60歳で会社を定年退職
妻との離婚裁判
多くの問題を抱えながら目的を果たそうとしていた時期
なっかしい、
この写真の彼は今はもういない
彼はこの家のオナー、
唯一タイ人で私を迎えてくれた人で
お互いに言葉も通じないこともあり向き合ったことはないが
なんか?こいつは俺を理解して、許してくれてると感じていた
タイで遊ぶ日本人は、タイで商売をしたい 店を持ちたいと
誰でもそう考え 思うようで、勝手にできる、と決め込む
私もそうでした、懐に250万円を、強く握りながら
ここの店を借りよう。
この時は、無知で
絶対に成功することはない、とは知らずにいた
この時期はネットはまだ広がっておらず何もわからなかった
ゲストハウスに滞在していた物知りに情報を聞くことが唯一で
タイ社会を自分で体験するしかなく
タイで会社に勤めて、女性と知り合い結婚?永住したい、ここに住みたい
と、思いを巡らせていた時期だ
それが、いざ会社を探すと条件が悪すぎ、ばかばかしく思えてならない
なんで?納得できない給料(それでもタイ人よりは多い)勤務時間等々
止めた、自分でやろう、経営者になる、そこに行きつきます
先に結論から言いますと
ここには店は出せなかった、
さて
職業用ミシンとタイ語の看板、いまだに何が書かれているかはわからに
写真の女性は、この店のオーナー
後に、共同経営者となる人です、
(こんな写真があるとはね)
彼女はロイエットの田舎からバンコクに16歳で出てきたらしく
一度結婚して死に別れているそうで、
現在まで縫製を仕事にしていたとの事
私が縫製の仕事を持ち込んだのですが、この店はまだオープンした
ばかりで、私は初めての客だったようです、
そうそう、こうでした、なっかしく思い出されます、
ここに毎日通いました、
ゲストハウスで起きると食事をしてお菓子を購入し
この店に押しかけます、
今日は、
彼女は少し驚いてから微笑んで椅子を進めてくれました
これで第一歩が始まりました
朝から晩までここで過ごします、彼女の仕事を見ているだけの時間が
ドンドン過ぎていきます、
じゃ、又明日来るね、
と帰ります、
この時期は、彼女がいたのですがほとんど会わなくなりました
何も連絡がないことをいいことに、私はこの店に通い続けました
それが、後日大きな問題になってくることを知る由もなく
毎日通いつずけました