような紙書無書であるとか減多少増であるとかあるいは過渦泡道であるというような作り物めいた名前ではありません。そのような名前は必ず偽名であり、偽名で名付けられた者は初めから存在してはいないということです。もしも私もまたそのように名付けられた者であれば、私は今まさにこうであるような私ではないでしょう。それは確かなことです。私が私である以上、私の名前は偽名ではないのですから、私のその名前をあなたに知る機会があれば、知るやいなやその名前はまさにほかならないこの私の名前であると悟るでしょうし、一旦知ってしまったならば私がその名前以外の名前を持つことなど想像もできないと思い知るような名前です。勿論、悟ったり想像したり思い知ったりするのは、これを読んでいるあなたです。しかしながら、私の名前が他の誰の名前でもないのであれば、その当然の帰結として、私の名前を誰もそれが名前だとは気づかないことでしょう。そんな言葉の名前があるなどと思いもよらないからです。だとすればそんな名前を知るや否や、その名前とは思えないことばがまさに他ならない私の名前であるなどとは信じられるわけがありません。その名前を知ったからといって、知ったにもかかわらず私の名前はまだ知っていないとしか思えないはずです。私の名前は、それを私の名前だと知ってすら私の名前だとすこしも気づかないような名前だということです。

 私の名前は偽名ではありません。他でもないこの私が偽名で名付けられたような者であるわけがないからです。とはいえ、そもそも偽名で名付けられた者は、その偽名こそがはじめからその者の名前なのですから、それは偽名などではないと主張するでしょう。それがその者の固有の名前であると言うしかないでしょう。自分が偽名であるなどと信じられるわけがないからです。だとすれば、私の名前が偽名であっても私はそれには気づかないのでしょうか。私にとっては他ならない私の名前であるにも関わらず、私以外の者にとってはそれは名前ですらないというわけです。それは名前なのでしょうか。私にはとうてい名前とは思えません。私には名前があるのでしょうか。私にはとうてい名前があるとは思えません。

 名前から始めたのは間違いだったのかもしれません。いや、明らかに間違いだったと言い切れるような間違いでした。私の名前など誰も知りたいとは思いませんしそれが偽名であればなおさらです。偽名でなくてもなおさらです。私はおそらくありふれたご挨拶から始めるべきだったのでしょう。見も知らぬあなたであれば、名前からではなく、私はまず初対面の挨拶から始めるべきでした。そして、初めてではないあなたには何か再会を賀ぐような挨拶をすべきだったと思います。以前どこかで、挨拶から始めたこともあったような気がします。そのとき、初めての方と幾度目かの方に同時にどう挨拶すべきか悩んだこともあったように思います。そのときはどうしたでしょうか。はっきりとは思い出せません。あるいは、思い悩んだあげく挨拶などしなかったのかもしれません。だとすれば、私はここで初めて私の名前を披露し挨拶をしてもよいでしょう。このあとにあれこれ申し述べる事柄に挨拶は欠かせないことのように思うからです。勿論、始まりをやり直すことはできません。もうすでに始めてしまったことをないことにするなど不可能です。でも、あたかも別の始まりであるかのように続けることはできるのではないでしょうか。それは名前から始めるよりもずっと賢いやりかただと思えます。

 とはいえ、本当に挨拶が必要なのかどうか、私にはすこし疑いがあります。つまり、私にあなたの名前を知ることができないのにもかかわらず、あなたが私の名前を知っていてもよいのでしょうか。名前もしらない誰かに自分の名前を教えるなど、何か愚かしい行動ではないのかと思えるのです。それだけでなく、私の名前をあなたに知らせることは何か不合理な行動に思えます。つまり、私の名前は知られているのにあなたの名前は知りようがないなどと、そのような不公平があってよいものかどうかよく考えてみるべきだと思うのです。不公平と書きましたが不公平というよりもなにか理不尽というべき事態のようにも思います。それに、そもそもこれから申し述べる事柄に私の名前などなんの影響もないのですから、事の重要さを考えると、私の名前などお知らせしない方がよいのではないかすら思えてきます。あなただけでなく、誰にも名前を知られてはならないのではないということです。名前を知られてはならないということです。

 私には名前があります。でもそれは秘密です。