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花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

西陣しらみつぶし後編

2010年06月28日 | 徘徊情報・洛中洛外
 後半の一番最初は20智恵光院です。智恵光院通はよく歩くのですが、智恵光院は初めてです。そういえば、浄福寺にも入ったことがありません。同行された方はご幼少の頃はこの獅子石の上によく登って遊ばれたということです。熊野市の鬼ヶ城の獅子岩の子供みたいな感じですね。

          

          
          弁財天

          
          獅子石

 21名和公園は南朝の忠臣の名和長年戦死の地です。近衛家陽明文庫におられる名和さんは、その子孫とうかがったことがあります。明治になってからですが、長年には従一位が授けられています。揮毫は旅順港閉塞作戦で知られる海軍大将有馬良橘。従三位のころの顕彰碑も併置されているのがおもしろい。小生はこのところハッキリと北朝贔屓ですが、名和長年は好きな武将の一人です。後醍醐天皇なんか見捨てて光厳天皇に仕えたらよかったのに。

          

 中立売通です。秀吉による地割と思われますが、堀川から御所の中立売御門まで真っ直ぐです。後陽成天皇が聚楽第に行幸されたのもこの道でしょう。

             
             22 聚楽第跡

 中立売通で堀川に架かる橋は現在は23堀川第一橋といいますが、見事な橋です。このたもとに利休の首が晒されました。橋を渡ってすぐが紺屋の吉岡家、いつの間にか剣術道場にされてしまいました。その吉岡家を遥かに遡って24小野小町が歌を書いた紙を水で注いだところ。ここでは大伴黒主が悪役です。

             

             

             

 この典雅な場所で行われたのが「一条下がり松の決闘」です。雙紙洗水遺構の石標のすぐ近く、見事にトタンで隠されていましたが、25「一条下り松」の石標。場所は吉岡家門前、一条下り松とくれば、察しの良い方は既にお気づきのように、この場所が宮本武蔵と吉岡家の争いの場所であった可能性が高い。師匠曰く「何でわざわざ一乗寺村まで出かけていって喧嘩せなあかんねん」と。
 今日の宮本武蔵像は吉川英治の小説に負うところが大きいのですが、その小説たるや100%作り話と言って良い。巌流にしても武蔵の子分達がよってたかって殴り殺したというのが真相、佐々木という名字すら怪しい。一乗寺下り松の戦いの根拠は「二天記」という書物ですが、史料的な価値は皆無です。宮本武蔵は後に島原の乱に参陣し、一揆側のつぶてに当たって大けがをしていますが、一乗寺下り松の戦いでは弓矢や鉄砲まで用意した吉岡一門と一人で対決して無傷となっています。これはあり得ない。第一武蔵の偉さはそんなところにはない。武蔵ならばそういうアホな戦いはしない。
 それこそ、証拠も何もありませんが当時のメインストリート、中立売通を歩いていた武蔵が紺屋の吉岡家の奉公人数名と何かで揉めてどつき合いをしたぐらいが「決闘」の真相でしょう。吉川英治が国民的作家であることは確かですが、例えば「三国志」なども小生は先に柴錬三国志や三国志演義(訳したモノ)、さらに正史の三国志を読んでいたために吉川三国志を読んだときには「何だ、このクササは?」と思ったことでありました。『宮本武蔵』では我が敬服する本阿弥光悦をその辺の成金のオッサンのように描いていることも許せない。地道に紺屋を営んでいただけの吉岡家も可哀想すぎる。智頭急行「宮本武蔵」駅前の武蔵・又八・お通の像など人々を惑わせるだけですから、一日も早く破却すべきでしょう。
 北に上がる小川通は昭和38年までは小川(こがわ)が流れていた跡、この辺りのお寺さんには「何のための橋やろ?」という橋が残っていますが、ついこの間まで必要な橋であったのです。

          
          小川通

 その橋を見る前に26慶長天主堂跡(イエズス会)、日本侵略をたくらんだバテレンどもの夢の跡です。牢屋に入っているように網格子の向こうなのがいかにも愉快です。近時、バチカンでは秀吉によって処刑されたキリシタンを聖人などとしているようですが、これなどローマカトリックはハッキリと日本に喧嘩を売っていると考えて良いでしょう。伊藤公暗殺犯のゴロツキを義士などと言っている韓国と同罪です。日本国政府はバチカンがそういうことをするならば国内のカトリック寺院は全て破却すると通告すべきでした。戦後すぐのスチュワーデス殺人事件を始め、日本人も結構連中には煮え湯を飲まされています。インカやアステカの人々に比べたら、その被害は何万分の1でしょうが。

          

 姿勢を正さねばならぬのが27本阿弥光悦京屋敷跡 いわゆる本阿弥図子です。師匠の言によると鷹ヶ峰に移った光悦と徳川家康の間には長坂口の要衝を光悦に与えるにあたっては「なあ、わかってるやろなあ」という黙契があったとか。誰が花を供えているのでしょう。

          

 報恩寺門前、先ほど申し述べました小川に架かっていた橋です。

          

 人形寺で知られる宝鏡寺の南東角には、やはり小川に架かっていた28百々橋(どどばし)の礎石 が残されています。宝鏡寺は尼門跡らしく本当に清楚で美しい寺なのですが、人形寺故に少しおぞましい。この辺り一帯は茶道文化地帯、そう言えば今まで何度が茶事に招かれていながら朝6時半開始にビビって一度も行けてないことを思い出しました。雨がえげつなくなってきました。師匠は、大昔に裏千家のお家元を教えたことがあると云々。「おーい、千よぉと呼んだら出てくるかな?」「やめときなはれ、不審者で逮捕されまっせ」。

          

          
          29 表千家不審庵門前
          
          30 裏千家今日庵門前

 鍋かぶり日親で知られる 31本法寺です。実に清浄な感じのする寺で、ここばかりは拝観しなくてはならぬと思うのですが、来るときが夕方ばかりで、等伯の涅槃図にも未だお目にかかってません。「オールナイトでどう?」と言いたいところですが、この寺においてはそういう軽口も我ながら不謹慎かなとも思えます。トップの写真も本法寺です。この寺の多宝塔は最も美しい多宝塔なのではと思いますが、大雨の中で写真は撮り忘れました。近々、通常の時間帯に再訪せねばなりません。

          

          
          本阿弥光悦筆

 本法寺の北隣の 32水火天満宮、ここも謎だらけですが、そろそろ腹が減ってきました。「従是洛中」の碑が一つ建てられています。これは持ってきたものだろうということです。

          

          

 その北に 33後花園天皇火葬塚、なかなかに英邁な天皇であられたようで、本法寺の再建にも力を発揮されていますが、最も有名なことは日本史上最大のアホである足利義政が寛正の大飢饉の最中にも築庭等遊びに呆けていたのをたしなめられたことです。けれども、その後は無力感を感じられたことでしょうね。アホにつける薬はないわいと。金閣は傲慢の象徴、銀閣はアホの象徴。けれども義満も義政もちょっとヌケタところがあるのは救いですね。

          

 西陣三十三所も完成したし、「そろそろ、酒を飲みに行きましょう」と小生。師匠、「ちょっと待ってくれ、見つけときたいものがある」、番外編その1尾形光琳寓居跡です。字が違いますが、昔の人は気にしない。小生も気にしない。

          

 この石標は「瓢亭」なる料理屋の横にあったのですが、この料理屋が普通の住宅に変わってしまったので前に来た時には分からなかったそうです。かの有名な瓢亭とは別の店で、問い合わせの電話を有名な方にかけたところ、おもいきり迷惑そうだったということです。このまま、上御霊社から出雲路橋まで行きそうでしたが、雨もやまないのでここで打ち止めです。
 と思っていたら、四条烏丸に出た後、「いつもお世話になっているのだから拝みに行こう」と番外編その2松村月渓寓居祉へ。そう呉春です。絵の方は何の知識も興味もないのですが、その名が池田の酒になっている。まあ言えば「あなたの号を冠した酒をいつも飲ませてもらっています」と報告に来ているのです。

             

 本当の最後は大丸京都店裏の「さかえ庵」、地酒が充実しています。予て聞いていた徳島の酒「鳴門鯛」がありました。昨年の夏、小生はこの酒を求めて大阪・京都のデパ地下を全て巡りました。知っていたのは阪神百貨店の酒ソムリエのみ、流石に「酒の阪神」ですが在庫はありませんでした。その時は別の酒を買ったので、取り寄せもせずに今まで飲めずにきたのですが、ここで飲めるとは。その味覚たるや清涼極まりなしと評しておきましょう。師匠も上機嫌、この酒を教えてくれた友人に「日本酒検定、合格や、おめでとう!」と電話しています。
 岩国の酒「獺祭」、高知の酒「南」もうまい。店のアテもなかなかですが、名物は鴨料理ということです。これは堪忍してくれと申す処。鴨料理が自慢の蕎麦屋に来て鴨も蕎麦も食わずに、酒ばかり飲んでいる我々はアホに見えたでしょうね。我々の好みはどうも西日本に偏るようで、越乃寒梅などは「何ぢゃこれ」とか「あんなもん」と評判は悪い。上善如水などは昔はうまいと思ったのですが。


6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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新鮮な気持ちになれました。 (道草)
2010-06-28 15:18:41
智恵光院通が今の半分位の幅の頃は、玄関から一跨ぎで参道に足が掛かったものです(幼児ですからそんな筈はないのですが、兎に角そんな親しみのある遊び場でした)。獅子岩に上ったりその右方にある百日紅に上ったり、釣鐘に石を当てて鳴らしたり、その都度、寺守の婆さん(出征した夫の留守をしていた夫人ですから、そんなに老齢ではなかったはずです)に追い駆けられて逃げ回りました。小野篁の作品などまるで知りませんでした。
名和公園は「なわサン」と呼んでいて、隠れん坊や鬼ごっこの場所でした。あの石碑の文字に手足を掛けて上ろうと、苦心惨澹しました。
その頃は小学校(国民学校ですが)に入学していましたので、夏休みはラジオ体操の場所になりました。戦後は、三角ベースの球場になっていました。私は疎開していましたので、たまに上京して仲間に加わったものです。

中立売通が昔の都大路とは知りませんでした。チンチン電車の線路に鉄屑を置くと脱線しかけて、飛び降りた車掌の目を眩まし必死で逃げたものです。「聚楽第址」の道標は、その頃から今の場所にあったと思います。
一条戻り橋には昔の面影はありませんが、中立売橋の橋梁はそのままです。橋の幅は広げられたのでしよう。昔はもっと狭くて全面が石畳でした。この橋の向こうは蛤御門で、ここを通って遊びに行く時は欄干の上を歩いて、橋畔にあった中立売交番のお巡りさんに怒鳴られたものです。

それにしても、一乗寺下り松ではなくて一条下り松だったとは初耳でした。とても新鮮な気分がしました。何とかは見て来たような嘘を言い、との格言は小説家のことなのですねぇ。
最近、武蔵が主人公の「バガボンド」という劇画が人気で(33巻出ていて私も読んでいますが)題名通り漂流者としてのストイックな武蔵は、まだ共感を呼ぶ面もあります。又八さえも新しい人間像として描かれています。小次郎はかなり聾唖の屈折した人物像ながら、やはり風体は女性的な2枚目になっています。吉岡一門との決闘は一乗寺でした。

この橋から後の徘徊は、連れ合いの脚力が続かず失礼しました。私は最後(の酩酊)までご一緒したかったのですが・・・。宝鏡寺へは行ったことがあります。師匠にも宜しくお伝えください。

それと、この場を借りて失礼なのですが、家内が大手筋「油長」の盃1杯150円~420円・口直しの突き出し(200円)が付く・・・との新聞記事を切り抜いて、徘徊堂さんへ送るようにとのことです。「そんなもん知ってはる」と言うて預かっております。それと、加えて失礼なのですが、「熊除けの鈴」をFさんから頂戴しました。有難うございました。これでイノチが伸びます。また、「西陣虱潰し蚤倒し」の企画を宜しくお願いいたします。
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中立売通など (gunkanatago)
2010-06-28 16:10:58
 道草様、コメントをありがとうございます。メインストリートといいましても、織田信長による二条御所の造営から聚楽第の破却までのごくわずかな期間、この通りがスポットライトを浴びたという程度のことですが、堀川から御所まで真っ直ぐの線は後陽成天皇の聚楽第行幸時に秀吉が整備したのかも知れませんね。あの界隈、やはりどこを通ってもイタズラ盛りの道草様がおられますね。
 油長に関して、奥様のお気持ちがうれしいので、またお会いしたときにその記事を読ませていただきます。小生のせいではなく、大酒飲みの知り合いが原因ですが、油長に行くと利き酒が利き酒でなくなり結局最後は何を飲んだか解らなくなってしまうということをやっております。小生は好みませんが連れは皆、酒盗だけでグイグイとやります。30種類の利き酒をやって、「さあ黄桜に行って地ビールを飲もう」となると呆れるを通り越してささやかな感動すらおぼえます。
 宮本武蔵、水戸黄門やあばれんぽう将軍のように娯楽活劇として楽しむ分には何も問題がないのですが、史実の仮面を被っているところが気になります。智頭急行の駅前の像にしても「吉川英治文学碑」としてならば、まあいいかなというところですが、お通や又八が如何にも実在の人物の如く扱われているのは問題有りだと思います。
 鈴は師匠から小生を経由したものです。本格的な鈴は登喜和の斜め前の森林組合が扱っています。
 最後に行きました蕎麦屋は、地酒に関しては本当に○でした。また、御一緒できるときを楽しみにしております。 
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歴史小説 (mfujino)
2010-06-30 05:03:49
gunkanatagoさま、 宮本武蔵と吉川英治の話が心に残りました。お話しと史実との乖離についてはかの忠臣蔵が最たるものなのでしょうが、私の様に歴史を小説で楽しむ人間にとっては気になる話です。史実と史実の空間を埋めて一つの作品に仕上がるのでしょうが、その空間の埋め方によっては正反対の作品が出来上がることがありますがこれは受け入れられますし、作者の解釈を読むのは楽しいことなのですが、しかし史実を曲げて作品を構成されてしまうとこれは困ってしまう。

私には吉川英治の作品がその様なにおいがプンプンしてくるので彼の作品は読んでいません。読まないで論評もヘチマもありません。これは我が予感というか第六感の世界です。
そこに今回の記事を読ませて頂いて我が六感の正しさが証明された様で嬉しく読ませて頂きました。

まあ史実というのも新たな発見などで時代と共に変わるものなのでしょうし、また仮説を立てて調べてていくと史実が見つかる場合もあり、このあたりが歴史物を読む楽しさでもありますね。
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むしろ荒唐無稽な方が (gunkanatago)
2010-06-30 13:23:35
 mfujino様、コメントをありがとうございます。お書きになっておられますように史実と史実の谷間を想像で埋めていくのが歴史小説の方法だと思いますから、その史実には余程注意を払わなければならないのだろうと思います。全面的に好きなわけではありませんが、司馬遼太郎氏などが残した膨大な資料群はそれを物語っていると思いますし、船橋聖一氏などもすごい勉強家だったのだなあと彦根の美術館で感心したことがあります。
 かたや、完全にエンターテイメントに徹する者として柴田連三郎や川口松太郎、山手樹一郎などの各氏によるものがあると思うのですが、これらは読んで楽しいからいいと思うのです。五味庚祐氏などは個人的には柳生家の研究を随分していたようですが、やはりこちら側かなと思います。
 その意味では吉川英治氏は後者なのに前者の皮を被っているようで、氏も又大変な勉強家であったようなのですが、自らのウソが本当のように伝播していく危険性は考えなかったのでしょうか。ただ作品そのものより、それを商業ベースに乗せて煽って行く者が一番悪いようにも思います。全国を探してみれば熱海の「お宮の松」のようなものはたくさんあるでしょうね。
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西陣のお寺 (ささ舟)
2010-07-03 20:14:38
こんばんは~、一日強い雨降りでした。
娘たちが嫁いでから、飾ることも触ることもなく居場所をなくした人形を整理して人形寺に納めました。買った時より毛が伸びたような気色悪い人形(私だけがそう思っていた)、可愛いくて何時も抱っこして遊んでいた着せ替え人形の青い目は正気をなくして眠っていました。そんな中から何体かを宝鏡寺に納めて帰る時何故かほっとした気持ちになったのを今でも覚えています。
学生時代、西陣の「湯だくさん茶くれん寺」の近くに友達がいました。遊びに行かないまま終わりましたが、その名前を聞いた時みんなで大笑いしたのをこの文章を見せて頂いて思い出しました^^
吉川英治の本は読んでいませんが、確かに智頭に行く時宮本武蔵駅を通りました。武蔵の生誕地かな?位にしか思っていません、向学心がまるでない私であります。
今日も楽しく廻らせて頂きました。徘徊の仕方楽しみ方をgunkanatagoさんに学び少しは話についていけるようになりたいものです!もう石になった頭では駄目かも^^

叔母と伊豆方面に行って来ました。

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西陣の徘徊の2 (gunkanatago)
2010-07-05 12:37:29
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。宝鏡寺さんが人形供養をしてくれるから多くの人の心が救われているのですね。気色悪いと言うとバチが当たりそうですが、まあ敬遠というところです。
 「湯たくさん茶くれん寺」、次の徘徊は上七軒から天神さん方面かなと思っておりますので、必ず予定に入れます。ご友人がお嫁に行っておられなければ寺におられるでしょうね。何やかやと言われている太閤さんですが、おもろいオッチャンであったことは確かですね。
 伊豆は長いことあこがれていて、未だに足を踏み入れていません。「伊豆の踊子」もさることながら、井上靖の「しろばんば」の舞台、湯ヶ島から天城峠に歩いてみたいと思っています。
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