新・合気道楽心館で熟年バンザイ!

中野体育館道場は中高年シャンゼリゼ、合気道で熱い!
合気道は道場だけじゃない、日々是修行

45  ピンセットの・・(掴み)

2018-08-14 | 日記
合気道は、時に(接触の体術)と言われたります。
掴まれたり掴んだり、接触した瞬間から技に移っていくからです。

テレビで紹介された下町の町工場で、
様々なピンセットを見たとき、それらの(掴み方)に、
合気道の(接触)とおんなじだ!とピンときました。

医療用、工業用、研究用、料理用・・・
町工場では、注文や用途に応じて、数百種類のピンセットが匠の手で作られています。
外科手術で血管や神経などを掴んだり髪の毛やまつ毛を掴むものなど、
先端部の形状や大きさ、バネのチカラも千差万別。
切手を1枚1枚挟むピンセットは、薄く平べったい、
卵の黄身を挟んで持ち上げるものは楕円面で等しく力が加わるし、
イボを掴みとるピンセットは、先端が円筒状でした!

とりわけ、
1ミリほどのミジンコを潰さずにつまむピンセットには・・・!!。
鋭角に力が一点に加わったら、潰れて死んでしまいます。
ミジンコの立場になって作られたというピンセットの先端部、
どうぞ想像してみてください。

いずれのピンセットも、設計の要点は
(先端部の一点で接触する)(過剰な力が加わらない)
(挟むときの支点が下がり、均一に合わさる)こと。
合気道で言えば、柔らかく、ベタ掴みにならず、
脇の閉まりがバネの具合いと重なります。
支点は、下半身でしょうね。
合気道の(掴み方)も、相手の状況と使い方で様々ですしね。

設計する匠のモットーは、「相手(対象物)の立場になって作る」
(感覚の道具)なのだそうです。そうか~
赤ちゃんを抱っこする時老人介護の手の添えかた、社交ダンスの手の添え方・・
いろいろイメージされますね。

みなさんも、三教や四教の掴みを連想されると思いますが、
(ミジンコを掴むように)
(卵の黄身を挟み上げるように)
(切手を一枚挟むように)・・なんて、
ピンセットの様々な掴みが参考になるやもしれません。

ちなみに、
落語や漫才でも、出会いがしらの(アタマの掴み)が重要と
言われるように、接触で相手の気を呑んだり、気を惹きつけたり
接触や掴みは、奥の深いテーマに違いありません。


いろいろ試してみようっと~





44  自分が知らない「自分」と出逢う時・・

2018-08-02 | 日記

「接触を動かさず・・」「半身の軸を一致・・」「膝腰のゆるみ・・」
「そこで、肩を抜く・・」
そんな、ゆったりした声が広い道場に響く、酷暑の夏。
理科の実験室で、試薬を一つ一つ、試験管の中で化合させるように、
動きを反すうする。 (エアコンなので、注意しながら)
道場は、春夏秋冬、季節の中でやる「身体操作の実験室」なんですね。
熟年者ならば季節の(風情)も楽しめるかもしれません。
(風鈴でもあればよいのですが)


しかし、
一般の熟年仲間はどうも、合気道に対して食わず嫌いの気があるようです。
スポーツと違い、強弱勝敗を競うわけではありません。
「じゃ、何をしてるの?」
説明は面倒なので、しないことにしているのですが、
最近は、こう答えることにしています。

(リンゴを包丁で剥くのに、包丁を動かすより、リンゴを持っている手を動かす
ほうが合理的に剥けるよね。
魚をさばくのに、豚カツを切るように切るより、三枚におろした方が、
楽にきれいにおろせるでしょう、より美味しいし。
それを知らずに、毎回いたずらに包丁を振るうより、
技術を身に付けたほうが、はるかに気持ちいい人生を送れるでしょう)


「何の得があるんだ?」
どうも、そういう何でもかんでもお金に換算するマインドが
ご当人を「大損」に追い込んでる気がするのですが。
そのでんでいけば、
合気道を続けるほど、わたしの純資産はまちがいなく増え続けています。
パソコンでいえば、アプリやデータ容量を増やしているのではなく、
自分という巨大なシステム、そのOSのプログラム自体を書きかえて、
更新しているのですから。
自転車に乗れるようになったり、泳げるようになったりするのは、
自分の肉体と神経の基本OSがバージョンアップすることです。
身体に一度沁み込んだ感覚は、お金に換算できないけれど、
もっと肝心な生命力や感性を、強く豊かにしてくれるのは確かです。
贔屓の引き倒しになってはいけないので、ここで寸止め。
お気楽に訪ねてきてください。(楽心館:中野道場)

今のサブテーマは、
(暑い夏のエアコンなしの道場でも、涼やかに稽古ができるようになる)こと。
動きの精度をあげ、超省エネでやれないものでしょうか。
呼吸法も工夫が要るやもしれませんね。
死ぬまで(まだまだ)がいいなあ・・・

なにげに門をくぐった合気道ですが、
自分を包丁にしてみたり、リンゴになってみたりしながら、
ああでもない、こうでもない、と愉しんでいる次第。
明日か、来月か、来年か、まだ知らない自分に
出逢えることが楽しみです。