私の写真日記

私は喜寿近くになり50年勤め完全退職しました。これから健康寿命を伸ばし夫婦共々穏やかに楽しむ人生を願っています。

地域の歴史(野川公園)

2024年04月12日 | 自分のブログ

拙ブログを読まれる方には、興味の無い内容かと思います。スルーしてください。

近くに都立「野川公園」があります。

今では整備されて自然公園になっています。

この場所は、小学生の頃からの遊び場所でした。陽が沈むまで遊んだものです。

野川はどちらかと言うと、濁った小川でした。上流に何かレンガ?瓦?の製造工場があり、そこから流される粉が粘土となって、堆積していました。のちに河川整備されたようです。

ザリガニや小魚がいて、ザリガニはバケツ一杯は取れましたね。茹でて尻尾の方を食べた記憶があります。

今では公園として憩いの場所になっていますが、少し遡って昔のこの地域のことからご紹介いたします。

以前は(その昔は戦中時代)、軍事工場の一つである中島飛行機製作所?(富士重工の前身)がありゼロ戦などを作っていた場所かと思います。

この地域は、中島飛行機製作所の関連下請け会社も多く存在していました。

その従業員が住む長屋も点在しており、東野住宅や西野住宅などもありました。

当時は長屋形式で、家には風呂も無く風呂屋さんも4カ所は有ったかと思います。

*我が家は在の住民ではなく、戦中に中野から疎開してきたのです。中野時代の別荘がこのMi市とMu市の2か所にありました。私は現住所生まれです。引っ越して90年くらいになるのでしょう。

終戦後、この広大な敷地は国際基督教大学の敷地となり、私はこの構内も遊び場でした。

今は建て替えられているかと思いますが、大学の本館は旧工場施設の一部だったと思います。

本館の裏手には、工場跡や格納庫などもあり、散らばっている窓ガラスは防弾用だったと思います。

構内の脇の坂を下りると、池がいくつかありました。通称爆弾池と言われ落とされた爆弾のあとに水が溜り池になっていました。良く遊んだ場所です。

現在の自然公園の鏡池がその爆弾池だったかと推測します。

その広大な敷地の一部はICUの牧場がありました。

それが現存する公園の一部です。

まさに、野川があり大きな土管を二つ並べた橋もありました。当時は眼鏡橋と呼ばれて、映画「にあんちゃん」の撮影現場にもなりました。昭和28年頃、佐賀県の炭鉱生活で十歳の少女・安本末子が綴った日記「にあんちゃん」の映画化ものです。

*画像はネットより拝借しています。

地域の名称は大沢と言って、湧き水もあり清流になっている個所では、ワサビ田や水車も回っていました。

縄文?や弥生式土器も探せばある場所でした。もちろん貝塚もです。

また、戦時中の名残りがあちこちにあり、ゼロ戦を隠すための防空壕?(円形の屋根)があちこちに有りました。

また、まさに防空のため出たのでしょう。長く続いたトンネル状の壕があり、子ども時代の探検場所(肝試し)でした。大きめの缶にロウソクを灯りにして、入り込んだものです。火が消えたら酸欠だとドキドキしながら探検ごっこをしていました。豪の中は迷路になって掘った土壁に傷をつけて戻る時の目印にしていたくらいです。

この地域には、戦時中の工場が点在しており、海上無線とか他の軍事工場がありその跡地は広大で今ではマンション群になっています。

日産工場や杏林大学病院辺りも、定かではありませんが、軍事工場の跡地だったかも知れません。

下請け工場も多かったので、用地地域も今ではそのような工場は見当たりませんが、工場が出来る準工場地域になっています。

当時、ICUの構内は北大に次いで2番目の広さだったと聞いています。

ICU(国際基督教大学)は、学生の学費を軽減するために牧場(美味しい牛乳も飲みました)を、手放したと聞いています。

+++++++

都のHPより:野川公園の前身は、国際基督教大学のゴルフ場です。(そうだったのかなぁ~?)

東京とは昭和49年からゴルフ場を買収し、その周辺の神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などの緑地を含め「武蔵野の森構想」のもとに造成を行い、昭和55年6月に開園しました。(へぇ~知らなかった)

この公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたがり、野川と東八道路とで三つの地区に分かれています。国分寺崖線に接し、豊かな自然が残されている野川の北側、野川と都道にはさまれた起伏のある芝生広場、そして広々とした芝生広場とテニスコート・アスレチックのある南側。緑にひたり、のびのびした気分を味わうことができます。(これを書いた方は昔を知らない?)

+++++++

その後、牧場内に都市計画道路の東八道路(東京~八王子間)の計画が出来、道路は一部開通しましたがMi市の一部に東大の学生寮があり、学園紛争や成田闘争後ですが、強い反対運動により全線開通はしませんでした。

この東八道路が出来たことにより、私たちが遊んだ場所は無くなりました。

牧場を買い取ったのは、どこかのゴルフ場経営会社だと思ったのですが(ICUのゴルフ場?)でした。

この辺で言えば、小金井カントリークラブは超有名なクラブで、都心からも近いことから人気もあったようですが、面積がゴルフ場にしては狭かったようです。(そんな話を聞いたことがあります)

誰が都知事だったかは忘れましたが、美濃部 亮吉さんか鈴木俊一さんかなぁ~?都の公園として買収されました。

したがって、この野川公園はゴルフ場のアンジュレーション(地形)をほぼ生かして作られています。

公園として、広大で静かな地域の方々に利用されています。

ホームステーなどで、来る方々には良くお連れしますが、喧噪な東京にこんな静かな公園がある環境に驚かれていました。

もう少し行くと、神代植物公園もあります。当初は深大寺との柵もなくもっと自然な公園でした。

けっして、現状の神代植物公園が良くないと言っている訳ではありありません。

バラ園や大温室も良いのですが、私にはこの野川公園の方が気に入っている場所です。

今回の野川公園のご紹介は、どの地域でも歴史(流れ)がありますので、後世に記憶していることを残すためでした。他の方の資料をお読みすると、違っている部分もあります。私の記憶だけですのでお許しを!

中島飛行機(軍事工場)⇒国際基督教大学⇒ゴルフ場⇒野川公園

こうして、語り部として残したかったのです。

今では、富士山も多摩川の花火も自宅からは見えなくなりました。

おやじと屋根に上って多摩川の花火を見ていたことが懐かしく思えるこのごろです。

 

yuki75


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私って何が趣味なんだろう? | トップ | ダンスを始めたきっかけとシクミ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

自分のブログ」カテゴリの最新記事