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米子散歩 (70)
米子に最近やって来たのであるが、米子がどんなところか、まったく予備知識がなかった。
そこで、両三柳、道笑町、皆生、角盤町、陰田、陽田、車尾、熊党など米子の珍しい地名の由来を調べてみた。
住む町の地名を探ることは、その町を知る上で大きな意味があると考えるからである。
さしあたって、『角川地名辞典』、『平凡社地名事典』、『弓浜物語』、『米子ふるさと散歩』
などを見てみる。
(以下今回)
陽 田(ようでん)村 現米子市陽田町・道笑町四丁目
米子道南の「陰田町」と対照的な名称である。現在の陸上競技場の南、明道小学校(陽田町)が南にある。勝田(かんだ)村の南、北西流する加茂川沿岸にあり、東山丘陵南麓に位置する。
南は長砂村。正保国絵図には用伝(ようでん)村と見え、正徳元年(1711)郷村高辻帳に古くは用伝(ようでん)と記される。
拝領高(村の石高)は五三石余、本免三ツ七分(年貢・税率は37%)。米子荒尾氏の給地であった。
幕末の六郡郷村生高竈(かまど)付では、生高(村の石高)六一石余、竈数(家数)五、人数一七。藪役銀(藪への課税年貢)一匁五分を納めていた(藩史)。
当村の稲干場は、長砂村御建山(注:藩の直轄山)内にあったが、風通しが悪いため文政一三年(1830)当村内御建山への場所替えを願出、許可された(在方諸事控)。
加茂川利用の水車は、同川流域では最も規模が大きかった。天明八年(1788)庄屋多吉は、落合村(現在の西伯町)伊兵衛がもっていた当村内の綿実油絞りの水車を買い、稼働許可を受けた。
文化年間(1804~18)以後にこの水車は、藩の米子蝋座支配となり、経営は米子の町人「唐櫛屋」らが当たった。
とくに水車を利用した綿実油絞りは藩の大切な財源となり、文政五年の「産物方役所」設置以後、藩と荒尾氏の共同で、近世末まで「御上様趣向」として経営された(米子市史)。
明治十年(1877)、長砂村と合併、長田村となった。同一二年の長田村の家数三六(男92、女81)、水車二、牛三〇・馬一(共武政表)であった。