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Feelin' Groovy 11

I have MY books.

『悼む人』を紹介するなら今日だと思って。

2009-08-06 | 
8月6日、
広島への原爆投下の日。

愛媛県今治市では空爆で450人を超す人の死が記録されていることを
『悼む人』(天童荒太著 文藝春秋)を読んで初めて知った。

大きな事件や報道頻度が高いものに目がいきがちであることを痛感した。

知らず知らずのうちに
人の死に軽重をつけていないか―
そういう感覚は、生きている人に対しても差別をつけはしないか―――


この本では「見ず知らずの死者を、どんな理由で亡くなっても分け隔てることなく、
愛と感謝にかんする思い出によって心に刻み、その人物が生きていた事実を長く
覚えていようとする人」が主人公だ。

読んでいると偽善かと思ったりもする。

けれども主人公の母親の言葉がすべてだと思い直した。


  ある人物の行動をあれこれ評価するより・・・・・・
  その人との出会いで、わたしは何を得たか、何が残ったのか、ということが
  大切だろうと思うんです。
                   (『悼む人』天童荒太著 文藝春秋)





空のレンズ

2009-07-09 | 



   「俺の住んでる街なんて、ただ人が多いだけの、薄汚れた、
    なんの取り柄もない街だけど、たまに西の空に、
    ものすごくきれいな夕焼けのかかることがあるんだ。
    でも、どんなにきれいな夕焼けも、自分のものにすることはできない。
    ただきれいだなと思って見ているしかない。そのうち夕焼けは
    消えてしまう。そして二度と、同じ夕焼けは見られない。」

   言葉に詰まった。何か伝えたいのに、伝わらないもどかしさが胸に残った。

                   (『空のレンズ』片山恭一著 講談社)
           *写真はgroovyが自分家のベランダ風景を勝手にコラボ



片山恭一さんといえば、あの…『世界の中心で、愛をさけぶ』の著者ですが、
(以前にもコチラで他の作品の感想を書いてます)
これはチャットで知り合った少年少女の、
現実かバーチャルか分からない空間からの脱出劇。
随分バラエティに富んだ内容の作品があるんだなぁというのが感想です。

どうも頭で作ってしまったような感じを受け、
入り込めず少し距離を置いて読んでいたのですが、
最後まで読むと、そのリアリティの無さが
わざとだったのかもしれないとさえ思いました。


ところで↓こういう場面がありましたよ。


  「テレビでタレントとかがくだらないギャグをかまして、
   スタジオにいる連中がゲラゲラ笑うだろう。
   そういうの見てると、ときどきみんな撃ち殺してやりたくなる。
   わけもなくイラついて、なんか狂暴な気分になってくるんだ」
  「どうするの、そういうときって」
  「歯を磨いて寝る」


春樹ファンは↓この場面を思い出すんじゃないでしょうか?


  「許せなかったらどうする?」
  「枕でも抱いて寝ちまうよ。」
        (『風の歌を聴け』村上春樹著 講談社)



あるいはシェービング・クリームの缶でしょうか?
         

いつもの病気。
ことあるごとに思い出して、『風の歌を聴け』の部分を読んでしまう。

斜陽

2009-07-05 | 
いづれ書くと言っていた太宰治『斜陽』の感想をいまごろ。

再読はすぐにしたのですが、
自分の中でどうも消化しきれずに
(本来自殺はしちゃいかんだろうという頭はあるのですが、
 それでも直治を肯定しそうで)
うだうだしていたら忘れてしまったという…

ところが ひょんなことから、
小沢一郎(なぜまたw)の好きな言葉

「変わらずに生き延びるためには、変わらねばならない」
(ヴィスコンティの映画『山猫』の言葉だとかそうでないとか云々)

を見かけて、俄かに直治を思い出した。
変わらなかったから自殺するしかなかった。
自活できない直治は貴族のまま亡くなったわけだ。


   人道?冗談じゃない。僕は知っているよ。
   自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。
   (中略)

   とにかくね、生きているのだからね、   
   インチキをやっているに違いないのさ。
             (『斜陽』中の「夕顔日誌」より)

とある。

同感。
生きていくには
悪いことにはもちろんのこと、
善いことの中にもインチキが含まれていると思う。

だったら生きないでおこう、ではない。

生きていくのはそういうことなのだということを前提にして
物事を表面だけ見ずに
どんなふうに成り立っているのか
自分の幸せは何を下敷きにしているのかなど
もう少し深く考えるよう言われている気がした。

ところで主人公のかず子については
いろいろ矛盾があってなかなか興味が湧かず。

ただ、ストーリーとは関係ないところで、
ここに↓感心してしまった。

   私は知らなかったのだ。コスチウムは、
   空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを
   知らなかったのだ。
                    (『斜陽』太宰治著 新潮社)

私はいくらかかっても
こんなこと考えつけそうもないなぁって。


そこに「痛み」はあるのか。

2009-04-02 | 
   自分に忠実じゃない。世間体とか、常識とか、規則とか、
   外側から来るものに縛られて、本音を隠してしまう。
   (中略)
   いつの間にか、本音を隠し、建前を口にしていた。
   自分の内側より外側を重んじていた。
    それを厭うてばかりでは、生きていけない。
   外側と折り合いをつけばがら、ぎりぎりで妥協しながら日々を生きる。
   そのために、挫折や屈辱や違和感に唇を噛み締め、
   己を誤魔化す痛みに耐えねばならない。
    あなたはまだ、その痛みを知らない。知らないから潔癖でいられるのよ。
   年若い恋人に向かって、言い放ちたい衝動を覚えもするけれど、
   さっき自分が口にした言葉の、じゃあ、来週は会わない。
   勉強に集中して。何気ない言葉のどこに痛みがあったのだろうと
   自問すれば、口ごもらざるをえない。
    痛みはどこにもなかった。「逢わない」という一言を覚悟も痛みも
   込めずに舌にのせた。
               (『あした吹く風』あさのあつこ著 文藝春秋)


これは34歳と17歳が恋人であるお話の引用。

前の記事で思い出したのだけれど、
自分はよい意味でも悪い意味でも精神的には潔癖な方なので
言葉のもつ雰囲気にまで17歳のように過剰に反応してしまうことがある。
けれども、じゃあ自分の発言はどうなのかというと、
やはりこの34歳のように
言葉を軽くあつかっていることがある。

大人であることに慣れてしまうと、
こういうことも忘れてしまう。

許す・・

2009-04-01 | 
  「タイの人は、何かを許してあげることに
   最大の美徳を感じるようなところがあるんですよ。
   この感覚って、日本人に近いでしょ?」
   そう訊かれ、一瞬、言葉につまった。
   寛大な心というものが、今の日本で代表的な美徳として
   残っているだろうか。相手を許してあげたいと思う気持ちと、
   相手に謝らせたいと思う気持ち。自分も含め、そのどちらが
   心を支配しているだろうか。
   (『あの空の下で』より「旅たびたび バンコク」吉田修一著 木楽舎)


許すと言う言葉自体にも違和感を感じるのは、気のせいですか