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de sole wa 正しいのか(追加)

2010-11-30 23:25:31 | 人の見方
暴言、脅迫、相手を威圧する暴力的な言動・・・

そもそも、正しいかどうかなんて考えてやっていることではない
正しいかどうか考えることができる人は、そうしない?

いいえ、
周囲で多くの人が、正しいかどうか考えないで暴言を吐いていれば
正しくないと考えにくくなる。

周囲で普通に使用されていれば、自分も良好な対人関係を壊す言動をしてしまう。

相手が怒った理由が理解できない→自分は悪くないと相手を攻撃する→さらに悪化


正しいか誤りかという判断基準が
社会全般に普及していなければならないのである。
個々人の価値判断で問題解決することは困難である。
あまねく普及した共通認識が個々人の自由を調整するのである。

その調整機能である共通認識の構築は初等教育、中等教育に始まる。

乱暴な言動が何故誤りなのか、誤りを直すにはどうすればよいのか、
というプログラムである。
特にメディアなどの影響で陥りやすい正義を盾にした不正義には注意が必要である。
誤りは規則を新たに作ることや攻撃することで直すのではない、誤りを直す方法を周囲が理解している環境を作ることである。
誤りを直す方法、被害者・加害者がある場合は特に、両者に公平で共通な権利義務の認識が必要である。学校側が個々に対症療法的な対応をしていたのでは混乱するだろうからである。被害者は、加害者は、またそれぞれの保護者は、学校は、教師は…という当事者の行動モデルが示されていることである。

学校、教師、生徒、生徒の保護者、PTA地域社会など当事者の役割(具体的アクション)が共通認識としてあること。さらにこれを継続する普及活動、というように
全体図が描かれるはずである。



「誤りを直す方法」の議論が不足しているか欠けている気がする。

de sole wa 正しいのか

2010-11-30 20:48:52 | 人の見方
ウザいんだよ

うっせい

しかとすんなよ

なめんなよ

(上下・支配関係などを示す、あるいは相手を攻撃するための言葉、という括りができるのかもしれない)

・・・・・・
コミュニケーションのための言葉である
どういう目的で使用される言葉だろう
使用される状況は?
言う者と言われる者の心理は?

自分より優位な立場の者に言うことはないはず
尊敬する人、好意を寄せる人には言わないはず
嫌われて困る場合には言わない、かもしれない

自分より力の弱いものに対して言うのかもしれない
相手を攻撃するときにも使うかもしれない
自分の力が強いことを誇示する必要がある状況で言うのかもしれない
上下支配関係があり、その上であることを誇示したいという目的がある?

言われる側の心理は、言い返すことができない上下関係にある場合
言い返すことができない心理は何か
報復、仕返し(暴力、嫌がらせなど)に対する恐怖であるが、
嫌がらせや暴力的な言動に対して、誰にでもできる対抗手段がないのかもしれない

明確な犯罪行為未満である場合の、嫌がらせ、人権侵害、暴力的言動
これらは野放しということかもしれない

新たな法を作ることで解決することではない
むしろ逆に現状の刑法をも単純化できるような道徳律



「正しいか誤りか」

暴力的、威圧的な言動・・・それは正しいか、誤りであれば直せ、となる。
直せば、それは正しくなる。

嘘と言い訳・・・それは正しいか、誤りであれば直せ、である。

「自己に不利益な供述を強要されることはない(憲:38条)」
≒自分に都合の悪い事実は隠蔽しても良い、黙秘して犯罪捜査を妨害することになってもかまわない、被害者の権利を考えなくても良い。
≒自分の権利のためには真実を隠蔽し、他人に被害を与えても良い

・・・それは正しいか、誤りであれば直せ、
「何人も、真実ではない自己に不利益な供述を強要されない」
つまり、真実を述べなければならない、と直せ、である。


何人かで議論すれば、さらに発展しそうなテーマかも

対人関係の行動規範

2010-11-30 16:34:11 | 人の見方
学問的とか難しい話じゃなくて

多くの人は、この社会で対人関係という刺激の中で生きる
そして多くの人は、対人関係をを円滑にするためにある行動規範を持つ

いや、行動規範がある・・・結果として説明できるもので、
当人はこれを意識しているとは限らない

多くのパターンを類型化して分類すると、ある特徴的な行動パターンが
浮かび上がる、はずである。


単純に、、、
「正しいと思うことを行い+誤りは直せばよい」

(他人からよく思われたいなど)社会的な立場を維持する、
そのために対人関係において責任回避することが行われる。
言い訳をして、嘘をつかなければならなくなる。

その必要をなくすためには、
「正しいことを行う」という行動規範があればよいのですが、
これがなかなか、できそうでできない・・・
人によって「正しい」ことの基準が異なる、場合もある、
という意見もあるかもしれませんが、
それは大きな要因ではない、
この社会が居住者のためにルールを作り、
そのルールを居住者であるすべての市民に教育することで
基準ができるのであって、基準があいまいであることは
市民社会の教育が不完全であることを示している。

ルールを強いることになると住み心地が悪いので、多様性を認めながら
共通認識としてのルールである必要がある。

話を戻し
正しいことと誤りであることの定義は、行動規範となりうるものです。
正しいことは行えばよいし、誤りであることが知れば直せばよい。
という単純化ができる。

市民社会の教育というのは、
正しいことなのか誤りなのかとうことに、興味・関心を持たない、理解できないために
問題が発生するという認識のもとにあればよいのではなかろうかと思う。

そりゃぁ、そうだ
誤りが理解できない場合に、その誤りを正せるはずがない。


多くの対人関係
恋人、夫婦、親子、兄弟、家族、友人、同僚、先輩・後輩、上司・部下
多くの人は様々な場面で、正しい誤りの判断をして行動している、はず。
さて、その正誤判断は
自分にとってなのか、相手にとってなのか、お互いにとってなのか・・・
法律的になのか、道義的になのか、その他の大義のためなのか・・・


何が正しいことなのか、基本的なものから複雑なものまで
そう難しいことではない

挨拶は?笑顔は?

威圧的な言動やその他の感情表現?
威圧的な身なりや服装は?

事例を並べていこうとすると
正誤判断が行われているとは思えない現状に気がつきます

学校に服装や身なりの規則があったとします。
何故この規則があるのかということでなく、
この規則を守る守らないが正誤判断になってしまう。
だから、生徒の「どうして?」に「規則だから」と返答してしまう。

正しいことと誤りであることの定義が曖昧なまま、規則を押し付けようとする。
また、時代の流れにそぐわない規則を修正しなければならないという動機も起きない。



「正しいと思うことを行い+誤りは直せばよい」

・・・深い議論に展開しそうな、ですね