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花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

細野から周山城祉へ

2011年04月13日 | 徘徊情報・丹波国
 4月1日に京北トレイルの一部通行止めが解除されました。4月の末には「御室の桜」の影響で、京北方面に向かうバスは1時間の遅れは覚悟せねばならぬ。「今しかないやんけ。」ということで、細野から周山城祉まで歩いてきました。
 9時30分京都駅発の周山行き、3週間前とはうって変わり乗客が多い。早くも混み始めた仁和寺周辺、その影響で約20分遅れで細野に到着、先ずはR162なるレストランでピラフとビールをやらなければなりません。ヌフフフフフ。

          

 今は「Mt.WEST」と名前が変わっていますが、壁のR162はそのままです。ここで飯を食うのは本当に久しぶりです。ところがところが、今はピラフどころか軽食はメニューになく、何と何とビールもありません。「京北トレイルですかー?滝又の滝ですかー?」とオネエチャンの愛想は良いのですが、こちらとしては最初から予定が狂ってしまいました。結局はコーヒーとトースト(食パン1枚)で店を出ました。既にこの近くの「カーズ」も廃業していますから、細野バス停付近には飯は無し。酔候庵も開いている保証はないし…。
 この後、腹がヘルことは明らかですから、簡易郵便局の隣の自販機で何か滋養になるものを探します。「カロリー0のコカコーラ」、アホーこちらはカロリーが要るんぢゃ。ということで90キロカロリーの汁粉がありましたから5本ほど買い込みます。計450キロカロリー、迷って山中で一夜を明かしても大丈夫。
 細野の交差点を八木方面に進みますが、交差点には「薬師寺」の道標、平成元年のもので、そう古いものではありません。

          

 向かいの駐在所の隣は春日神社、いつも前を通らせて頂いていますが、お参りは初めてです。こんもりとした山を背負っていますね。境内は綺麗に掃き清められています。

          

          
          狛犬の口の中の珠は取り出せそう。

          
          神楽堂

 トレイルの92番だったか、道路から山に入っていくところは下のような感じです。本日はここをパスして、さらに道路を西に進みます。ここが木材を搬出するところでした。

          

 今の道路はバイパスですが、旧道は北に見える山に沿って伸びています。

          

 強烈な南朝贔屓であった小生が北朝方へと転ずるきっかけとなった光厳上皇、この方が山国に入られる前に立ち寄られた薬師寺がこの集落にあります。相変わらずのアナクロニズムですみません。境内には解説など一切ありませんでしたが、本堂に「勅願所」の額、寺への入り口には石標がありました。境内でボケーとしていたら、洗濯物を持って尼さんが姿を現しました。挨拶をする間もなく、また屋内に入られたので、尼さんの一人住まいとかだったら小生など不審者以外の何者でもないなあと思って、こちらも退散します。

          

          

             
             光厳法皇勅願所

 薬師寺の裏山をエイと直登して、いきなり迷うのもイヤですから、ここは西に行き、弓槻峠を越えます。トンネルができてからは随分ご無沙汰でしたが、この狭いところでダンプと離合していたとは。

          

 かつて小生の車とすれ違った軽自動車が転落したところ、浅い谷で良かったのですが、あの時は慌てました。峠の細野側の入り口にある家に走り込んで救援を依頼しました。同乗者曰く「あんたのせいやで」と。小生は山側で車を止めて待っていましたから無実であります。

          

 また、弓槻側の下り、大雨の日に通行中、前方で土砂崩れ。本当に間一髪でしたが、この後は苦労しました。今のようにバックモニターが付いていませんから、真っ暗な中を2、3メートルバックしては降車して路肩を確認、ずぶ濡れになりました。昔からバックで走るのは嫌いでしたが、この時以来大嫌いになりました。その後、警察に通報、こんな立派な協力者を卑劣なねずみ取りにかけるとは警察は恩知らずだ(笑)。
 思い出満載の峠を越えた後は右側の林道に入ります。林道が尽きたところからは杉の植林帯に入り、エイヤと直登するとトレイル86番付近に出ました。

          

          
          ここからトレイルに復帰

 ここから魚ヶ渕までは、木材の伐採をしたばかりですから、よい景色を眺めることができます。道はまだまだ荒れていて、落ち着くまでには2~3年はかかるでしょう。それでいくと、医王沢はそろそろ綺麗になり始めているかな?トップの写真はこの付近からの魚ヶ渕集落です。よく見ると吊り橋も見えています。

          

 ここから一旦下って、向こうの山を越えていけば、目指す周山ビール周山城祉です。下るにつれて、吊り橋もはっきりと見えてきます。

             

          

 有名な枝垂れサクラは未だ一分か二分程度の開花、それでも花見の老カップルが二組、橋のたもとにシートを敷いて座っておられました。橋の防腐剤が塗り立てで、コールタールのニオイがプンプンしている中でよく座っていられるなあと感心しました。

          

          
          つぼみのピンクで全体がピンクに見える

 初めて来たときから、道路が拡幅されています。駐車場なども整備されましたが、少し情趣は失われたように思われます。トレイルの示すままに柏原の集落までは道路を歩きます。若くして亡くなられた魚ヶ渕の佳人の跡はこの辺りなるや等と思いながら歩きます。

          
          魚ヶ渕を振り返る

 柏原という集落で林道に入り、さらにトレイル74番で山道に入ります。林道ではこの春初めて立派な青大将に出会いました。この冬は厳しかったなあ、食べるものはあるか?等と話しかけると不思議と動きません。こちらの言葉をじっと聞いているように思えます。カメラを出そうとモゾモゾするとスーと谷に下りてしまいました。

          
          トレイル74番付近

 トレイル72番からは、本コースから離れて周山ビール周山城コースへ。黒尾山(509.4メートル)三角点の近くには既にトレイルの表示標が立てられていました。おお、この頂上にもとトレイルを整備されてきた方々に頭が下がります。ただ、72番からここまでは未だ確たる道もなく、しかもロックガーデン(笑)、小生のような物好きでないとちょっと無理ではと思われますから72番から頂上までの道の整備は必要です。日にちが合えば手伝いますよー。これで東西どちらの黒尾山も登ったぞーい。

          

 黒尾山を過ぎれば周山城の縄張りの中に入ります。トレイルの地図では本丸跡以外に西にも城跡記号が記されています。何かあるのかなとウロウロしましたが、何も見つけられませんでした。

          
          西の城跡マーク付近

 小姓丸の中心地でしょうか。広い削平地も今は杉林。本丸に向かう途中には堀切らしきものもあります。

          

          
          堀切か?

 本丸跡に近づくにつれて石垣が姿を現すようになりました。宇津城落城の1579年以後、かなり本格的に築城が進められたようです。明智の没落で築城が中断されて今日に至ったものと思われます。

          

          

          
          本丸跡

          
          同じく本丸跡

          
          説明板

 周山城を後にしていよいよ周山ビールに。途中、越えてきた魚ヶ渕の後ろの尾根がはっきりと見えています。トレイルのコース設定などは、やはり京北の山々を熟知している人でなければできないなあと改めて思います。

          

 道路に出るまでに随分と多くの倒木を見ました。今年の雪によるものです。倒れた杉の根、いかにも浅すぎます。これでは雪には向かえない。国や府が杉林を水源涵養林にしているところもありますが、これは一種の「ダマシ」です。こんなに浅い根っこでは水も抱かないでしょう。北山の山々の尾根付近の雑木林の木々、よほどに小さい木でも岩にしがみついている根などを見るとその逞しさに感心しますが、植樹された木は本当に卑弱です。

          

 林道の終点、周山ビールが見えています。5分後には行くからね。

          

          

 久しぶりの周山ビールです。昨年の8月14日(こういうことは執念深く覚えている)に来たときには、自分は運転手で、弁護士志望のオネエチャンがうまそうにお試しセットを飲むのを横で「ウー」と眺めていただけですから、もしかしたら本当に一年ぶりかも知れない。この店は料理もよいが、何よりも人が良い。日本酒は希望を言えば見つくろってもらえます。山々が見渡せる明るい部屋で、ヴァイツェン、アンバエール等の地ビール、さらに冷酒などを飲み、ほろ酔いで京都駅行のバスに乗れば、最初に目が覚めたら高雄、次に目を開けたら早くも京都駅です。結局汁粉は抱えたまま帰宅ということに相成りました。              


9 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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周山城趾のことなど (mfujino)
2011-04-13 21:37:48
gunkanatagoさま、 高間谷から入らずに弓槻峠からとはgunkanatagoさまらしい。栗尾峠から西へ延びている林道が大川表林道です。とちゅうからこの林道に入られたのかしら?86番へ出られたとのこの林道からの眺めが良いですよね。城丹国境尾根が見渡せます。目指す黒尾山からの尾根に拡がる周山城趾が見えていますね。

黒尾山から周山城趾を通って周山へのコースは今月中にオープンします。道標は既に設置されていますが案内の表示がまだでしょう。先日これを確認すべく歩いて来まして(私はその作業はしていませんが(^_・) )現在作成中です。出来上がり次第道標に貼り付けて完成です。ただあの柱だけでなく87-1とかの枝番をつけた軽い標識はどこにどれだけ設置するのかは小生は知りません。先日twitter上で他のトレイル部員の人と堀切を真っ直ぐ下りたりしない様に誘導するなどの工夫が必要だなどと話して、いや筆談していました。
黒尾山への上り下りはかなり急でしょう。嫌な人は傍の黒尾林道を歩けば合流します。しばらく林道を歩き右に別れたところからが城趾が始まります。村山曲輪・藤本曲輪・比田曲輪と続きます。石垣はありませんが土が盛られていてそれらしい雰囲気です。更に行くと堀切が二つあります。送電線の鉄塔があるところです。更に進むと小姓曲輪。ここに残るのが一番大きな石垣ですし、井戸跡もありますね。本丸にある案内板ですが、あれは北桑田高校の生徒さんが作り、担ぎ上げたものです。相当重かったはずですがよく運び上げたものだと感心しています。
今私の手元には若江茂さんの縄張り図がありますが、本丸から北の方向にある尾根にはそれぞれ曲輪がありましたし、南に延びる尾根にも曲輪がありました。。途中ヘヤピンカーブ丈に曲がるところには馬駈場があります。アンテナが立っているところかな。これを見ていると周山城の壮大さが伺えます。昨年の春だったか、若江さんのお話しを聞いた時に、なんでこんなところにこんな大きな山城を築いたんでしょうね、と質問すると、天下普請だからだろう、と答えられました。
この10月10日にはゼミナールハウスの西の鯖街道講座でかの高橋成計先生に1時間程話をしていただき、そのあと一緒に城趾に上り現地説明をしていただける様にアレンジしました。この機を逃す手はありませぬぞ(^_・)
黒尾山を下り林道を東に少し行くと立派な桧の林があったでしょう。これは京都府と契約して桧を育て京都の文化財の保護に使う木を育てておられます。途中檜皮を向いた木があったと思いますが…今は檜皮を剥く職人さんが少なくなったそうです。
この周山城の縄張図などの資料はいつか我がブログにまとめてアップしたく思っています。
あ、それと本道を下ると雪による倒木が凄かったでしょう。道も塞いでいたのですが、京北トレイル部長が道を通してくれました。
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周山城 (gunkanatago)
2011-04-14 14:00:15
 mfujino様、コメントをありがとうございます。また、様々な情報をお知らせ頂き感謝いたします。黒尾山などのトレイル道標には、ルート図が仮止めされていました。一部、風でどこかにとんでしまったものもありましたが、本当に整備されている方々に多謝です。10月10日の講座、素晴らしいですね。お話を是非伺いたいと思います。
 灯台もと暗しのことわざ通り、今回初めて周山城祉に行きましたが、その広大さにびっくりしました。一つ一つの削平地の広さが違いますね。天下普請ということは、織田信長にも築城の報告は行われていたと思いますが、この城山に天守閣がのっていれば、それを栗尾峠や今回の86地点あたりから眺めたら素晴らしい景色だろうなと明智の短慮が残念でなりません。けれども、古代以来特別な位置にあった山国郷の人々は、そういう築城をどのように捉えていたのか等も興味深いです。
 以前に頂いた京北の昔語りに、侍が石を取りに来たりなんやかやと乱暴をはたらく話が多くあったように思いますが、これなどは築城時の記憶なのでしょうか。北桑田高校の生徒諸君の頑張りはすばらしいですね。以前に近江の朝鮮人街道を歩いたときの資料は彦根東高校の生徒の手によるものでした。若いからと言ってなかなか侮れません。彼らは英語も数学もやらねばならないのですから、そういうことをやらなくてもいい我々は自分の勉強でもっと頑張らねばと励まされますね。
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京北ビールルートへ。 (道草)
2011-04-17 09:22:06
私はこのコースを、昨年の初夏に逆に(魚ケ渕→細野)歩きました。それがマトモなルートだったのかも知れませんが、下熊田からの黒尾山の登りも、魚ケ渕淵からの医王坂の登りも、それなりにキツイものがありました(多分にトシのせいかも知れませんが)。ちなみに、周山城址へは、昨年の夏にFさんのご案内で本道(?)から登りました。山芍薬が咲き残っているのが印象的でした。蝮草も咲いていましたが。
徘徊堂さんが歩かれた専門的なルートは私などには無理ですが、弓槻谷(ゆづきたんが正式な呼称です)は昔は谷川添いの細い山道で、遠足で越えたものです。細野の滝野町で火事があり、この谷を越えて見に行きました。10軒ばかり焼けた大火事でしたが、到着した頃は消えた後でした(残念がってはいけませんネ)。
余談ですが、地元では、谷を「タン」と発音するようです。栃本と中地の間にある沓ケ谷もクツガタンと呼びます。釈迦に説法でした。酒家に説法ですか・・・。
15日に訪れた魚ケ渕の枝垂れ桜は、丁度満開でした。横の染井吉野が白っぽいので、枝垂れ桜は色が地味に見えます。もしかして、薄墨桜とかの種類でしょうか。薄命の佳人(長命の佳人も居られますが)の住居跡は更地になり、ベンチなどが置かれています。地元の人達の休憩所になっているのでしょうか。徘徊堂さんが次に訪れられましたら、せめて一輪の花などを手向けて(心あらば)下されませ。私の場合は、ビールでも掛けて下されば嬉しいです(恐らく忘却されるとは思いますが)。
京北トレイルの新ルートも完成間近とか。このルートだけ歩いて、やはり行き着く先は周山ビールが正統でしょう。仰る通りH酒造の従業員は中々親切です。私が宇津村へ疎開する前に周山に1カ月だけ知人宅に居候していて、H酒造のご令嬢と田圃の溝へ浸かって遊んだことがあります。ずぶ濡れになって(当然です)家へ送って行き、母上に睨まれたニガイ経験でしたが。ご令嬢は私より2歳ばかり年長と思いますけど、今はどうしておられますやら。周山ビールが飲みたくなりました。いつかお付き合いください。
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周山ビール (gunkanatago)
2011-04-18 12:46:10
 道草様、コメントをありがとうございます。周山ビール、いつでもお供します。日にちが合えばいいですね。弓槻谷の昔の話、ありがとうございます。ささやかな流れは、今は道路の横で申し訳なさそうにチョロチョロと音を立てています。
 魚ヶ渕の薄命の佳人の旧居祉、分かります。実はそこで一休みしました。今度訪れるときはささやかなりとも花などを持参しなくてはなりませんね。あの場所に確かに人の暮らしがあり、あの英語の教科書を一生懸命にひもといた人がいた。今ここにこうしていても、魚ヶ渕に春の爽やかな風が吹いているだろうと思います。
 小生にとりましては、「京北の全ての道は周山ビールに通ず」です(笑)。ただ、余野辺りに出たときには「酔候庵もあり」という習慣も確立しておかねばなりません。
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細野・周山城 (ささ舟)
2011-04-18 17:30:29
あら!細野の旧R162レストランにアレを食べに行きたいなと思っていましたのに、メニューから除外されましたか。それは残念であります。むかしK村から京都に出るのは、トラックに乗せてもらって細野、笠峠経由か、八木から汽車に乗るかの方法でした。運動会も行きました。だから細野は身近に感じます。薬師寺のあるのは下細野ですか?その近くに恩師宅があって一度だけ遊びに行きました。また細野川の上流に八畳岩という大きな岩のある辺りでキャンプをしたり水浴びにも行きました。
周山城の石垣、見事に残っているのですね。これは凄いです!この城山の標高はどの位あるのでしょうか?
鯖街道の講座に参加したときは周山ビールに行きます。お試しビールと裂き烏賊もどきの酒粕の焼いたんがたまらなく美味しいであります。山男でなくても病み付きになりそうです。
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R162 (gunkanatago)
2011-04-18 17:55:31
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。そうです、ピラフどころかビールもないのです。あるのはトーストとコーヒーと紅茶だけ。それでも、コーヒーの回数券というかそのようなものが多数貼り付けてありましたら、今は栗尾トンネルの工事関係者や山仕事から一息という人たちで栄えているようです。トンネル工事が終われば、コーヒーだけでやっていけるはずはない(断言)と思いますから軽食も復活するのではと思います。近くの酔候庵も親切でおいしいです。
 薬師寺は多分下細野というところだと思います。この寺の前の道を20年ほど前にご主人が歩いて行かれたのは確かです。周山城祉ですが、黒尾山(509メートル)より少し低いところにあります。周山で250メートルはありますから落差は230~40メートルくらいではないでしょうか。
 酒粕の焼いたん、それ、知りませんでした。今度必ず注文しますね。
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周山城・薬師寺など (mfujino)
2011-04-18 18:46:32
gunkanatagoさま、周山城には天守閣はあったはずです。といいますのは、天守跡に瓦が発見されていますし、現に私もある城ファンと登った時丸瓦の破片を見ました。勝手に持って帰ってはいけないのですが、放っておけば誰かが持って帰り無くなってはと判断し職場の机の中に預かっています。また弓削の福徳寺には周山城の天守にあったとされる銀貼りの障子が残されています。これらは建物の存在を示すものですし、城を調査された人はそれぞれ天守の想像図を描かれています。上のコメントで触れました若江さんは3層の天守を描かれていますが、何れにしても今見る様な壮大なものではないでしょう。でも栗尾峠からは十分に眺められたでしょう。

もう一つ、光秀の軍が細野へ築城用の石を求めてやって来たときは激しい雷雨の為撤退し何を逃れたという話が京北昔がたりに載っていますね。薬師寺の柱にはその時の刀の傷跡が云々という話を聞いた様に記憶していますが詳しくは分かりません。あの昔がたりを読むと光秀軍は弓槻峠を越えてきたのではと想像しています。

更に、弓槻峠にはタヌキの話もあったと思います。細野から弓槻峠を越えて法事に宇津へ行かれたお爺さんがお土産をもって夜に帰える途中、タヌキに合い、こんな大きなぼた餅だぞ~というと、こんなのか、と腹を膨らませ、もっと大きいと答えると、これ位か、とどんどん膨らませ弾けてしまった、という話だったと記憶しています。かの蛙が水を飲んで…の話と同類なのが面白いですね。

酔候庵。先日私が言った時は既に昼の営業は終わっていましてまだ行けていません。よく見ると御飯おかわり自由の旨がかいてありますが、どうもあの店の看板は目につきにくいですね。

薬師寺の光厳法皇勅願所という石碑はいかがなものでしょう。光厳法王が高雄から松尾峠を越えて薬師寺で休まれたのですから、その時既に寺はあったのではと解釈しますので勅願所というのはどうでしょうね。これは詳細を確認していませんので軽々しく言えませんが…。松尾峠から法皇をおんぶして手助けした村人に松尾姓を名乗るがよいと言われた様なことではないでしょうか。一度訪れたい寺ではあります。
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周山城の縄張図 (mfujino)
2011-04-18 18:49:25
をメールしておきましたのでよろしければ参考にして下さい。若江茂さんのものです。
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ありがとうございます。 (gunkanatago)
2011-04-18 20:42:03
 mfujino様、またまたお世話になりっぱなしで申し訳ありません。縄張図、明晩に確認させて頂きます。本日はクロさんのディナータイムです。
 周山城の天守、惜しいですね。成瀬家程度でも犬山城ぐらいのを建てるのですから、当時の光秀の実力ならばそれ以上の大きさはあったのではと思います。それとも、備中松山城みたいな感じでしょうか?
 薬師寺、ご指摘の通り勅願所はおかしいですね。光厳法皇御聖跡とかの方がいいですね。もともと法皇様が残された寺号の額か何かがあったのではないでしょうか。勅額がなまってしまったのかも知れませんね。弓槻峠のタヌキの話、今日早速読み返してみますね。
 酔候庵、門が開いているかどうかで判断しています(笑)。定食はご飯をお代わりする必要がないほど「おかず」が付いています。食後にでれーと寝っ転がれるのが嬉しいです。一度、ここで酒を飲みたいなーと思っています。
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