
・源氏は明石の君に、
走り書きのたよりでもことづけたい、
と思った。
<侘びぬれば今はた同じ難波なる
身をつくしても逢はんとぞ思ふ>
ふと源氏が口ずさんだのを見て、
惟光が硯に筆などを渡す。
<みをつくし 恋ふるしるしにここまでも
めぐり逢ひける縁の深しな>
(やはり縁がありましたね。
ここで逢えようとは)
手紙を明石の君の事情を知っている、
下人にことづけた。
明石の君はうれしくて、
涙がこぼれた。
<数ならで難波のこともかひなきに
などみをつくし思ひそめけむ>
(物の数にも入らぬわたくし、
なぜこうもあなたを愛してしまったのでしょう)
(会いたいな)源氏は思った。
日も暮れ、夕潮が満ちて、
鶴が鳴き渡ってゆく。
そんな物あわれな夕に、
手紙を受け取ったせいか、
明石の君のおもかげが源氏の心から去らない。
明石の君は、
源氏の一行をやりすごして、
次の日、住吉にあらためて参詣し、
お供えも奉った。
しかし、源氏の姿をかいま見たので、
物思いは深くなっていた。
(いまごろは京にお帰りになったかしら)
と思うまもなく、使いが来た。
「近いうち、京に迎えたい」
明石の君はうれしかった。
しかしまた、
生まれ育った明石を離れるとなれば、
不安で心ぼそいことであろうと、
思い悩むのであった。
入道も娘を手放す決心はつかないし、
このまま田舎で埋もれさすのも、
あわれだと物思いが尽きなかった。
かの伊勢の斎宮は、
先帝のご退位のおり替られたので、
母君の六條御息所ともども、
都へもどられた。
源氏は昔にかわらず、
御息所に求愛していたが、
いま御息所は、
ふっつりとそういうことには、
取りあわないでいた。
昔のあの苦しみを、
二度とくりかえすまいと、
決心しているのであった。
源氏の御息所に対する気持ちも、
自信のもてないところがあった。
身分がら忍び歩きも面倒になっているし、
強いて逢うこともしないでいた。
御息所は帰京後も、
六條の旧邸にいた。
きれいに修理させて、
そこに姫君と二人、
みやびやかに暮らしていた。
そのうち、御息所はにわかにわずらって、
病いの床についた。
寝込むと御息所は心ぼそくなって、
とうとう尼になった。
源氏は驚いた。
今では、色の恋の、
という筋の人ではないにしても、
こよなき話し相手と信じて慕っている。
その御息所の急な出家は、
ある衝撃に違いなく、
とるものもとりあえず六條邸を訪れた。
「私にひとことのお言葉さえなく・・・」
御息所は枕上に源氏の席をもうけ、
自分は脇息によりかかって、
几帳ごしに会っていた。
源氏は御息所がひどく衰弱しているのを察した。
(愛していた。
いまも愛している。
それをこのひとは悟らずに終わるのか)
と思うと、
源氏は涙を流す。
嫉妬の沈黙、怨みごとに倦み果て、
果てしなくいがみあいながら、
また時をへだてて会うと、
ひとときも体を離さなかった。
傲岸で、そのくせ傷つきやすく、
相手の顔色に一喜一憂しながら、
それでいて平気でつれない仕打ちができた。
あの恋の惑乱の日々。
ひととせの秋の日、
野の宮の別れに源氏は、
(もういちどやり直したい)
とすがった。
けれども気位たかいこの女人は、
二度と引き返そうとはしなかった。
「あなた・・・
お悲しみにならないで下さいまし。
わたくしは本当に楽しい時を過ごしました。
嬉しゅうございます。
でも、ただ一つ、心残りがあって、
それをあなたにお願いしとうございます」
「何なりとも。
あなたの仰せは命に代えても」
「姫のことでございます。
わたくし亡きあと、
心細い身の上になりますのを、
どうかお心にかけてやって下さいまし。
ほかに頼る方もなく、
ほんとに独りぼっちの孤児の姫なのでございます」
と言いさして御息所は烈しく泣いた。



(次回へ)