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ボクシング愛に満ちた硬骨漢の訃報に接して

2014-01-20 | 日記
不覚にも、お世話になった人の死を知らずにいた。
1月も半ば過ぎた「大寒」の20日、ご家族から訃報が届いた。
「父・角田吉夫が昨年6月28日に86歳で永眠いたしましたので年頭のご挨拶は失礼させていただきました・・・・」
同居していたご長男からのものだった。
昨年の6月末といえば、わが身は地中海で放浪の旅の途中だった。
6月28日はスペイン・バルセロナにいた。
カンプノウスタジアム(バルサ本拠)を訪ねていた。
89年から17年間、JBC(日本ボクシングコミッション)関西事務局長を務めた角田吉夫が2013年6月28日、循環器疾患のため京都市内の病院で亡くなっていた。
享年86。
角田はサンケイスポーツ運動部長を務め、定年後に要職についた。
新聞の訃報欄に掲載されていたはずで不覚だった。
南欧にいてまったく知らなかった。
日本に居れば、当然、亡者記事を目にしていた。
残念でならない。
今だから、言える。
角田事務局長在任中「あなた、後任になってくれないか」と勧められたことがある。
まだ我が身は新聞社に在職中だった。
我が定年まで、まだまだ期間は残っていた。
「定年になれば考えます」とその場は勘弁してもらった。
関西では“浪速のジョー”辰吉丈一郎人気で関西ボクシング界が盛り上がっていたころだ。
大きなジムの横暴に角田は断固とした姿勢を貫いた。
特に当時、権勢を誇った大阪帝拳・吉井清会長(故人)とも、しばしば衝突した。
我がペンも時に辛辣な記事を書いて、嫌われたこともあった
「曲がったことが嫌いな」角田事務局長とは、妙にウマが合い可愛がってもらった。
海軍第7期予備練生出身の硬骨漢ぶりを大いに発揮していた。
角田は和歌山市出身。
同志社大時代はボクシング部、のちには監督を務めた。
戦後は産経新聞社に入社。
京都支局時代の同僚に宗教担当だった司馬遼太郎がいた。
その後大阪新聞、サンケイスポーツで運動部長を歴任。
82年、定年退職と同時にJBC関西事務局参与。
89年、死去した長谷川武雄事務局長の後任となった。
角田の退任後も、交流は続いた。
京都大学の近くに住んでいた角田とは年に数回、酒席を共にした。
6年前(08年)だから、角田80歳手前のころ、突然「京都に飲みにこないか」とお誘い。
何のことか、と思ったら「海軍時代の戦友らと会合がある。来て一緒に飲みましょう」
まったく、門外漢で「戦争を知らない世代」だから、その誘いにビックリした。
気を取り直して、こんな機会はない、と思い直し参加させてもらった。
会員の中で一番の年下だった角田だったが、幹事として取り仕切っていた。
集まった10人ばかりの大先輩たちは、海軍出身らしく老いても、かくしゃくとしていた。
角田は戦時のことを記した「あぁ海軍 : 七期予備練生の変遷」の著書も残している。
女子ボクシングには、最後まで反対していた。
それだけボクシングは過酷なスポーツで「女子がボクシングをするなど、もってのほか。見世物小屋ではない。とんでもないことや」
自説は曲げなかった。
美人モデルがネコパンチを繰り出し、お笑い女性芸人が人気をあおるために五輪代表をめざす。
今の女子プロボクシング世界戦を天国でどんな顔をして見ているのだろうか。
「日本ボクシングコミッションがしっかりせなアカン」
海軍魂で、さぞや吠えていることだろう。





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