
・たつ源氏の指定の日までは、
十日ばかりあり、
行かぬならば返事を出せる余裕はある
しかし私は断り状を出さなかった
私もまた、
いそいそと当日、
鳥取へ向かったのである
白と茶の千鳥格子の旅行用スーツに、
私はブラウンで上辺を染めた眼鏡をかけ、
小さなスーツケースを持って
大阪はよく晴れていたのに、
三、四時間で着く鳥取は、
陰鬱に曇って雪もよいだった
しかしそれさえも嬉しい
小さい宿に「たつ源」氏の名前で、
二名予約がしてある
彼はまだ到着していなかった
露天風呂は庭の隅にあり、
湯気があがっていた
雑木の落ち葉の、
赤いのや黄色い葉を浮かべて、
ゆらゆらしており、
こんこんと湯が湧いていて、
見るからに心たのしかった
湯はあふれて足元の敷石から溝へ、
湯気に包まれて落ちてゆく
「お入りになりますか」
と女中さんにいわれたが、
たつ源さんと入るのもいいではないか、
と思い、私はあとにする
日の暮れは、
山陰の宿では早く、
電灯がつきはじめた
「お連れは遅うなられますか?」
と聞かれても、
答えられない
足元が頼りなげに見える人だったので、
何かさし障りでも起きたのであろうか
小さい宿だが、
親切でもう少しお食事を、
待ってみましょうといってくれる
私は思い切って、
電話を入れてみることにする
しかし番号を知らないので、
長男の会社へかけた
長男は私が辰野というが早いか、
「そやがな、
あこのおじいちゃん、
ゆんべ倒れはって、
入院してはるのや
今晩にも見舞いにいかな、
と思てるのや
もうトシやさかい、
こんどはあかんやろ、
いう話や
・・・うん、まあ老衰いうとこやろか、
トシに不足ないしなあ
今晩、一緒に見舞いに行こか、
僕、迎えに行こか」
私がマンションからかけていると思って、
そんなことをいっている
私は静かにひとり、
露天風呂へ下りてゆく
裸になると、
震えあがる寒さだったが、
湯は熱かった
ひとりで入って、
私は「ときめき」の湯を、
ざぶざぶ浴びている心地である
そうか、
たつ源さんも、
あかんようにならはるのか
けど、ええもんを私に残してくれはった
恋のときめきこそ、
人間の体の最高のくすりや
しかし、
たつ源さんと泊る機会は、
もう永遠に来ないであろう
そう思うと湯ざめのような、
淋しさが心にひろがるのである
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・このごろ私は、
自然に生きるということに、
関心が強くなった
といって何も、
山菜とか野草を食べ、
はだしで太極拳なんかやるという、
そういう生活タイプではない
もっと大本の人生のタイプ、
とでもいうようなものである
七十七ともなれば、
生きるのも死ぬのも、
自然の流れに任せよう、
そう思い出したのだ
といって、
体も健康、気分も晴れやか、
この調子では百二、三十ぐらいまで、
生きられそうだと、
ひそかに思っているのであるが、
それも、
やりたいことだけやり、
会いたい人にだけ会うという、
今の自然に沿ったやりかたを、
しているからではないかしら
それで魚谷夫人が来て、
「結婚したい人が出来ましたのよ」
と嬉しげにいったときは、
「えっ」
と驚いたものの、
それが魚谷さんの自然かもしれぬ、
と思った
私はとてものことに、
結婚なんて不自然なことは出来ない
魚谷さんは七十一、二である
相手の男性は八十一だという
魚谷さんは英語教室で知り合った、
私の友人であるが、
教室では「エバ」という名を、
先生にもらっている
夫に十年ばかり前に、
先立たれた人だが、
子供も兄弟もいない身の上
魚谷さんは、
亡夫からいくらかの資産を遺されたらしく、
生活に困る様子もなく暮らしている
大きい会社のえらいさんだったという亡夫は、
郊外に大きい邸を遺してくれたが、
一人になると広すぎて売ってしまった
そうして下町の小さな借家に、
住んでいる
「マンションはきれいだけど、
近所づきあいがなくて淋しくて」
という
「そこへくると、
下町はいいですわ
お隣からおかずをもらったり、
こちらもお漬物をあげたり、
お隣は若夫婦でね、
いま三つの男の子がいますのよ
この子が私によくなついてくれるので、
嬉しくて
来年にはもう一人できるんですって
私まで楽しみにしてますのよ
よそ孫ができたみたいで、
嬉しくて」
などと話す人である
私など近所づきあい、
係累身内がわずらわしくて、
マンションへ入った
それが私の自然であるが、
魚谷さんが、
よそ孫ができたよう、
と喜ぶのも魚谷さんの自然である
すべて自然、自然
自然体でいこやないか、
という気に私はなっている
だから魚谷さんが、
結婚するといっても、
やめなはれ、とも、
それはよかった、と手放しで、
お祝いをいうこともなかろう
魚谷さん、教養もあり、
言葉づかいも上品で、
私は好きである
それで家のパーティや、
宝塚観劇にも一緒に行く仲である
小柄だが、
色白の顔に薄化粧し、
少ない髪をうまく束ねて、
見苦しからぬ風である



(「姥湯ざめ」了 「姥ひや酒」次回へ)