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Feelin' Groovy 11

I have MY books.

夾竹桃

2009-11-06 | 
   「(前略)……なあ、相田。夾竹桃に毒があるのは本当だ。
    だがあの花は人を不幸にするだけの存在じゃない。
    その強さたくましさで希望を与えることもできる。それも本当だと思えないだろうか」
            (『十八の夏』より「イノセント・デイズ」光原百合著 双葉文庫)


これは自分が毒をまく存在だと思い自殺を考える元教え子に
塾講師が伝えたことばであるが、それはさておき。

夾竹桃は街路樹として庭木として、その辺に生えている。
それが毒があるというのだからビックリした。

過去には広島で枝を箸代わりにしたり、
フランスで枝を串焼きの串にしたりして死亡者が出ているそうだ。
燃やして出た煙も有毒らしいので、これは覚えておこう。
いぁ見かけたら周りの人にも知らせておこう。
(参考:wikiipedia

本文ではカレーに混ぜての殺人に利用されている。
…↑これは参考にはしないでね)

一方そのたくましさゆえ、広島市では「市の花」とされているそうだ。
原爆で75年は草木が生えないと言われた焦土にいち早く咲いた花がこの夾竹桃で、
市民に復興への希望を与えたのだ。

同じものでも見るところが違えば考え方が変わってくる。
改めてそう思った。

人のため自分のため

2009-11-03 | 
  人間ってのは自分勝手なもんだ。
  人のためと言ったって、たいていは自分のために行動してる。
  誰かのために何かをするのは、その人が悲しむのを見ると自分がつらいからだ。
  その人が喜ぶのを見ると自分が嬉しいからだ。それでいいんだよ。
  ただそれを忘れちゃいけない。(後略)
             (『十八の夏』より「兄貴の純情」光原百合著 双葉文庫)


作中では自分のなりたい翻訳家の道を選ぶか、
両親を安心させるため安定した道を選ぶかという進路選択で悩んでいる弟に
兄が言ったことばです。


なんだかBUMP OF CHICKENの「ひとりごと」が浮かんできました。

 ♪ねぇ君のために生きたって僕のためになっちゃうんだ
  本当さ 僕が笑いたくて君を笑わせてるだけなんだ
  →全歌詞

どちらにしようかな?

2009-10-28 | 
2つのものから選択するときに「♪神様の言うとおり」とやる、
『どちらにしようかな』の歌について。

  「だけど、あれって変ですよね。
   天の神様バージョンなら二十二文字だから、二つのもので選ぶなら、
   絶対始めたほうと逆の側を選ぶことになるとわかるはずなんだ」
  「あたしは勘定したことないわよ」
  「勘定しなくたって、経験上わかってると思うんですよ。
   たとえ改めて意識しなくても。ひょっとして人間、
   『どちらにしようかな』をやるときは、もう無意識下で
   決めてるんじゃないかな。自分がすでに無意識下で選んでいるものと
   逆のほうから歌を始める。そうやることで、自分の選択に神意を
   反映させた気分になる」
                     (『十八の夏』光原百合著 双葉文庫)


まぁ子どもの時そんなこと考えたことなかったけれど、
始めたほうと違うほうが選ばれることをたしかに知っていた気もしますね。

ちなみにこの歌は地方によって少しずつ歌詞が違うようで、
奈良では「大仏様の言うとおり」などというそうです。

自分が使っていたのは
「どちどちどちらにしようかな、神様の言うとおり、げげげのげ」
と、全く地方色が反映されていないようなものだったのですが
みなさんの地方ではどのような歌詞でしたか?

参考:『続・どちらにしようかな♪』

へんな人間図鑑

2009-10-20 | 
前にも書いたか
私は沢野ひとしさんの人間自体が好きなのであるが
今彼の著書『へんな人間図鑑』を読んでいる。

そこにはタイトル通り様々な「へんな人間」が登場するわけだが、
「へんな人間」とはもちろん否定的な意味で使っているわけではない。
あくまでも自分も含めてという視点である。

まだ「第1類:子どものころに出会ったへんな人間」を読んだだけだけれど、
小学校の先生のこと、
クラブやラジオ体操のことなど
全く忘れていたような自分のことがいろいろ思い出されてきて面白い。
それこそ本が書けそうなほどあることに気づく。

あとがきには、こうある。
 
   旅に出かけた時に、いくら美しい風景を見ても感動しないが、
   へんな人間に出会うと、その旅が新鮮で忘れられなくなる。
   自分だけのとっておきのへんな人間を数多くかかえている人は
   幸せであり、それだけ人生を豊かにする。
     (『へんな人間図鑑』沢野ひとし著 KKベストセラーズ)

たしかにそうかもしれない。

暴力性

2009-10-15 | 
  山口から奪ったのがバッターではなく軍刀だったら、自分はどうしていただろう。
  居住区の壁に家具のひとつみたいに立てかけてある小銃だったら?
  なぜこの時代に戦争が起こり、そして二十一世紀になっても戦争が止まないのか、  
  健太はその真理にたどりついた気がした。                                   
  (『僕たちの戦争』荻原浩著 双葉庫)


これは『僕たちの戦争』のこんな状況↓の一節だ。

特攻隊の全員志願が決まり、分隊内は緊張した空気が流れていた。
そんな中、懲罰といっては普段から不要な暴力行為をする山口に対して
班員たちの苛立ちがピークに達する。
ある夜、彼らは山口を残酷なほど痛めつけた。
しかも最初にバットをもったのはいつもおだやかな久保田だった―――


こういうことは他の作品で繰り返し取り上げられているテーマだとは思うけれど、
暴力性はだれもが潜在的にもっているものだということ、
それはある状況下で自分にも出現するかもしれないということを
分かりやすく表現していると思った。

だったらどうすればいいかなぁ。
その、理性では抑えきれない突発的な暴力性を出現させない方法。

それを自覚し、別の表現方法がないかを考えることぐらい?
毎日の自分の行動と、それから相手への加減を。

自分は無縁だと思わないでください。

戦時中のような特殊な状況だけじゃなく、
現代の学校、会社、家庭などでも
暴力は質を変えて現れるから。

*なんかアレ思い出したわ。
  引間徹の『塔の条件』