第1変奏
主題の後5個の変奏とコーダが続きます。
変奏曲形式には、ソナタ形式の様な決まりみたいのは無く変奏の数も自由です。
ただ古典時代までは厳格変奏と言って,主題に則って様々な変奏が作られていますが、古典期の終わりから(ヴェートーヴェンの頃)ロマン派になると主題の動機を用いて自由な形の変奏も生まれて来ます。(性格変奏)
この魔笛は厳格変奏ですがソルも後期作品では性格変奏も作っています。
さて第1変奏は主題と小節数も和声も全く同じという厳格変奏です。それでいて個性が、がらっと違って見えるのは素晴らしいです。
おなじ厳格変奏でもフェステラリアーネとは大違いです。
この第1変奏と主題を一緒に2重奏でやるとご機嫌な曲になります。まあ一卵性双生児だが個性が全く違うという感じです。この感じが第3,4,5変奏でも同じです。
さて話を戻します。曲の構成も主題と変わらず2+2+4の8小節構造です。強弱も同様です。ただし主題と大きく違う所があります。
バスの扱い方です。主題では冒頭4小節はあえてバスが無くしてあるのにV1ではバスを多用してます。反対にViの前半お終いではバスがありません。
又この後半8小節ではバスは極端に少なくなっています。僅か3音しかないのです。このバスのある、ナシを意識しなくてはよい演奏は出来ないでしょう。
作曲家は稀には学校の校歌等生活の為に曲を書く事もありますが、殆どは産みの苦しみを経てやむにやまれぬ思いや、心の迸りによって曲を書きます。
私も大した曲ではありませんが作曲の時はそうです。和声は勿論、バスの選択には血の滲むような決断を要します。
演奏家はその辺の所を良く考慮すべきです。
もう一つ最近話題になっている所があります。このV1の1小節目の1拍目の裏拍に旋律です。ソファラソの所です。
セゴビアはここのファをダブルシャープで演奏しています。ここは初版(第1版)ではファ#となっていますが、ソルの曲は他の出版社でも出しておりダブルシャープになっているのもあります。
どちらが正しいかはソルもいないし自筆譜が無いので分かりません。でもこれだけの名曲です。2種類の演奏があるのも可哀そうです。
ただ僕はダブルシャープの方が正しいと思っています。
このViの動機は何度も出て来ます。24回でてきます。この問題となっている所以外のタカタカタンの初めの2音は21回が全部半音になっています。全音に所2か所はフレーズの終わりに使っています。ですから問題の個所がファ#では不自然な感じがします。最も例えソルがファ#と書いたとしてもそぐわないでしょう。作曲家も神様ではありません。1度書いた作品も思う事があれば何度も手直しします。私もそうです。楽譜から心を読み、何度も修正し、より高みに登って行くべきです。
皆さんはどう思われるでしょうか。ただし、この部分はバスの進行や和声と言った曲の根幹をなす所ではありません。根幹にかかわる所では推敲に推敲を重ねた演奏が必要ですが、枝葉末節に捉われた演奏も考えものです。
ただし単純に、印刷された楽譜をうのみにしたり、そこに山があるから登るんだ、といった演奏はしない事です。自分なりにこうだからと推論を立てる事はとても大切な事です。
作曲者の心を汲む。作曲者と心を通わせる事は演奏家には欠かせない要件と思われます。
PS 前回の主題の項目で書きもらしがありました。前半と後半の2、3小節の1拍目は倚音です。少し強調して次の解決音を抱き込む様に演奏します。この使い方は第2変奏でも多く出て来ます。演奏上強弱の他に注意すべきはこの倚音が下拍という事です。
主題の後5個の変奏とコーダが続きます。
変奏曲形式には、ソナタ形式の様な決まりみたいのは無く変奏の数も自由です。
ただ古典時代までは厳格変奏と言って,主題に則って様々な変奏が作られていますが、古典期の終わりから(ヴェートーヴェンの頃)ロマン派になると主題の動機を用いて自由な形の変奏も生まれて来ます。(性格変奏)
この魔笛は厳格変奏ですがソルも後期作品では性格変奏も作っています。
さて第1変奏は主題と小節数も和声も全く同じという厳格変奏です。それでいて個性が、がらっと違って見えるのは素晴らしいです。
おなじ厳格変奏でもフェステラリアーネとは大違いです。
この第1変奏と主題を一緒に2重奏でやるとご機嫌な曲になります。まあ一卵性双生児だが個性が全く違うという感じです。この感じが第3,4,5変奏でも同じです。
さて話を戻します。曲の構成も主題と変わらず2+2+4の8小節構造です。強弱も同様です。ただし主題と大きく違う所があります。
バスの扱い方です。主題では冒頭4小節はあえてバスが無くしてあるのにV1ではバスを多用してます。反対にViの前半お終いではバスがありません。
又この後半8小節ではバスは極端に少なくなっています。僅か3音しかないのです。このバスのある、ナシを意識しなくてはよい演奏は出来ないでしょう。
作曲家は稀には学校の校歌等生活の為に曲を書く事もありますが、殆どは産みの苦しみを経てやむにやまれぬ思いや、心の迸りによって曲を書きます。
私も大した曲ではありませんが作曲の時はそうです。和声は勿論、バスの選択には血の滲むような決断を要します。
演奏家はその辺の所を良く考慮すべきです。
もう一つ最近話題になっている所があります。このV1の1小節目の1拍目の裏拍に旋律です。ソファラソの所です。
セゴビアはここのファをダブルシャープで演奏しています。ここは初版(第1版)ではファ#となっていますが、ソルの曲は他の出版社でも出しておりダブルシャープになっているのもあります。
どちらが正しいかはソルもいないし自筆譜が無いので分かりません。でもこれだけの名曲です。2種類の演奏があるのも可哀そうです。
ただ僕はダブルシャープの方が正しいと思っています。
このViの動機は何度も出て来ます。24回でてきます。この問題となっている所以外のタカタカタンの初めの2音は21回が全部半音になっています。全音に所2か所はフレーズの終わりに使っています。ですから問題の個所がファ#では不自然な感じがします。最も例えソルがファ#と書いたとしてもそぐわないでしょう。作曲家も神様ではありません。1度書いた作品も思う事があれば何度も手直しします。私もそうです。楽譜から心を読み、何度も修正し、より高みに登って行くべきです。
皆さんはどう思われるでしょうか。ただし、この部分はバスの進行や和声と言った曲の根幹をなす所ではありません。根幹にかかわる所では推敲に推敲を重ねた演奏が必要ですが、枝葉末節に捉われた演奏も考えものです。
ただし単純に、印刷された楽譜をうのみにしたり、そこに山があるから登るんだ、といった演奏はしない事です。自分なりにこうだからと推論を立てる事はとても大切な事です。
作曲者の心を汲む。作曲者と心を通わせる事は演奏家には欠かせない要件と思われます。
PS 前回の主題の項目で書きもらしがありました。前半と後半の2、3小節の1拍目は倚音です。少し強調して次の解決音を抱き込む様に演奏します。この使い方は第2変奏でも多く出て来ます。演奏上強弱の他に注意すべきはこの倚音が下拍という事です。