うろんな本屋の日常

本と本屋とその周辺

すきな出版社きらいな出版社

2006-09-14 07:39:12 | 書店
日本の出版社の数はいくらくらいあるのだろう。千は超えるだろう5千くらい?詳しくは分からないけどとにかくたくさんある(調べてみるとやはり5千くらい。主なところでも多分500社位はありそう)。

まあ、とにかくたくさんあるわけだけど、出版社にも当然だけど、特性がある。好き嫌いもある。法律が強い出版社とか、詩専門とか、建築書だけとか、はたまた、ほぼどんなジャンルも網羅する出版社とか様々である。だから、書店員は版元で本の出来具合を判断したりもする。「この版元なら信用出来るな。よしよし、長くおいとこう。」「また、こんなくだんねえ本だしやがって、返そう」とか、何を出しても「良い本だなあ」と思う出版社もあれば、何を出しても・・・。あんまり版元(出版社)に聞かれたくないようなことをぶつぶつつぶやきながらやってます。
ときどき、柄でもなく良い本出すじゃないと思うこともあって、それで、その版元を見直すこともある。「どうも良い編集者がいるな」とか想像したりする。
前も書いたけど新刊の量がばかにならないから、すべて棚に詰めていくとすぐにパンパンになる。何かを返さないと入らない。今そう言う現象が大きいのは新書だろう。何せ新書創刊ラッシュ。来月から朝日新書(朝日新聞)もはじまるそうです。
そんなに新書はうまみがあるんだろうか。700円くらいで、売れてもそんなに利益が出ない。新書(教養新書だけ)で月に50点以上新刊が出るけど、当たるのは月に1点あるのかな。最近ヒットしてんのは「美しい国へ」(安倍晋三、文春新書)だけど、これも発売は7月か。そんなにどれもこれも売れませんよ。ただ最近のベストセラーはほとんど新書なはずで、多分、去年一年間ならベストテンのうちほとんどは。。新潮新書みたいなことになってんのかな。
新潮は文芸書はとてもいいのをだすのに、新書になると俄然売ることに命を賭けたような本しか出さないから分からないものだ。その辺がしたたかと言えばしたたか。

新潮以外では岩波、中公、講談社現代新書は老舗だから、質は高く。筑摩書房は版元の特性からか質の高い本を出しながらヒットを飛ばす(ちくまプリマー新書はすばらしい企画だと思う)。集英社、光文社は装丁が似ていて探すときに困るのだが、集英社はアマルティア・センの著作をいろいろ抱えてる。
PHPはとにかく「数」の勝負で、これは青春も同じ。
この中で、ときどき、「おっ」と思うのを出すのは光文社である。期待に反してというと、失礼だけど。
先月も「日本とフランス 二つの民主主義」なんて渋い本だしてるし、仲正昌樹や丸川哲史(ともに思想系)なんて人たちも入っている。そういえば、さおだけ屋もここか。なんだか隠れた優等生。

で、その光文社が(ここからが本題)、また僕たちを驚かせる。
「古典新訳文庫」なるものを創刊である。

名作といわれる
翻訳作品の読書を
途中で断念してしまった
ことはありませんか?   

(パンフレットより)

やや、なかなかくすぐる。
そして、ラインナップをみてびっくり。
そうそうたる翻訳者のかたばかりである。はっきりいって見くびっていた。光文社って翻訳作品を単行本ではあまり出していないはずで、そういった下地のないままにこんなことができるなんて、驚き以外のなにものでもない。例えば、フランス文学でいま一番読みやすい訳を書くであろう野崎歓氏(「ちいさな王子」)。同じく中条省平氏(バタイユ「目玉の話」)。
それからロシア文学者で、この人のドフトエフスキーを読みたかった人が多いはずの亀山郁夫氏(「カラマーゾフの兄弟1(全4巻))。それから難解な哲学をわかりやすく説くことで人気の中山元氏(カント「永遠平和のために」)。
いやいや、くらくらするぐらいすごい。
まさに、「いま、息をしている言葉で。」名作が読めるのは、なかなか良いですよ。岩波、新潮で挫折したなら、これはいけるかも。朗報といってもいい。
早速、亀山カラマーゾフを立ち読みしてみましたが、これがなんとも、読みやすい。文章がなんか若い(というのが正しいのか新潮の原訳に慣れ親しんでいたので)。それがまた嫌な感じがしない。なんかもっと発見がありそうな訳なので、買うかどうか悩んでいる。読み比べも楽しそうだし。

光文社がんばれ。

苦肉の策

2006-09-13 05:48:35 | 書店
忙しい忙しいと言って働いていますが、本屋は本当に忙しいのです。
給料も安いのに、なんでこんなに働かなくちゃなんないのか。ときどき無性に腹が立つ。
じゃあ、やめればいいじゃん。と言われるかもしれない。
いや、腹が立ちながらも、やっぱり本が好きなのである。本屋の性ですね。本は何も悪くない。悪いのは下らない本を作る出版社や良書を作る出版社をはじく取次ぎや、人件費をむやみに削る経営者なのだ。とかなんとか愚痴りたくもなる。でも、そういう事情はどの業界でも大なり小なりあることだと自分を慰める。
まあこの辺の事情は「だれが本を殺すのか」(佐野眞一、新潮文庫)をご覧ください。

働いているとだんだん自分が煮詰まっていくのが分かる。必要最小限の日常の業務をこなすことが精一杯で、自分のしたいこと(棚をいじるとか、フェアを考えるとか、まあいろいろ)が出来ない。やっぱり書店員たるもの、本も読まなくてはと考えるも、日に1時間かそこらである。余裕が生まれないと段々思考能力が鈍ってくる。例えば、本がおすすめ出来なくなる。致命的だ。言葉が出てこない。ということはフェアが考えられず、POPが書けない。フそして、フェアをだらだらと1ヶ月以上も続けてしまうことになる。もう書店員失格ではないか。と思ってしまう。
そして、今日(正確には昨日)、もうこれはやばいと思って、次のフェアを計画、発注までしてしまった。ただ、こういうときに悪いことは続いておこるもので、考えても、人に聞いても良い案がさっぱり思いつかない。その上、問い合わせが立て込むとかとか、バイトが少ないとか、補充が多いとか、付録組みが多い(雑誌の付録は書店ですべて付けてます。これがまた多い!いや多すぎる)とか、もうたまらん。となるのだ。そうして、ここまでのびのびになった(言い訳)。

まあ、結局なんとかなるもので(といっても、べたなフェアが出来上がったんだけど)、一安心である。胃がどうにかなってしまいそうである。と書いたけど、胃はまったく元気で、体かどうにもならないのがくやしいとというか、なんというか。
きついきついといいながら入社してすぐに風邪をひいてから、ぴんぴんしているから幸せなもんである。

もっと計画的に仕事をしないとと思う。でも、考えてみると「考える」ことに計画なんてできわけないんだよね。はい、それも言い訳です。

・・・・・・・
先日出た、田口久美子さんの「書店繁盛記」(ポプラ社)にはとても励まされた。日本でも有数の書店(ジュンク堂池袋店)の副店長の著者の本ですが、書店ではたらくものにとって、こうやってに現場を店員目線でをいきいき(生々しく)書いてくれるのは田口さん以外にはいません。書店員て地味なんだけど、奥が深いなあとか、ああなりたいなあとか、久しぶりにぐっと気合いのはいるというか、勇気をもらった。とにかく、書店員を始め、本屋さんが好きな人には是非とも読んでもらいたい一冊。

「スローリーディング宣言」

2006-08-22 07:33:56 | 書店
「課業とかした読書は読書ではない」ー保坂和志「小説の自由」新潮社

この文章を読んだとき、はっと思ったものだ。
毎日の新刊の量は半端ではない。そしてそのほとんどは本当に必要なのかわからない、ただ出版されるためだけに出版されたのではないかと思われる本である。
そうして、1ヶ月に発行される本はおそらく5千アイテムは越える。そのうち一般に出回る(自費出版とかごりごりの専門書とか外して)のが2千冊くらいだとしても、半端な数ではない。
興味がある本になるとこの数はぐっと減って、実感として一ヶ月に、「お、これ読みたい」と感じる本は20点くらいに収まる気がする。
僕の読むペースはそんなに速くないので、月に10冊ぐらい。軽くオーバーする。もちろん、その他にも名著と呼ばれる今まで発行されてた本も読みたい本があるし、気に入った作家(著者)を発見したときは、過去の作品も読みたくなる。
本屋さんとしてはどうしても話題書を読まねばならないと思うし、例えば「芥川賞くらいは読んどくか」とか、100万部を越えたりすると仕方なく読んでおくとなるのである。

こうなると読書スピードを速めるか、読む本をぐっと少なくして「話題書はよまない」ことにするしかない。

「読書スピードを速める」こういったのが読書といえるか。読んでみると意外と面白かったりするから一概に悪いとは言えないれども、例えば、自分の本棚にずっとのこるだろうかと考えると懐疑的に成らざるをえない。少なくとも頭に残らないだろう。本当に吟味された本が手に取られ買われているか。
本屋としてはテレビで紹介されたとか、話題書だからと買ってくれるお客さんはありがたい。何もしなくても買ってくれるのだから。でもそれでは「書店も読者も易きに流れすぎ」である。

そんな中で、古本屋「よみた屋」さんがスローリーディング宣言をされているのがとても共感できる。

「世代を超えて読み継がれてきた古典を読むこと。声に出すようにして、ゆっくり読むこと。同じ本を何度も読み返すこと。自分だけの愛読書を持つこと。こういう読書を「ゆっくり読書=スローリーディング」と名付けてみたい。」

古本屋さんだからこそいえる、実に正しい、これぞ読書という言葉で頭の下がる思いである。
それでは新刊書店として、僕は何が言えるか。
「話題書を読まないようにしよう」なんて恐ろしいことはいえない。
難しい問いである。
評価が定まっている古典であれば問題ない。
新刊を自分の興味で売っていくのは危なっかしいことなのだ。
そういうのを「ひとりよがり」だと非難されることは間違いなく、よほどの力とセンスを持ち合わせた書店人でないと難しい。
しかし、一般の人よりも本を多く見てきているわけだから吟味することはできる。書評や実際に読んでみたりとか、秘策があるわけではなくて、良い本は雰囲気としてにじみでるものがある。そういう本が月に1冊はあるのだ。
ロングセラーにはこのオーラともいえる質感を発している本が多いと感じる。
そういう本を読んでもらいたいと思う。

ロングセラーの復権と、吟味された新刊を読むこと(売ること)。

これは読者層を大きくのばすことはないけれども、現在の話題書に依存したバブル型の読書人口よりも信頼できる読書人が増えることだろう。
それには大げさかもしれないけど本屋の力が鍵になってくると感じる。

送別会

2006-04-20 06:28:23 | 書店
週一ペースの更新。スローですね。

今日は送別会でした。
我が書店の稼ぎ頭であり、一番話せる、かつ言い争いも絶えなかった同僚T氏が遠くに異動してしまう。よくあることだけど、やはり寂しいことだ。
いままでいろいろ助けてもらったし、理想を求めて突っ走る僕を、理性と論理でよくねじふせた・・・いや、落としどころを見つけてくれたというか、うまくことが進むようにしてくれた人である。
僕はその人のジャンルを引き継ぐことになり、大いに不安である。なにしろやり方が大きく違う。書店のジャンル担当は(少なくともうちの書店は)、各々がノウハウをもって、仕事を進めているから、人によって仕事の進め方、本に対する姿勢が異なる。でも、大変なのは下についているパートさんたちで上がころころ変わる上、人によって言ってることが違ったらそれは混乱する。
そうならないように、いま引き継ぎ作業を進めているけれど、あー俺はそこまで出来ないってことが多い。確実性を求めるT氏。確実性よりも効率を求める僕。このせめぎ合いの落としどころをきちんと付けることが、喫緊の課題である。

さて、最近の本で面白かったのは、
小熊英二「日本という国」。
小熊英二と言えば、「民主と愛国」「単一民族神話の起源」など大著が多いが、今回ぐーっと敷居を下げて「よりみちパンセシリーズ」という理論社の意欲的なシリーズの一つとして出された。このシリーズは中学生から大人までを対象にしているので、非常に読みやすい。それでいて、きちんとおさえるところはおさえてるというすばらしいシリーズ。筑摩書房のちくまプリマー新書とか岩波ジュニア新書とかに連なる系譜として成り立っているけれども、この3つは非常にレベルが高いなあと思う。それに比べて・・。
内容は近現代の日本社会の起源ということで、明治維新、終戦をあげ、いまの社会はここからなりたってんのよってことをわかりやすく説いている。国民国家生成の過程である。国家がどれほど「つくりあげられた」ものなのかがよく分かります。自分で考えること、これを小熊さんは訴えておられます。はげしく共感。

出来たときが壊すとき

2006-04-13 05:30:01 | 書店
忙しい。目が回る忙しさである。
なにせ人が足らない。その上やることが多い。多すぎると言っても過言ではない。
この4月から人事に大きな変化があって、僕も担当が変わる。
現在、文芸書、人文書を担当しているんだけど、文芸書のあまりの不振に、担当を外されて、なにを思ったか、うちの店で一番忙しいであろう社会科学に配置換えである。といっても人文書担当はいままで通り。従来は社会科学担当は、社会科学オンリーで行われていたんだけど、人文書とのかけ持ち。どうやら、会社は僕を殺す気らしい。
社会科学は法律、政治、経済、経営、ビジネス、社会学、教育+資格を束ねる一大ジャンルなので店が大型になればなるほど、売上の大きなジャンルになる。最近はなんだか分からないけど、出版社もビジネス書に力を入れていて、正社員の負担の増大で、その人たちの時間管理やらモチベーションやら人間関係、コーチングさまざまな本がひっきりなしに出ている。さらに株が大人気。
新書のベストセラーランキングを見れば一目瞭然だけど、ビジネス系がほんとにおおい。昨年の「さおだけやは~」のヒットはそれを象徴している。ニート、格差社会といった言葉も誕生。
柳の下のどじょう本がいっぱいである。困ったジャンルである。

頭をかかえてしまう今日この頃だけど、力ももらう出来事もあった。

昨日、大学時代の友人と旧交を温めた。
大学といってもバイト仲間であって、彼らも着実に前に進んでいる。
仕事が違うととても勉強になる。新しいことを始めたくなる。自分がやっている仕事(業務)はもっと効率よくできやしないか。そもそもそれは必要か。もっと面白いことはできないか。彼と以前飲みながらこんなことを話した。「結局、人生、気持ちよくなきゃだめだよ」

未来社PR紙「未来」の今月号にジュンク堂池袋の副店長中村文孝氏のインタビューが掲載されていた。
「・・・ダメなのは「固定化する」という、このことなんです。社会も変わる、人の気持ちもかわる、それをどう判断していくのか、それにどう対応していくのか、ということです。・・棚は動かせ、固定化するなよ、出来たときが壊すときだよ・・・」

言葉は乱暴かもしれないけど、同じことを言っていると思う。
仕事は楽しく。

本屋のつまらなさについて

2006-02-23 06:58:10 | 書店
「本屋のおもしろさ」というのは本屋にとっての永遠の問題だが、欲しい本が手に入ることだったり、他の本屋で置いてない本があったり、本以外のものが置いてあったり。。いろいろあるけど、今日は「ジャンル分け」の話である。

本屋には本をジャンルに分けるという仕事がある。
どこの棚に差すか考えるわけである。
本を大きく分けると、雑誌、文庫、コミック、書籍と分かれるわけだけど、書籍にも文芸、ビジネス、人文、社会、実用・・・と分類があって、規模によってだいたいの基準がある。別に分けなきゃだめなわけではないけど、利便性なんかを考慮して普通はチェーンごとに決まっている。出版社の方でもこの本はどこそこのジャンルにおいて欲しいという希望もあって、そんなこんなで日本全国だいたい同じようなジャンル分けになっている。本を探すときの基準といっていい。
ただ、その分類に入ってくる本は本屋によって多少、違ってくる。
例えば、ハンチントンの「文明の衝突」。この本をどこに置くか。
世界情勢?カルチュラルスタディーズ?世界史?これは本屋によって違う。ここ!っていうのはない。本屋の規模、客層、コンセプトなどふまえて決まっていく。ある著者の本をどのように分類させるかというのも本屋によって異なる。内田樹氏の本を現代思想でまとめるのもありだし、映画論もあれば、レヴィナス研究者ということでレヴィナスのとなりとか、仏教本もあるし・・・。まとめるか、ばらすかというのも一つのポイントである。読者側からすれば、ばらばらよりも著者は一緒のほうがいいのではないかと思う。
もちろんこれは著者が有名な場合。哲学・思想で有名な人も、全体からすれば全く無名であったりする。新刊は毎日200点以上(正確には忘れましたが、とにかくたくさん出ます)は出てるから覚えるのは無理である。知識と経験がものをいうわけだけど、なかなか難しい。本屋に行ってなんでこんなところにこんな本が?というのは無理なからんことなのである(言い訳)。
だからこそ本屋の腕の見せ所なのだが、この棚の編集作業に使われる時間はどんどん減っているのが実情だ。本は売れないから、人手不足である。話題書をどんどん売っていくしかない。
しかし、本屋が一番力を注ぐべきはここである。
なぜなら、専門知識(というかある本に関する知識)についてはお客さんに勝てない。村上春樹を読み込んでいる人に、ノルウェイの森だけ読んでいる本屋とではこと村上春樹に関してはお客さんの本が詳しいに決まっている。しかし、本屋はいろんな本を知っている。書籍も文庫も雑誌もコミックも普通のお客さんに比べればその知識量は多いはずである。ある本と本とを組み合わせる力こそ本屋の真骨頂である。
読者には(オンライン書店には)思いつかないような切り口、視点が可能だ。それはそんな特別なもんではなくて、例えば旅。「旅」というキーワードで旅行ガイドだけを思いついてはいけない。紀行文もあるし、旅に出たくなる小説もあるだろう。歴史もあるだろうし、旅をしたくなる心理がある。いつもはそれぞれの棚にバラバラにささっている本が集まるというのはとても楽しいことである。ちょっとしたお祭りだ。お客さんもそれによって出会うはずもなかった本がそこで出会う可能性がある。

本屋を楽しむ方法はいろいろだ。

だからこそ、本屋よ、易きに流れてはいけない。。。と自分を戒める。