goo blog サービス終了のお知らせ 

うろんな本屋の日常

本と本屋とその周辺

作家の死

2006-09-10 06:07:58 | 
阿部謹也さんが亡くなった。(作家ではないけど)
71歳、若くはないけどまだ死ぬ年ではない。
「世間」というキーワードで日本社会とヨーロッパ社会の違いうまく言い表した人だった。日本の中世社会史といえば網野善彦だったけど、西洋社会史といえばこの人か樺山紘一氏、一般にもよく読まれたのは阿部さんだろう。
今年(去年かな)も何冊か本を出していたし、一度講演会に行ったことがあったが、かっこいいおじいちゃんで、すごく落ち着いた説得力のあるしゃべり方をする人で、思わず聞き入ってしまった。残念である。

このごろとにかく、えっ、この人がという人が亡くなっている。
先日は作家の吉村昭さんと鶴見和子さん。吉村昭さんは、高校時代に先生に「ポーツマスの旗」を紹介されて読み始め、いたく感心して、それからも何冊か読んだ。内容は調べ上げて書かれたとわかるし、文体もとてもまじめなものだった。しかも、予備知識がなくてもきちんとよめるのに、書いてあることは結構専門的。なかなか他にいない作家さんだと思う。
それから古代研究者の網干善教さんも。

そして、一番ショックだったのは、梶田孝道さん。
といってもほとんどわかんないだろうけど、一橋大学の教授で、大学の論文を書くときは非常にお世話になった(本で)。それからも折に触れて読んでいて、フランスの移民の同化政策についてとか、日本の外国人労働者研究の第一人者だった。これがピンポイントに僕の興味をそそるからとても気になる研究者だった。まだ、59歳という若さ。これから一般向けにもいろいろ本を出されると勝手に期待していたのだけど、もう読めないとなると急に寂しくなる。

ONLY THE GOOD DIE YOUNG

スローリーディング②

2006-08-29 06:28:17 | 
前回のスローリーディングはウラ☆ゲツブログ(@月曜社)で触発されて書いたのだけれど、今回も同じく、おなじ記事に出ている、平野啓一郎さんの本について。

平野啓一郎「本の読み方」PHP新書

芥川賞作家でもある平野さんはいまどき珍しい骨太な小説を書く人だけど、その人が本の読み方を書いた。といってもこの本は全然難しくない。
曰く、いろんな本を薦める本は出ているけれども、本の読み方をきちんと教える本はない。多く読書がつまらないというのは、本当の本の読み方を知らないからだという。
最近は雑誌にしろ単行本にしろ、もちろんブログでも本を薦める媒体は非常に多い。しかし本の読み方は「速読」以外に多くない。というかない。
しかし、平野さんは「量から質の読書」への転換をすすめる。

「『オレは本を何百冊読んだ!』と言っても、『で?』と笑われるのがオチだ。しかし、『オレはあの本のあの一節にムチャクチャ感動した!』と言うのは。単純にカッコイイし、その人の人間性について、多くを伝えてくれるだろう」(P35)

まったくもって同感と言うしかない。
それでは「質の読書」とはどういうものか。もちろん、こうしないといけないと言う方法(こうしないとイケナイというのはやはり読書の自由を狭める)はなくて、一例が示されている。これがとても参考になる。ただ、音読はだめである。理解するよりも音読する方に気がむいて、うまく音読したらOKとなってしまうからだそうだ。さらに読み返しが出来ない。黙読で、ゆっくり、味わって読む。線を引きながらでもいいし、疲れたら休憩する。そうやって、一冊の本を味わう。

本を多く読むと分かるのは段々とこういう読み方になっていくということだ。ときどき、この本だけは分かりたい。理解したいと思うことがあって、そのときは意図的にゆっくり読むし、気になって読み返す。線を引く。ページの耳をおる。そう言う読書をした本はとにかく心に残る。人にも勧められる。
そう、人に勧めるのって難しい。あ、これ面白いよ。っていっても誰も読んでくれない。自分の面白かった部分(全体ではなくて)を話すと、反応がよい。職業柄そう言う機会があるのは、読書力(あ、齋藤孝)を鍛えるのに役立っている。

そう思って、先日読んでいたく心に残ったカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」(早川書房)を読んだ。そしてびっくりした。こんなにすばらしい小説だったのかと。文体は抑制されていて、驚きの展開を見せるのだが、最初読んで分からなかった緻密なプロットが至るところに隠されていて、この本が話題になる理由が分かったし、この本をもっと理解したいという欲望に駆られた。ということで、この本のことを後日書きます。自分の中でまだ十分に消化できていません。

村上春樹が読めない

2006-08-19 04:59:47 | 
いや、僕は全然読めるけど。

まわりの同僚たちに村上春樹をどれくらい読んでいるか聞いてみると、意外と読んでいないことが多くてがっくりくることが多い。もちろん、読んでなきゃいけないわけじゃないし、読書は個人的なものだと春樹さんも言っている。

先日、「村上春樹の本をいろいろ読んではみるんだけど最後まで読めない」という上司がいて、村上春樹談義で盛り上がった。

その人が言うには「村上春樹には幻想的なところがあって、そこが受け容れられ」ず、「ページをめくるごとまたかとがっくりくる」らしいのだが、それはその人の小説の趣味だから、つまらないものを僕が「そんなはずはない」と否定するつもりはないけれども、そこが面白いんだけどなあと思う。
それでもその人は、村上春樹は長いキャリアの中で質が下がらない、日本でもまれな作家だというから評価自体は高い。
じゃあ、なぜ読めないのかというと、「よく分からないものが怖いからではないか」と結論づけた。だから宗教的なものは信用ならないらしい。幼児体験という無茶苦茶な結論だけど、仕方ない。

村上春樹は「よくわからないもの」が世界を操っているのではないか(僕は知らない誰かに操られているのではないか)、という世界観があって、それがわかりやすい陰謀論とも考えられるし、いやいやもっと深い人間性の話だ、とか世界のメタファーなんだとかまあいろいろ解釈のしようがあるけど、結局のところ、村上文学の魅力は「よくわからない」ところではないか。よく分からないことに魅力を感じるのは知りたいという好奇心ではなくて、どうしても世の中には分からないことがあるんだという、自己相対化であって、どれだけ科学が発達してもわからないことはたくさんある。よく分からないものを無視しないことは最近流行っている。(茂木健一郎がよくいうクオリアだってそうだろうし、内田樹が書いていることはまさにそうだ。)だからといって、宗教的な何かを頼りにするとか、善悪二元論の世界に持ち込むわでもない。善を賛美せず、悪を糾弾しない。
僕はそう言う話に共感を持つ。その柔らかさというか、ふにゃふにゃだけどなんだか信じることができる文章には独特の魅力がある。世界中で読まれるのは「なにか」あるんだと思う。考えてみれば物語とは逆説的に「世界はそんなに単純じゃない。だまされるなよ」というのを僕は村上文学から教わっている気がする。

と書きながらも自分で納得が出来ない。「こんなに簡単じゃない」と思ってしまう。それがきっと村上春樹を読み続けてしまう原因なんだろう。
まま、なんといっても同時代に同じ言語で村上文学を体験できるのは一つの幸せと言ってもいいだろう。

ロハスが流行らないこと

2006-06-09 18:44:14 | 
ロハスが流行らない。
いや流行ってるのかもしれないけれど、ムーブメントになっていない。

これからはロハスですよと、昨年の秋頃から言っていたのだけれど、そのときも懐疑的な意見が多くて、あれ?って思ってたんだけど、先日出版社の人と話していてぽんと膝をたたいてしまった。

ロハスな人ほどロハスと名付けられることに抵抗を覚えるのではないか。

あーなるほど。

ロハスと言う言葉は、そして、このライフスタイルは、マーケティングである。定年退職者が増え、これからのビジネスチャンスを何とか掴もうとしてに、彼らのライフスタイルに重ね合わせることで、広めようとした。まあそれはわかるし、いいかなとも思う。ただいかんせん横文字であった。広まるに時間がかかる。
そして、ロハスに一番食いついたのは20代~30代女性であった。

今日の内田樹氏のブログに興味深いことが書いてある(http://blog.tatsuru.com/archives/001772.php
つまり、アメリカ発のロハス概念は資本主義帝国アメリカの業界の一致として生まれたものであって、環境破壊を繰り返して発達してきたアメリカにとって、資本主義を否定するわけにもいかず、かといって環境もこれ以上壊すとまずい。それにようやく気がついて、人(資本主義)にやさしく、環境にもやさしくという概念が生まれた。と。でもこれは手遅れじゃないかと。

あーなるほど。

そして、ロハスは日本にきた。
日本では自然を慈しむ習慣があるし、伝統も重んじる風潮がある。そして、ご飯も菜食が中心。ロハスが広まるに十分な環境がある。
しかし、それは日本的な生活習慣であって、わざわざロハスと銘打つ必要はなかったのだ。そんなのやってるよ。と。

ロハスがヨガとか、アウトドアとか、オーガニック食品とか、というところにしか焦点が当てられないのはそのためである。
ロハスというライフスタイルがすでに日本的すぎるのではないか。

さて、そんなこんなロハスですが、かといって、そういうライフスタイルが否定されるでもなさそうである。ややこしい話で申し訳ないけど。

最近流行っていることは、だいたいロハスと呼べそうなものが多いのである。
仕事<生活 ということは皆さん当然と思っている。家族が大事だよって。
それが常識化していることがすでに象徴的であって、心の哲学とか、心理学が流行るとか。家族が大事だとか。食育とか、教養の復権とか地域の見直しとか。ここ数十年の見落としてきたところがいま見直されようとしている。
それがまさにロハスだと思うのだ。ただ、いかんせん、これらが好きな人は、自分で考えることが出来る人ではないかとおもう。そしてそういう人たちはロハスと呼ばれることにすこし抵抗感を覚えるのである。

そばと二重焼き、うまい。

2006-05-08 02:34:50 | 
昨日挫折した遠出をして参りました。

竹原。遠くないけど。

以前、西条(東広島)に住んでいて、近いイメージがあったし、ドライブがてらでかけるにはちょうど良い距離だった。それに、良い浜辺があるんですよ。なかなかロマンチックな。だけど、竹原市街地に何があるかは、(まあ、ガイドとかで町並み保存地区があるとは知っていたけれど)知らなかった。あってもたいしたことないだろうと。失礼だけど。


今回、どこに行こうかと迷いに迷ったあげく(呉?大和ミュージアムはきっと人が多すぎる。尾道?今日の朝日新聞の大和ロケセット盛況ぶりに絶句。大山祗神社<愛媛・大三島>、ちょっと遠い。言い訳しないで行けよなと自分でも思う。行ったら楽しいはず)、渋々竹原になったのは、ガイドに出ていたそば屋が旨そうだったから。うまいものが食べれるなら言ってもいいよな。

竹原。町並み保存地区↓



良い感じ。古さに嫌みがなくて、とても生活感あり。
西条の酒造通りにも同じ雰囲気がありますが、こっちの方が背の低い民家が多くて、活気がある。お店もある。観光客もいくらかいる。おっ、意外と観光地。

保存地区はそんなに広くなくて歩けばすぐに端から端までいけてしまう距離ですが、ぶらぶらするにはちょうど良い。
ちょっと歩いてから、おそばを食べました。「遊山(ゆさん)」。
鴨南蛮そば。旨いそば屋があるというのは、良い街の条件の一つと思いますが、とてもおいしい。この地区にはそば屋が何軒かあって、なんでうどん屋がねえんだ!とは全然思わないけど、なんでなんだろう。蕎麦=江戸=江戸時代の風情=蕎麦屋多し。なんてへんてこな理屈をこねてたけど、わかんない。おいしいので許す。

その斜向かいにある酒造に酒を買いに行く。父の日のお祝いという殊勝なことである。酒造というか上品な古民家。こういう古民家は土間が広い。天井が高い。だから独特の暗さと、ひんやりした空気に包まれていて、厳かな気持ちになるのは僕だけでしょうか。以前の酒蔵ライブもこんな雰囲気の場所でした。
時間がそこだけ止まっているような場所。

で、お酒は、合鴨農法で造られたお酒だそうです。燗で飲むと旨いらしい。
まさかこの鴨。。

そのあと町並みをぐるっとまわって、ちょっとはずれにある二重焼きを売ってるお店(松屋、だっけな)に行きました。やや。実演販売。それに行列。といっても4,5人ですが。
できたての二重焼きを2人で4個買って食べました。まわりはかりっとしていて香ばしく、あんこが溢れるくらい入っています。幸せな気分になれる味でした。

「村上春樹と世界文学」

2006-05-03 06:35:55 | 
村上春樹の本はとてもよく売れる。だけど村上春樹訳はそうでもない。
外国文学のなかではもちろんよく売れるなのだ。つまり外国文学が本当に売れない。
外国文学には面白い本が多い。あんなに面白い本が多いのに売れないジャンルはないだろう。

もちろん、本屋もその辺を上手くアピールできていないのも事実。なやましい。ずっとそう考えていて、棚も充実させた(自分なりに)し、話題書コーナーにも結構おいてきた。でも売れない。

文芸書担当をはずれるのを期に、一番やりたかったフェアをやらせてもらった(というか、やった)。
その名も「村上春樹と世界文学」。とても大仰なタイトルだけど、、、とにかく。

フランツカフカ賞を受賞されたし、文芸誌もその話で盛り上がっているし、タイムリーっちゃタイムリー。「村上春樹をこよなく愛する」自分としてはやらないわけにはいなないのである。
そして、内田樹氏のブログをみると、「村上文学の世界性」。なんたること。
ご縁とはこのことか。ちょっと嬉しくなってしまった。

フェアの中身は村上作品+村上春樹訳+柴田元幸+柴田元幸訳+αです。
最近、春樹訳の「キャッチャー」、柴田さんの「翻訳教室」やカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」、ダイベックの「僕はマゼランと旅した」など良い本がいっぱいでてるから選書は困らない。
それに装丁がどれもいいから、本を並べるときれいだ。やっぱりこうでなくっちゃと思う。

売れて欲しい。がんばろう。

「9条どうでしょう」

2006-04-06 00:02:31 | 
久々の更新。

「腰が浮くほどおもしろい。」

そう言われたら読むしかない。



この本「9条どうでしょう」は内田樹、平川克美、小田嶋隆、町山智浩の4人で書かれている。内田樹氏のブログを見ている人にはおなじみだけど、内田さん以外はそれほど有名ではないし、4人とも憲法に精通しているわけでもない。しかし、それぞれが語る憲法第9条論はどれも、すこぶるおもしろい。
4人とも憲法9条に改正の必要なし。という結論にたどりつくのだけれど、そのプロセスは4者4様で、どれも説得力がある。改正の必要性はないといっているけど、決して護憲の立場ではなく、改憲派、護憲派よりも「一つ上の次元」でというわけだ。そんなきれい事がまかり通るのかという向きもあるかもしれないけど、納得してしまうのである。

改憲派・護憲派は、例えば靖国参拝賛成反対と同じ構図で、どちらも歩み寄りが難しいように感じる。お互いが自分の論に寄っていて、それぞれまあ言いたいことはわかるけど、でもそれじゃみんなが納得はできんよなという話である。
そんな譲歩の予知がない議論であるから、その枠組みからちょっと飛び出してみようと言うわけ。もちろん世界平和はすばらしいし、自分の愛する人が殺されたら、そらだれでも殺した人間を殺したいとおもうであろう。

結局4人が言っているのはもっと広い目で世界をみましょうよということ。いま、憲法9条を変えてしまったら世界の情勢はどうなるのか。戦後60年の「平和」と憲法を改正することが我々にとってどちらが利益になるのか。そもそも「普通の国」とは何なのか。ポストモダンと言われる世界で、日本はどのように歩むべきか。

想像を巡らせること。

それこそ、この本の面白さであり、憲法本が多く出る中でこの本が出色な理由である。

今年度の終わりに

2006-03-31 06:03:54 | 
たいしたことではないのかもしてないけど、今日で今年度がおわる。

学校だったら一つ学年を重ねるわけだけど、社会人になってそれほど特別でもない。決算といえ一介の書店員にはそれほど関係はない。返品をたくさんしなさいとか。あんまり商品はしいれちゃいかんとか、まあそんくらい。

ただ、明日から新入社員が入ってくるわけだし、それに前後して大きな異動もあったりして、新鮮な風が吹く。

書店で怖いことは、いや書店だけではなくどんなことでも、マンネリ化しちゃうことだ。
書店は常に何らかの仕事があって(本は日曜以外毎日入ってくるし)、暇な時間というのはない。だけど、その結果としてルーティンワークにどっぷりつかってしまいあっという間に一日が終わることはよくあることである。さらに人間関係には変化があまりなくとなると。。新しいことができなくなるし、過去に縛られてしまう。ああ、あの時期は良かったなあ。とか、まあいろいろ。
とにかく、地味な仕事なので刺激が必要である。職場の人間関係とか、お客さんが転勤、入学で変わったりとか。。そうすることで、書店もすこづつ深化していくはず。

さて、2005年度というのは本当に厳しい年だった。本がこれほど売れないのかと痛感させられた年である。競合店が次々にできた年でもあった。
店全体としても売上はがくんと落ちてしまったし、自分の担当するジャンルも比例してわるい。この情況をすぐに挽回する起死回生の策はない。
話題書偏重の本屋が増える中で、棚をというのは難しい。しかし、「話題書」か「棚」かという二分法が売上を決めるとも思えない。「話題書」もしっかり「棚」もしっかり・・・今年はそれがダメだった。中途半端な話題書の仕掛け、中途半端な棚。。力不足を痛感するのである。

しかし、希望がないわけでもない。
つまり人である。
ここ数年で書店員が見直されてきたように、本屋ができることはもっともっとあると思う。

アーサー・ピナードさんを知っていますか?

2006-03-24 06:36:20 | 
一目惚れは、本にもある。
ジャケット買いにちかいものがあるけど、毎日多くの新刊が出る本のなかでも
おっこれいいね。っていうのがある。ある程度新刊案内で目星をつけていても
それ以外にも良い本がある。

そういうふうにして気に入る本はすごく少ない。週に1冊、いや月に1冊くらいだろうか。
アーサー・ピナードさんの「日本語ぽこりぽこり」(小学館)はそんな本の一つだった。
装丁がかわいくて、あらあら、いいじゃない。と思っていた本なんだけど
結局あんまし売れなくて、書評とかにぽつぽつ載って、ついには講談社エッセイ賞
をとって、すこしは売れたけど、まだまだ一般的に知られてはいない。

今回、集英社文庫で「出世ミミズ」が出版され、早速よんでみた。
名前から分かるとおり、外国人(米国人)だが、日本語で書く。
もともと詩人で、詩の翻訳(日本語→英語)、短歌など日本文化に造形が深いようだ。アメリカが嫌いで、無神論者らしい。

語り口はソフトで、リズム感がある文章。
「出世ミミズ」は短い文章が多いけど、それぞれにオチがついていて、うまいなあ
と感じさせる。目線が面白いなあとおもう。日本人には気づかないところとか、
この人独自のものの見方というか、なかなか表現しにくいんだけど、ほっとする文章です。

「詩集の『釣り上げては』(中原中也賞を受賞してます)がおもしろいよ」と先日、来店された版元さんが言っていた。
詩はよくわかんないけど、この人の詩なら読んでみようかな。
そう思える作家さんです。


武士道ブームへの違和感・・・「日本人を考える」

2006-03-18 01:11:37 | 
最近の武士道ブームにはちょっと違和感を感じていた。
礼儀正しく、伝統を重んじ・・・「嘘をつけ」(@安吾)である。
日本人たるものこうあるべきなんてのが、ちょっと受け付けない。
そう思っていた。常一ファンとしてはそう思わざるえなかった。「忘れられた日本人」しかり、常一さんの著作を読んでいくと、たしかに慎ましさとか、節度なんてのは非常にあるとおもうけど、汚いというか、ずるがしこいというか、もっと人間らしい無邪気さというか活き活きとした表情があった。

その違和感を取り払ってくれたのが「日本人を考える」(河出書房新社)である。



最近の静かな常一ブームに乗っかっているイメージがある河出であるが、出す本もこれはちょっとと言う本も正直ある。先月の木村哲也氏の本(「『忘れられた日本人』の舞台を旅する」)は良かったけれども、今回のこの本もそれほど期待してなかった。まずタイトルは好かない。ちょっと直截的すぎる。それから初の対談集というふれこみ。没後25年で初はないだろうとおもうのだが。まま、それが期待を裏切っていろいろ教わることがある本だった。

読ませるのは映画監督浦山桐郎との対談「地方人意識の変貌」、作家の野間宏、安岡章太郎との鼎談「逃げ場のない差別のひだ」それから評論家草柳大蔵、臼井吉見との対談「日本人」である。とくに差別の問題は、日頃常一さんは農村や昔の生活を賛美しすぎるという批判も聞くのだが、江戸時代の農村で一番陰惨な部分である被差別やサンカのことが話されてあって、権力との関係、実情など実際に歩いた人にしか分からないことが書いてあって非常に面白い。

さて、武士道である。外国で日本人と言ったときにやはりサムライとかハラキリとか出てくるのは新渡戸の「武士道」や「七人の侍」の影響だと思うけど、それぞれの本、映画はいうまでもなくすばらしい。「七人の侍」には衝撃を受けた一人である。だが、これをあるべき日本人像として当てはめるのはちょっと無理がある。理想は理想であって、実際は違うのではないかと思う。なんとなく、道徳の授業を受けている感じがあって、違和感はここにある。
おそらく、この本のねらいは「典型的な日本人とは何だ?」(こういう設問の立て方自体が有効かということはひとまずおいておいて)ということだと思う。そしてこれは最近の武士道ブームに静かに抗って出された問いではないかと感じる。

では、実情はどうであったかということだ。
武士道にしろ、近代日本の始まりは明治である。明治維新以前と以後では「人」が違うと、よく常一さんの本に書いてある。(ちょうど、内田樹氏がよくいう、68年の全共闘を体験した世代かどうかのちがいと似ている。)
江戸の幕末、日本には人口にして3300万人が住んでいたとされる。
そのうち百姓いくらいたか、3000万人である。侍はその家族を含めてせいぜい150万人ではないかと。「要するに日本人というのはほとんどが百姓だったということですね」と。
その「土にへばりついていた」日本人が明治以降の近代化によって都市に住むようになって、徐々に農村から離れていく。明治以前には<都市>と言えるのは江戸と大坂くらいしかなくてその都市人口も300万人前後。
ただそう簡単に人はかわんないから、土の意識が抜けないまま都市化していって、
戦後ごろまでは、故郷(クニ)を引きずって都会に来ていた。だからこそ出稼ぎはかなり長く続いた。今郊外で小さな建て売りを買うのは「土地を持つと安心する」という心性からきている。土地と切っても切り離せない関係にあった。
要するに「一人一人が自分の世界というのを完全にもって、自分でそれを守って生きさえすれば、他人に迷惑をかけなくても住む。余剰があれば周りの人に恩恵を施す」という生き方であって、「一人一人の人間的スケールというものを、非常にこぢんまりさせている」生き方である。「一所懸命」という言葉はまさにこれを体現している。これがパブリックマインドというものを持ち民主主義を基本とする欧米市民社会との大きな違いであ。みんなもともと百姓だったのだ。
これを考えれば、近年の土地を持たない人たちの増加による治安の悪化、地域社会の希薄化は説明がつく。

だから武士道というのは、たしかにすばらしいものなのかもしれないけれど、慎ましさ、謙虚さなんかのほうが、しっくりくるし、そういう人たちって身近にいる年配の人に結構いるものだし、田舎にはそういう気風が残っているところもある。
まずそれを見直すことのほうが、全然有益だと思うんだけど、どうだろう。