学生時代の友人が遠い愛媛から来展。
先日開催した自宅展を見るためにやって来てくれた。
来阪の目的は万博ではあるが、こちらまで脚を運んでくれと言うので
我が家の展示はそのままにしておいた。
ほぼ常設展状態!(^^;
いわば、昨年八幡浜で行われた家族展に出掛けたお返し来阪とも言えるが、
とにかく有り難いことで、気の合うご夫妻との会話で半日楽しい時間を過ごした。
先方は元美術の先生で日展作家でもある。
つまり、プロの画家。
そんな人に我が愚作を見て貰うのも嬉し恥ずかしの心境。(^^;
的確な批評、というか上手な褒め言葉も頂いたのが素直に嬉しい。
また来てね、と言って別れた。
多分、次回はこちらが愛媛に出掛けると思うが。(笑)
出だしの歌詞が「持って生まれたさだめ(運命)まで変えることなどできないと 肩に置いた手ふりきるように 俺の背中にまわって泣いた」ですが、75歳の私が思うんですが、運命は100%変えられないのではなく、50%か60%は変えられると思います。本人の努力しだいですが。「結婚」「仕事」「定年後の生活」の3つは全部自分で決めた私だから言えるのかもしれません。松下幸之助も同じ考え方なので、安心しています。
愚石さまはどうお考えなさいますでしょうか。お聞かせください。
過去を振り返ってアレは運命だったということもありますが、今言われるのは未来についてですね。
未来が運命によって決められていたとしても、それを事前に知り得ると言うことはありません。そうならば、運命で決められていようがそうでなかろうが同じ事になりませんか?どちらにしても結果を見るまで判らないのだから。
だから、気にはしません。念ずれば通ずという立場です。こうありたいと願い、そう努力すれば必ず結果は着いてくる。そう考えます。
といいつつ、全てはお釈迦様が決めておられると思います。我々はお釈迦様の手のひらの上でじたばたしているのです。幾つまで生きるか死ぬか病気になるかならないか、すべてお釈迦様のさじ加減一つ。(^^;
お釈迦様は野球の監督のようだと思います。
そろそろこの投手を変えようかとか最後まで完投させようかとか、それは選手の出来を見て決めるわけです。野球と違うのは結果第一主義じゃなくて、頑張りを見ておられる。手抜きとズルは許さない!
だから、自分が自分を精一杯いきておれば、しっかり完投させて頂けます。
頑張りさえすればいいのです、だから大安心で生きていけばいいのです。(^^;