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意識の世界と科学、ニュートンのメッセージ、1989年

2020年05月12日 | 人間の意識
これは、今から30年ほど前に、あるチャネラーに語られた、生前、地上ではニュートンと呼ばれた方の、霊界からのものとされるメッセージです。霊界というものについて、霊界にいる科学者という立場で語ったものです。部分的に編集してあります。

(ここから)

アイザック・ニュートンです。

今日は、科学者として、私が、こちらで見た世界について、話をしていきたいと思います。こちら、というのは、言うまでもなく、あなた方が霊界という言葉で呼んでいる世界のことです。

この霊界は、非常に広大無辺な世界で、いまだ嘗て、この世界のことが、明瞭、明確に説き明かされたことはないと言ってよいでしょう。

なぜ、この世界が、厳然として存在するにもかかわらず、明瞭、明確に説き明かすことが出来ないのでしょうか。

そして、また、誰も、そのことに成功しないのでしょうか。この事実について、考えてみたいと思うのです。

地上の人々、特に科学を学び、それを信奉している人達は、どうしても霊界というものに対して背を向けがちです。それが、なぜなのだろうか、と考えた時に、大きく、二つの原因が、そこにあるように、私には思えるのです。

第一の原因は、この死後の世界というものが、科学的アプローチによって極めて検証しにくい世界である、ということです。

海の底であるとか、あるいは大気中、宇宙外、こうした所は、人間的努力によって、ある程度、探究の可能性がありますが、この霊的世界は、そう簡単に探究できない。そして、探究できるのは、科学者と言われる人々ではなくて、突如、天から降って湧いたような、霊能者、預言者といわれるような方だからなのです。

そこで、科学者は、方法論的問題において、まず第一番目の困難に行き当たるわけで、こうした、方法論的に極めて可能性が少ない場合、彼らは、自動的にその世界を避ける傾向にあります。

第二の原因は、やはり、これは、教育、あるいは文化の問題として考えられるでしょう。

霊的世界について(誰かが)語ったことは、これは、人間が原始の時代に素朴に信じていたこと、という様にとられて、近代社会の中では、そうしたものはない、という考えが主流になって来ているからです。

この考え方の基礎をなすものに、二つあると思います。

一つは、技術的進歩によって環境を変え得た、人間を幸福にし得た、という、その自負の面だと思います。地上を幸福にするものは、神だとか霊だとかいうものではなくて、人間自身が工夫し、創意し、発明した科学技術なのだ、という一つの自惚(うぬぼ)れです。これがあると思います。

もう一つは、地上が非常に住み良いものとなって来た、という事実そのものに帰せられることでしょう。地上が住みよくなって来た、非常に便利になり、面白くなって来た。こうしたこと自体、霊的関心を失わしめるのに十分な基礎を作っていると言えるかも知れません。

人間は、不自由な中においては自由を求めます。けれども、自由の中において、自由を求めるという心は、次第次第に薄れて来ます。

まず、情報の自由があります。世界各国の情報を瞬時のうちに入手できる、といった自由があります。また、これ以外にも、交通機関、運送、運輸、移動の自由というものがあります。こうした移動の自由は、ある意味で、地上生活を霊界に近付けていると言ってもよいかも知れません。

ほんの数十年前には、地球の裏側にまで旅行するということは、極めて難しいことであったかも知れませんが、現在では、誰もが海外旅行に出掛けて行きます。飛行機という便利なものがあって、地球の裏側でも十数時間で行けるようになりました。これは、地上の人間の生活が、ある意味において、極めて霊界に近付いている、その理解や価値観は別として、その存在形式、運動形式自体が霊界に近付いていると言うことが出来るのではないかと思います。

すなわち、霊界というのは、念う速度に極めて近い速度で空間移動が出来る世界のことです。それゆえに、飛行機の登場、また飛行機以外のものであっても、極めて高速度で移動できるものの登場は、霊界の運動法則を地上に現出させるのに効果があったと言えるかも知れません。

さて、科学者の目で、私は、死後の世界について語ってみたいと申し上げました。科学者として申し上げる以上、私の分析は、ある程度、誰が見てもそう思える、というものでなければならないと思います。

この、私の見た死後の世界で、どうしても言っておかねばならないことが三つあります。

第一は、この、死後の世界と言われるもの、霊界と言われるものは、一様でないということです。それはそれは非常に多様な世界が、そこに広がっている、ということなのです。地上でも、平面的に色々な国家が広がっているように、霊的世界においては、もっと空間的な、もっと時間を加えた意味において、多様な世界が広がっています。

第二に、是非とも言っておかねばならないことは、こうした世界のあり方を決めているものは、そこに住んでいる住人たちの、心の総合集積の念である、ということです。そこに住んでいる人たちの、心に描かれた世界が出現しているということで、そこに住んでいる人たちに似つかわしい世界であるのだ、ということなのです。そこに住んでいる人たちに似つかわしい世界がここにある、そう思えるのです。

第三に言えることは、この霊的世界の違いを説明するものとして、神の光の度合いの違いがある、ということです。光の度合いが、明らかに違っているのです。この光の度合いは、一概には説明がつかないものです。

地上の皆さんは、蛍光灯の光、月の光、太陽の光、こうした光を感じておられるでしょうが、この霊的世界の光とは、少し感じの違った光なのです。それは、明るさや暖かさを伴うのは当然ですが、これ以外のものが光の中に入っているということです。

これ以外のもの、とは何か、それは、正(まさ)しく、この、霊的光、神の光によって養われているという感じが非常に強いのです。人間は、地上生活をしている時に、光によって養われている、という気持ちを持つことは稀(まれ)でしょう。ところが、こちらの世界に来てみると、この、光というものが一つのエネルギー源である、ということを、明確に感じ取るようになります。自分が、どれだけ神に愛されているか、ということは、この光の強さで分かるようになります。強い光が当たる世界に、強い光の流れの中で生きている、ということは、幸福感を限りなくもたらすものなのです。

この強い光、これは、結局、こういう意味合いを持っているとも言えましょう。光について、養われているという感じが地上にあっても、植物たちは、それを感じています。緑色植物たちは、太陽の光を浴びなければ生きて行くことが出来ません。太陽の光を浴びて、そうして炭酸同化することによって栄養分を造り、そして成長して行くでしょう。この時に、植物たちは、光の恵みというものを、ずいぶん感じています。彼らにとっての光とは、明るさとか、あるいは、暖かさだけを意味するのではなくて、生活の糧(かて)そのものなのです。彼ら自身が、光によって養われているのです。

動物や人間は、こうしたことを感じることなく地上を去ることが多いのですが、地上を去って、こちらの世界に来てみると、この植物の気持ちにも似たものを、明確に感じるようになります。光なくしては生きて行けない、そういう気持ちが強くなって来るからなのです。

光は喜びです。光は力です。光は勇気です。光は無限の糧です。そうした感謝の気持ちが、じわじわと伝わって来るのです。それは、当初より、あるいは、太初の昔より、必要不可欠のものとして在った、そういう存在なのです。

以上で、死後の世界の特徴的な部分について述べました。

さて、さらに私は、次なる検討に入って行きたいと思います。そこで、とり敢えず、ここでは、私の見た、科学者たちの死後の世界について語っておきたいと思います。

霊界は、広大無辺なので、全ての世界について説明し尽くすことは難しいのですが、こちらの世界で、科学者たちが、どういう生活をしているのか、研究をしているのか、ということを知ることは、あなた方にも、たいへん参考になることでしょう。

こちらでの科学者は、地上の科学とは違って、霊界科学というものを研究していることになります。地上で、私は万有引力を発見したり、その他の様々な自然科学的法則を発見しました。そして、その根本には、私は、神が創られた世界であるから、それなりの法則があるはずだ、という思想を持ち続けておりました。

ところが、地上を去った世界、実在界とも言われる私達の世界に還って来ると、この世界の仕組みを説く方法は、もっともっと高度になって来ます。私達の住んでいる世界で起きて来る現象、これを、単に経験的にのみ受け止めている人もいます。すなわち、こういう場合はこういうことが起きるのだ、こういう事件が起きたのはこういうことだからだ、というふうに受け止めていく生き方、経験的に物事を知っていこうとする生き方をしている霊人たちが多いのは事実です。

しかし、私たち科学者の魂は、単にそれだけでは満足することが出来ないのです。私たち科学者的魂は、さらに一歩進んで、次なる探究に入って行きます。この、次なる探究とは何かというと、なぜ、こうした法則が霊界に働くのか、ということを探究しているのです。なぜ、なに故にこうなるのか。

例えば、私たちの世界では、念動、これは念力の力ですが、この念動の非常に強い霊人も居ります。こうした念動の強い霊人は、霊界の山を切り崩したり、あるいは、霊界に大地震を起こしたり、霊界の木をなぎ倒したり、こうしたことが出来るようになります。それは、まことに不思議な感じですが、念いというのが、力学的な力を持って現われて来る瞬間なのです。念いが力学的力を持って現われて来る。そして、様々な現象を起こすようになって来るのです。

また、念いによって、そうした破壊的運動をするだけでなく、念いによって創造をする、こういう力もあります。この念いとは、もちろん、念という意味での念いです。念とは、ある一点に、力を、心の力を集中させて、何かを作用させよう、動かそう、とする力のことを言います。この念の創造作用こそが、実は、霊界物理学における、いちばん興味あふれる部分であろうと思います。

霊界において、私達は、念いによって様々なものが造れるのです。これは、まことに不思議ですが、その通りなのです。ただ、この念いの実力というのがあって、実力相応の世界を造ることが出来るようになります。人によっては、小さな物を出すぐらいの力しかない者もあれば、念いによって家を建てることが出来る者もあるし、さらに、念いによって、もっと大きな環境作りをする者もいます。

これが、実は、私達が真に神の子であるということの証明に、ほかならないのです。地上の人間は、神が念いによって世界を創られた、と言っても、その意味が十分に分からないでしょう。ところが、私達の世界においては、そのことは、至極もっともな当然のことなのです。なぜならば、私たち自身が、念うということによって、色々なものを造り出すことが出来るからなのです。

それ故に、神が念いによって世界を創り出した、というのは、まことに当然であろうと思うのです。それは、素直に信じられることなのです。地上では、何か物を作るときには、材料を仕入れなければなりません。材料を加工し、そして機械を作り部品を作って物を組み立てて行きます。ところが、こちらでは、全くそういう必要はないのです。

まあ、不思議と言うしかありません。私は、様々な機械が必要となることがあり、それについて、設計図を書く場合もありますが、設計図を書かなくても、心の中に明確にその像を描くと、その機械が目の前に現われるのです。まことに不思議ですが、現われて来るのです。忽然と現われる、というのが、その真相です。

こうして、その機械を使って、色々なことを研究するのです。これは、どういうことかと言うと、こちらの世界では、手仕事、手作業のようなものを、それほど重視していないのだと言ってよいでしょう。こちらの世界において、真に探究され味わわれるべきものは、心の価値、精神的価値であって、その方に、九割以上の力が注げる世界となっているのです。

地上で、心の大切さを教えている人もいるでしょうし、心の大切さを学んでいる人もいるでしょうが、その心を作るために、環境の整備が非常に大事になります。地上の人間は、まず家を建てなければ住む場所がありません。家を建てて、そして生活する場合にも、収入というものが必要です。収入がなければ、毎日の食事にも事欠くようになります。しかし、この収入は、今度は、仕事というものを通して得られます。仕事の中には、必ずしも精神的でないものが、相当多くあります。単に、労働としてのみある仕事、これが極めて大きな部分を占めていると思えるのです。

そうして、一日二十四時間のうち、真に自分の精神的なことに、あるいは、心の向上のために使える時聞が、僅か一時間や二時間、せいぜい三、四時間しかないというのが、現代人の姿で、残りの二十時間以上の時間は、その時間を作り出すために費やされている、と言っても過言ではありません。

霊界の人達は、こんなことを聞くと驚いてしまいます。彼らも、元は地上で生活していたわけですが、地上時代の記憶は、こちらの生活に馴染むと、次第次第に忘れていくことになります。忘れ去っていくのです。そうすると、不思議なことに、彼らは、地上時代には、自分たちが精神価値を求めるために、それだけの基礎努力を要したということを、次第次第に忘れていきます。そして、こちらの世界では、念ったことは実現する世界なので、念ったことを実現できるということを当然として、さらに、それを材料とし、手段として、より高度なものを求めることに没頭するようになって行きます。つまり、時間効率は非常によいのです。極めて有効な時間利用が行なわれていると言ってもよいでしょう。

地上のあなた方は、こういう話を聞くと、本当に羨(うらや)ましく思えることと思います。まず、食べ物を得るための努力をする必要がないのです。地上にいて食べていくために、どれほどのエネルギーを消費しているか考えれば、これは大変なことです。食べなくてもよいならば、地上の人間でも、ずいぶん負担感は滅るでしょう。

何も飲まずとも、何も食べずとも死ぬことがない。そして、元気で働ける、という条件があったら、もし、そういう人間が生きているとしたら、その人は、極めて異例な存在であり、超人となるでしょう。もし、飲食をしないでも生きていける人が居たら、この人の時間は、普通の人間と比べたならば、それは相当なものとなるでしょう。

そして、その時間を使って色々なことが出来るでしょう。食事の時間が要らないだけではなく、糧(かて)を得るための労働時間が要らないわけですから、建設的な作業に、極めて多くの時間を費やすことが出来るはずです。

さて、私が、現在、私の世界で、どういう仕事をしているか。それについて興味関心のある方もいらっしゃるでしょう。

神の創られた世界は、七色の光線によって支配されています。そして、その七色の光線の特徴に応じた、霊的世界や地上世界があります。それぞれの霊人たち、あるいは、地上人たちは、七色の光線のどれかを引いていると考えてもよいでしょう。

私は、銀色の光線と言われる、そうした、光線の発信地に近い所に位置しています。この銀色の光線は、近現代においては、極めて大きな役割を果たしました。この銀色光線の増幅によって(地上世界の)機械化が増進して来たことは、間違いありません。

さて、その銀色光線の役割、すなわち、霊界において、私が、いったい何をしているかということですが、この銀色光線を、ほとばしらせることによって、この系列下にある霊人たちが、非常に使命に燃えるわけです。使命に燃えて、活動を開始するのです。

この使命に燃えた活動というのが、何であるかというと、すなわち、私の方から降ろしていく一種の指令と言ってよいでしょう。こういう方向で科学を進展させていく、という指令を、私の方から出しますと、その指令を受けて、他の八次元霊や七次元霊たち、こうした光の天使の科学者達が、これを具体化していく作業をして行きます。

そうして、地上に降りている、進歩した科学者にインスピレーションを与えて、地上で、新たなものを発明・発見させていく。こういう手法をとっているのです。

例えば、地上には、コンピューターとかワープロとか、こうした機械が氾濫して来ましたが、このコンピューターやワープロの源泉になるもの、その原因となるものは、既に霊界で発明されておりました。霊人の科学者たちも、いかにして地上を進化・進歩させるか、という研究に余念がないのです。彼らは、地上を進化させる方法の一つとして、仕事の効率化、時間の効率化、ということを常に考えています。どうすれば、能率アップ出来るか、どうすれば、より多くの効果が出せるか、こうしたことを中心に考えているのです。

そうすると、歩いて何日もかかった距離を、鉄道を敷くことで、ごく短時間で動ける。飛行機を飛ばすことで、一時間で動ける。リニア・モーターカーを動かすことで、ごく短時間で行き着ける。これを考えつくのは、彼らにとっては必然に近いと言ってもよいでしょう。

また、そうした行動だけではなくて、着想、アイデアによって改善をしていくのも、彼らの研究の対象の一つです。新たなアイデアを得る、新たな着想を得る、こういうことで工夫をさせる。そして、すばらしいものを開発していくということです。

例えば、新たなエネルギー源の開発、ということが挙げられると思います。石炭があり、石油があり、電力があり、その次に来る、物理・化学反応のエネルギーがあるわけです。この化学反応のエネルギーの中には、水素爆弾や原子爆弾の元となったようなエネルギーもあります。これらは、使い方を誤れば、大変な危機を人類にもたらすことは必定ですが、しかし未来を考えた時に、原子力エネルギーは、必要不可欠なことが分かるでしょう。

化学的反応からエネルギーを取り出すことに成功すれば、エネルギー源は無限に近いと言えるからです。そして、この方向は、続いていくことになるでしょう。地上の人間が、この地球上にちりばめられた秘密を探り当てているように、霊界の科学者たちも、地球という存在についての研究を進めています。これは、秘密の宝庫なのです。極めて豊富な宝庫で、色々なものが、この中に埋まっているのです。色々な法則や、色々な方程式、色々な原材料、こうしたものが全て埋まっているのです。

さて、霊界科学とは何かということを、ひと言で語ることは極めて難しいと思います。ただ私は、皆さんに、次のようなメッセージを送っておきたいと思うのです。

それは、霊界科学とは、人間を真に自由にするものだ、ということです。人間を、真に自由にする、それが霊界科学である。すなわち、人間を縛っている絆(きずな)、人間を縛っている束縛、これを一つ一つ外していくのが霊界科学なのです。人間は食事をしなければならない。人間は何々をしなければならない。こうした縛りを取り払っていって、そうして人間が本来持っている力を百パーセント発揮させる方法、手法、これが霊界科学なのです。霊界科学は、この意味で、極めて先の長いものだと言えましょう。というのは、人間は環境的な束縛から逃れても、次なる束縛があるからです。

その次なる束縛は、認識の束縛と言われるものです。理解できないために、気付かないことが非常に多いのです。例えば、自分が、その念動、念の力によって山をも崩すだけの能力があっても、それを自覚しない、知覚しない、認識できないために行なえない、という人は数限りなくおります。また、自分の念いで、自己の姿を変化させることが出来ることに気付かないがために、生前のままの姿でいる者も数多くおります。こうしたものなのです。この認識の束縛を取り除くことは極めて難しいのです。

よって、科学者達は、この認識の束縛を取り除くために、いかに自由奔放な、いかに自由自在な、いかに奇抜な着想を得るかということに、常々、頭を巡らしております。この認識の束縛を取り除いていくためには、銀色光線だけでは無理で、他の、哲学的光線、知性の光線でもある青色光線の方の力も受ける必要があるように思います。世界をどのように分析するか、という分析能力です。こうした分析能力がなければ、本当の意味で、自分自身の持っている力を発揮することは出来ないからです。

もう一つ、私の見た世界で、言い落としてはならないことを申し添えておきたいと思います。

それは、こちらの世界では、数の単位が(地上とは)違っているということです。地上では、数は、一個、二個というふうに分かれていますが、こちらの数の単位は、そうではないのです。地上では、木が五本立っていれば、これは五つだと考えますが、こちらの世界では、例えば、視覚的には木が五本立っていても、これらの木の意識が共通しておれば、木は一本である、という見方も可能な世界なのです。このように、意識の類似性によって個体差を見分ける、というのが、私達の計算の仕方なのです。

魂の兄弟という話があります。地上の人から見れば、霊人たちは一人ひとりの個体ではなくて、本体と五人の分身で作られている、という見方をすることもあるようです。六人組で、魂が出来ているとする見方もあるようですが、これは、私たちの世界からすれば、まことに奇抜な理論です。私達は元々一つなのです。元々一つなのに、地上の人間から見たら、何人かに分かれているように見える、というだけのことなのです。まことに不思議です。

それは、花びらを見て、花びらが十枚あるから、これは十個の花だと言うのに似ています。私達は、花びらが何枚でも、一つの花として咲いている(と認識する)のに、地上の人から見れば、花びらが十枚あるから十個の花だと言うのです。こうした感じに近いです。

ですから、本体分身理論のような、何人かの魂のグループで霊人が出来ているという考え方は、極めて地上的な考え方であって、私達においては一つなのです。一つのものを、地上の人達が見ると、何人かに見えるというだけのことです。私達は、意識の同一性で数を数えますが、あなた方は、物体的、あるいは個体的な現われ方を見て数を数えます。

こうした数の数え方は、私達の世界から見たら、極めて不思議です。どうか、こうした不思議な認識のギャップがあるということを学んで下さい。こうしたことが、霊界の真相を知るために、必要不可欠になっていくのです。

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