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無為自然の真実、老子のメッセージ、1986年

2018年11月13日 | 精神世界
これは、今から30年以上前に、あるチャネラーの方に伝えられた、老子という方のメッセージとされるものです。ここでは、以前の記事で触れました「無為自然」の本質について、現代的な視点を交えて語られています。言葉が現代語ですが、霊界から見た、現代の意識で語られているという事で、ご理解頂きたいと思います。意味を変えない範囲で編集してあります。



(ここから)

このような形で、私が通信を送れるということも、神の恵みです。この神の恵みに対し、私たちは、共に感謝しましょう。

諸聖賢が、あなた方に様々な話をされたと思いますが、彼らの話を考えてみると、やはり努力の教えです。人間は、何か努力をして、そして自分を高めていかねばならない。悪しき自分から善き自分へと、脱皮しなければいけない。そういった教えが、やはり七割~八割の人の教えであろうと思います。

私の説いていた「無為自然(むいしぜん)の道」というのは、それとは違います。

人間には努力はいりません。努力しよう、しようと思う焦りの心が、人間をして牢獄に閉じ込めてしまうのです。人間は、もとより、原始より悟った神の子なのです。そうであるならば、人間は、己が心を天真爛漫(てんしんらんまん)に、そして自由自在に解放することによって、初めて、本来の自己に立ち戻れるのです。これは努力によって獲得することではありません。

今、あなたの頭の中には、教えとか、あるいは、特殊な能力というものは、努力して獲得しなければならないものだという考えが、根強くこびりついていますが、そうではありません。努力して獲得するものではなくて、それは、本来あるものなのです。要は、砂の中に埋もれた、この宝塔(ほうとう)、宝の塔、これを掘り出す作業なのです。本来、宝の塔のような存在、知恵でギッシリ詰まった、そういった宝塔を、人間は、自分自身の中に埋めています。

これが、永い間、波風や、砂や、様々なものに当たって、埋まってしまっているのです。要は、これを掘り起こし、自然のままの相(すがた)にとり戻すということなのです。ですから、新たなものを積み上げていくのでは決してなくて、本来あるものを、塵(ちり)や垢(あか)を除いて顕わに出すということです。ですから、努力努力といって東奔西走している人たちに対して、私は言いたい。人間は、本来、神の子であり、自分自身の中に総てが入っている、という事なのです。

それを、喩えて言うならば宝塔なのです。全ての人間がそういった宝塔を持っています。それが埋もれているだけなんです。皆さん、それを積み重ねることばかりを考え、この地上に、宝の塔を築き上げるような意識を持ち、一階建、二階建、三階建、五重の塔とか、七重の塔とか、そういったものを造ろうと思ってしまいますが、そうではなくて、例えて言えば、砂浜にそのような宝の塔が埋もれているのです。この砂を、一階、二階、三階と取り除いていく作業をやっているわけです。そして、すべて出せば、これが如来界になり宇宙界になるだけのことなのです。埋もれている部分が多いというだけなのです。本来、それらは(あなた方の中に)みんな埋まっており、筍(たけのこ)のように、それを据り起こす作業だけが必要なのです。

その作業は、努力ではなくて、喩えていうならば、ブルブルっと身振いをするようなものです。要するに、心を解放する、風穴を開ける、心を空(から)にする、砂を取り除く、そうしたことが、ほとんどの人間は出来ないのです。上へ積み上げることばかりを考えているから、自分が埋れた存在であるということに気がつかないのです。箒(ほうき)や叩(はたき)で払い除けるのと同じことです。本来備わっているもの、ただそれを出すだけのことなのです。

これを、私は、古代中国において、今も言われているように「無為自然の道」というようなことで説いたのです。それを誤解して、何もしないでいいのだ、ブラブラしろ、あるいは、悠々自適というふうにとる方も居ります。でもそれは、方法論としては、ある程度は当たっています。

多くの仏法者、或いはキリスト教者、他の宗教者は、修行の階梯、階段を登り詰めて、初めて、キリストだとか、釈迦だとか、そういった境地に到達するのだという考えを持っています。あなた方には、菩薩界であるとか、如来界であるとか、宇宙界であるとか、そういった次元の意識、高い低いの意識があるかも知れないけれども、そうした差別知で物事を考えるのは非常に危険です。

あなた方は、毎日、毎日、あくせくと働いておられます。そして、たまには坐禅など組んで、魂を洗おうとしているわけです。こういうふうに、あくせくする心があるからこそ、迷いが出てくるのです。あなた方は、たとえば、坐禅のようなものは、あまり深い意味を持っていないと思っているし、あまり高い評価はしていないようですが、心を空っぽにするというような修行においては、埋もれたものを発掘する、あくせくした心を払い除けるそういう点では意味があります。ですから、ただ、のんべんだらりとするわけではありません。意識的に心を解放するということも、場合によっては必要でしょう。

頭を空っぽにするということは、心の中の雑多に詰め込まれたものを払い出すということです。煤(すす)や埃(ほこり)、焦り、いらいら、不安、焦燥、こういったものを振り払う、篩(ふる)い除けるということです。そうすれば、人間は、その身そのままで、神仏の道を極めたことになるという、これが私の教えです。

現代人は、とかく詰め込み過ぎ、知り過ぎる。本当に必要な知識は、そんなに要るものではないのです。この頭中心の生活こそが、人びとをして、苦しめ迷わしているのではないでしょうか。そして、知り過ぎて馬鹿になっていく。今の医者とか科学者は、言葉は悪いかも知れませんが、いわば利巧馬鹿、お利巧さんの馬鹿者というものです。医者は、自分の医学に自惚(うぬぼ)れ、酔ってしまって、たとえば、死というものを、いろいろ研究しています。死は心臓が止まった時に死であるとか、脳波が止まった時に死であるとか、こういったことをいろいろ考えて、解ったような気になっているわけです。死というのは肉体から魂が離脱することです。それが死です。当然のことです。

それを、肉体の器管の動きばかり研究しているわけです。私たちから見れば、非常におかしくて腹を抱えて笑うような状況です。それで、自分が本当に賢いと思っているのです。こうした利巧馬鹿が、一杯居ます。つまり、本当の死を知らないで、なぜ死んだか、何処で、死んだか生きているのかを決めるのか、そんなことに一所懸命あくせくしているのです。これが医者の先端にいる方々です。また遺伝子工学といって、いろんな遺伝子の組換え、或いは精子と卵子の問題、人工でいろんな生き物を作る試み、こうしたことをやって生命の神秘が解けたなどと喜んでいる人達がいる。そうしたことを、何十回何百回やったところで、生命の秘密、魂の問題は解けないのです。魂の問題は、魂の問題なのです。それを知らずに、いくら生物学的に分析しても限界で、お釈迦様の掌の中で、゛孫悟空゛が宇宙の果てまで行ったと思ったのと同じことになってしまうのです。

こういう利巧馬鹿が非常に多いのは、それはそれでいい。知識、技術として、そういったことを解明することは悪いことではありません。ただ、これで、得意気に、したり顔をするのが間違っていると言っているのです。彼らは非常に可哀相な方々です。彼らは死んでこちらの世界に来ます。そして自分たちの脳があることを見て、脳があるということは、私は未だ生きているということであろう。心臓が動いているような気がするから、未だ生きているのだろう。手を当ててみると心臓の音が聴こえるわけです。死んでこちらへ未てもです。心臓が動いているということは、医学的に見て、俺は生きているわけだから、生きているのである。――などと言って、親族とか、或いは子孫たちに、出て来ては災いを起こしている。こういった馬鹿な霊たちが沢山居るのです。これは、知識で、自分の思考を狂わしてしまっているわけです。

(死んでいても)心臓が動いていると思っている。霊としても、暫くは、肉体と同じような、対応するものがあるのです。死んで、その後でも、自分の胸に手を当てると、心臓の鼓動も聴こえています。それで自分が生きていると思っている。だから、いろんなところへ出て悪さをするんです。こういった馬鹿なことになります。本来、霊的な理解のもとに知識を増やすのは、その人の器を大きくすることで、いいのだけれど、利巧馬鹿が多くて困る。むしろ、こういう世の中であるならば、もう、そんな知識なんかいりません。自然のままに、素朴な信仰に生きた方が、むしろ人間は神に近い存在となるのです。

今の世の中が、悪いといえば悪いのです。科学者、或いは経済人、経済学者達、そうした方は勉強をした。勉強をして、その行末がこうなっているわけです。あなた方の世の中というのは、要するに、勉強すれば、それだけで報われる。賢いことはいいことだ、こういう世の中なわけです。ですから、そうした賢い人の行末が、科学者になったり、医学者になっているわけです。で、彼らが言うことだからそうなんだろうということです。

そして今の時代に、賢い人が、たとえば宗教家などになるかというと、残念ながら、大半はそうではありません。そういう人たちは、もっと現世的な方向へ行っているわけです。そこに問題があるんです。ですから、むしろ私は、そういう賢い方々に、最近まで不毛であった、こうした霊的世界の方に踏み込んで貰いたいと思うのです。その方々が、全力を尽くして勉強され、そして霊的世界を解明されたならば、世の中は、もっともっと幸福になるはずです。

そうした賢い人達が、科学者や医学者や、工学者とか、そんなものになって、分かったような顔をしているから、世の人も、そうした偉い人が言っているのだから、そうであろうと、こう思ってしまうのです。ですから、もっと、霊的な世界において、現代的に言っても賢い人たちが、どんどん進出してくることを、私は希望するものです。

これもまた比喩ですが、冬の日に、非常に暖かい一日があります。これを小春日和といいます。こういう日に、丘の上で膝を組んで、大きな空を眺めてみると、白い雲がポッカリ浮かんで、まるで春のような気持ちの日射しです。また、犬や猫たちも、非常にのどかな風景を楽しんで居ります。また、様々な花が咲き乱れているかのような幻想に、うたれることがあります。このような姿は、実は、天上界そのものなのです。

あなたは、私達の世界(天上界)が一体どのような世界か、ご存知でしょうか。私たちの世界というのは、鉄筋コンクリートのビルディングが建ち並び、電車が忙しそうに走り、車が走っているような世界ではありません。私達の世界は素朴な世界なのです。如来界、菩薩界といわれるような世界は、はっきり言って、現代世界において田舎といわれる社会と同じなのです。

むしろ下の霊層の方々の方が、そういった都会社会を持ち込んでいます。今は、地獄にも鉄筋何階建のビルが建っております。地獄にもエレペーターがあり、病院があり、工場があり、様々なものがあります。地獄でも鉄板工場なんかがあって、腕を切断されるようなことがあるのです。今の世の中には、ヘルメットを被って工事しているうちに上から鉄柱が落ちてくる、こういった地獄もあるのです。非常に現代的な地獄になっています。それは、そこへ行った人達の意識、働いていた世界がそうだったからです。

けれども、時代がどのように変わろうとも、私達、本来の天上界、神の世界においては、相変わらず、千年前も一億年前も、人びとは牧歌生活を送っているのです。そこには和やかな風景があります。草花が咲き乱れ、高い丘、なだらかな丘があり、そして美しい湖があり、人びとは、愛を語り合ったり親切を語り合ったり、神の子と讃えたりしています。

こういった生活に還ってくるには、それなりの心が要るのです。私たちの世界になじむ為には、そういった近代的なことを知る必要はありません。ですから、私が言っているのは荒唐無稽なことではないのです。今のような時代では、私の言っているようなわけには行かないと、あなたは言います。けれども、私達の、現にある、この天上界では、上に進む程、高い世界ほど、そういった素朴な社会です。それは事実なのです。

(霊界のどのような世界へ行くかは)死ぬ時の状態ではなくて、(地上での人生の)総決算、少なくとも、この現代社会においても、牧歌的な、のどかな風景の中で過ごすことが出来るような、心の中に、そういった、平安、静けさを持ったことのある人でなければ、私たちの世界に来ることは出来ないということです。

確かに、現代という時代は、非常に忙しい時代です。人々は、秒刻み、分刻みの生活をしています。こういった中で、独楽鼠(こまねずみ)のように人びとは動いているのです。本来の人間から、今は二十日鼠に移ろうとしています。二十日鼠のように集団で動き回っていることを、進歩したことだと思っています。そうではありません。そんなことで進歩進化にはならないのです。ですから、立ち止まってものを考える習慣のない人間は、天国に縁のない人間であります。

(人生の)末期において、極限的な状況下におかれた人というのは、イエス・キリストもそうですし、最近、あなた方のところへは、日本の明治維新の志士が出られたはずですけれども、彼らは、末期には非情な死に方をしております。で、一時期(霊界の)暗い世界に留まることがある人もありますが、たちまち、彼らは、元いた世界へと還って来ております。神は、(人生の)総合で、ものごとを捉えているのです。本決算です。人間は死に態とか、そういうことで行き先が決まるのではないのです。死に際が良かったとか良くなかったとか、そういったことではありません。死に際に、微笑を浮かべて、孫達に手を握られて大往生したから、天国へ行くかというと、そうでもないのです。

正確なことを言うと、その人の地上に出ている意識は、その人の本来の意識、総ての意識ではありません。その人の深層意識、潜在意識でもいいし、霊界にある意識といってもいいです。それが、自分が現象界に出て身につけて来た考え方や物事を裁くのです。結局、自分自身が自分を裁くのです。裁くという言葉は、よくないかも知れません。(霊界の)相応しい処へと、塵垢を落としに行くのです。

以前゛異人類゛という考え方を、孔子様は仰ったかも知れないけれども、この現世、或いは霊界において、自分達と考え方が違う連中をつかまえて゛異人類゛゛異人種゛というような考え方は、何の説明にもなっていません。

゛異人種゛というのではなくて、喩えて言えば、実はこういうことなのです。あなた方は衣服を着て生きているうちに、様々な汚れがつきます。醤油を落としたり、或いは、いろいろなシミがついたりします。これも、直ぐさま洗剤で洗うと落ちます。ところが、これを永いこと置いておくと、シミはシミとして、もう、とれなくなります。洗濯をしても、クリーニングをしても取れません。地獄の悪魔達というのは実はこういう方々なんです。シミが出来て永い間取らずにおいておくために、もう落ちなくなっているのです。ですから、それを落とそうとすると、大変なことになります。難しいんです。ですから、シミができる前、早い時期に、よく洗っておかないと、そうなってしまうということです。

(地獄の悪魔は)或る意味では、自分達が今の立場を選んでいるのです。天使の世界は、例えれば、白い衣装、純粋無垢な純白の衣服を着て人々が集まっているところです。彼ら(地獄の悪魔)も(もともとは)純白の衣服を着ていたのです。それを、食事中にソースを落としたり醤油がかかったりして、大きなシミをつくってしまったのです。

そのシミをすぐさま洗いに行って落とした人は、直ぐパーティに帰って来れたり、或いは二、三日したら、また出て来れる。ところが、そういうシミが出来たのに、まあいいや、これくらいは、と思っているうちに、平気になって他のしみをつくってしまった。まあ、これもいいわと思っているうちにだんだんシミが増えてきて、やがて服もズボンも真黒になってしまった。こういった情況です。

そうすると、その人は、まあいいや、まあいいやといっているけれど、周囲の人が黙ってはいない。『どうしたのですか、あなた、その姿は、ここはパーティ会場ですよ、皆、素晴しい白いドレスで着飾っています。あなたは何ですか、そのシミだらけの衣服は―。』そう言われるわけです。すると本人は『いいじゃないか、何が悪いのだ―。』と、まあ、こう言っているわけです。周囲の人達は、折角、素晴しい音楽をかけて純白のドレスを着て、踊りや会話を楽しんでいるのに、シミだらけの男が一人居るわけです。これは困るわけで、皆様、眉をしかめているわけです。

そのうちに、その男も居られなくなり、そしてその会場から出ていってしまうわけです。ところが、早いうちにシミを落としておけばいいんですが、もう落ちなくなっている。
ですから、その男はもうパーティ会場には帰って来なくなるわけです。ですから、人間は、そういうシミをつくる前によく洗い落とすか、処置をとらなければいけないんです。

或いは、その男は、十分なお金が無くて、新しい白い衣服を、今、汚してしまったんですが、彼のお父様は非常なお金持ちなのです。ですから、お父様にお願いして、新しい衣服を新調して下さいと、心からお願いしたら買ってくれるんです。けれども、ひねくれた男ですから、自分は、もうシミがついたままでもいいと、開き直っている、そういった状態です。これが地獄に居るということなのです。

ですから、お父様に心からお詫びして『買って頂いたこの礼服を汚してしまい、済みませんでした。二度とこんな汚し方はしません、今度汚した場合には直ぐ洗います。パーティの皆様には申し訳なかった、もう、こういうことはしませんから、どうか、新しい礼服を私に買って下さい。』こうして、心からお願いしたなら、お父様は、勿論ニコニコして『おう、いいとも、新しい服を、お前に買って上げよう。これは今までにない素晴しい礼服だ、こんな素晴しい服は、誰も着ていないよ。――』こういって、必ず与えて下さるのです。だから道はちゃんとあります。そういったお願いをしなければいけないのです。

反発して反省しない人は、少なくとも、その姿ではパーテイ会場には入って来れません。ですが、そのシミだらけの服で、いろんな街を放浪します。でも、人にすぐ見つかってしまうのです。あすこに汚い男が来るよと言われる。で、かまわないじゃないか、と最初は息巻いているのですが、いろんな人に指差されると、だんだん居られなくなって、また次の町へ逃がれて行きますが、そこでも、また同じようなことが繰り返されて次の町へと逃げていく。

こういうように、彼らは安住するところのない可哀相な人達なのです。それでもお父様にお願いしたくないと、反発し、反抗心をもっているのです。故郷に帰ってお父様にお願いすれば買って頂けるのです。それをあくまでも自分の説を曲げない、――俺はシミを作った、しかし、これは悪かったとは思わない――そういう我意、我執です。自分の説に固執している姿なのです。

彼らの自由を許すとして、彼ら自身、楽しければいい、楽しければ自由です。けれども、彼らは楽しくはありません。彼らの大部分は苦しいと言い、辛いと言っています。それで時折、乱暴して暴れているんです。けれども、いま言った喩えと一緒で、一つの村から村へ、町から町へ動く時に、やはり、人々からいろいろ指を差されて、厭な感じを受けて、また居られなくなるとよそへ行く、こういうことです。

ただ、似たような仲間が居るのです。こういう者とは話ができる。それを見ると男は胸を張って言うわけです。『俺は、見ろ!今はこんなに汚れているけれど、俺のスーツは純白だったんだ』こういって、同類相手に威張るわけです。ですから、同類の方は同類の方で『ああ、この人は今汚れているけれども、元の服は、いい服みたいだ、キットいいとこの若旦那に違いない。』と、こういうことで敬まったりするわけです。これが、地獄の親分子分の関係の姿です。でも、誰もそうなりたいとは思わないでしょう。何がよくて、何がよくないかは、人々がそれに憧れるかどうかで決まると思うのです。

地獄からの、そそのかしについてですが、例えればこうなります。地獄の彼らはパーティ会場に入ってくることはできません。でも、パーティ会場には小窓が開いているのです。そして、そこでは、立食パーティをやっているわけです。食べているうちに、中の誰かが純白のドレスを汚すことがあるんです。――あ、汚しちゃったなと、その人は思います。洗いに走ろうかなと思っているのです。その時に、窓から顔を出して、『おいおい、お姉さん、僕も、それ汚したけど気にしなくてもいいよ』『またどうせ汚れるんだからそのままでいいじゃないか』と、こうやって誘惑の声をかけるんです。言われてみるとそうかなと思って、そのシミのままで立食パーティを続ける。そのうち、またシミが付くと、また来るわけです、『いいじゃないか、いいじゃないか』と――すると、だんだんそのシミが拡がって、取れなくなるわけです。だから、彼らは、誰かに小窓から、誘惑の囁きの声を送っています。

けれども、それを聴くかどうかは、その人自身の自由なのです。彼らも強制的にどうこうすることは出来ないんです。もし地獄霊達が強制的にこの世の人間を狂わすことが出来るなら、この世の人間は、ほとんどが、もう既に狂っています。けれどもそうではありません。それは、心に開いた小窓だけを通して彼らが話しかけることができるからです。その窓が大きくなっていると、勿論、力ずくで浚(さら)うことも出来るわけです。

で、その小窓とは一体何であるか、それが、あなた方がよく知っている、同類相通ずるの法則なのです。彼らと通じている部分が、どれだけあるかです、最初は少さな小窓で、声が聴こえるだけです。それが、だんだん開いて、やがて自由に出入りできる大きなドアになるわけです。ここまで来ると、どちらが悪いとも言えない面があります。どちらもどちら、ということなんです。

私の譬えで言うならば、神の国の立食パーティ(地上での生活)自体は素晴しい。ところが、食べたり飲んだりするうちに、衣服が汚れることがあります。それが(人生での)歓楽です。そういった衣服を汚す(煩悩によって間違った行いをする)危険性というのは誰にもあるんです。それはやむを得ないことです。ただ、要は、そういったものから身を守れるかどうか、衣服が汚れたら、それをすぐ洗えるかどうか、だんだん染まってしまうかどうかという、そこの一点にあるわけです。ですから誘惑のある、歓楽が、この地上にあるということは、パーティでの飲食という行為に、服を汚す可能性を含んでいるということと同じだと思うのです。ですから(人生から)歓楽そのものを無くしてしまえばいいというのは、パーティで飲み物も、食べ物も無くしてしまえば、服を汚すこともないだろう、といっていることと同じです。やはり、ないと困る。あった方が、楽しいのです。

仏教の言葉にも「煩悩即菩提」という言葉があるはずです。煩悩というのは、先程の喩えの、白い服のようなものです。その煩悩という服は白い服で、素晴しく映えるものです。けれども、半面、非常に汚れ易く染まり易いんです。煩悩という言葉は、響きが悪いですが、人間が生きていくための意欲なのです。

(人間社会の、いわゆる権力という存在は)生きている人間の、動くべき範囲を狭めるかどうかであって、私の言う、心の中の牧歌的生活には関係がありません。例えば゛毛沢東(もうたくとう)思想゛があったとしても、人々の心の中は自由です。立ち止まって、ふと、考えてみるかどうかなのです。ですから、この世的なものは、余り深く信用しないことです。思想も、機械とか発明品、その他、便利なものも、この世的なものは、ほどほどに、世間から離れない程度、交際(つきあい)程度に信用することです。そして、自分の心の王国をあくまでも守ることです。

その、心の「王国」は、決して飾りたてたものではなく。それは、大いなる田舎の風景です。自分の心の中に、そうした、大いなる田舎の風景を保っておくということです。現代人にとって大切なことは、このあくせくとした時代の中に、深い緑の水をたたえた、輝く泉のような心で生きていくということです。

この現象世界を縁(えん)として゛地獄゛に堕ちている方々が、現実にこれだけ居ます。例えば、現象世界を小学校とすれば、すべての人々が小学校で修行を積んで、これを卒業し中学校へ、中学から高校へと、卒業していければ、それは結構なことですが、この小学校から、幼稚園、保育所へと下がって行く人が大量に居る現代においては、こういう教えも必要ではないでしょうか。

イエス様は「愛」を説かれました。愛というのは、自分から他に放射する念を調整し、人と人との人間関係を良くする、即ち調和の法です。お釈迦様は「慈悲」ということを説かれました。これは、人への、大いなる神からの恵み、慈悲の光を得ることの大切さを説かれたわけです。私が説いているのは「素朴さ」そして、清らかさです。

本来、聖なるもの、それは何かというと、素朴さ、素朴で清らかなものです。それが神の心であり神の僕(しもべ)の心なのです。(地上で)それが保てなくなった為に、イエス様の「愛」による人間関係の調整とか、お釈迦様の新たな天来の神の恵み「慈悲」というものを説かねばならなくなったわけですが、私の教えは、そうした、外から来る力によって調和していこうとするものではありません。本来ある、神の子としての素朴さ、清らかさ、こうしたものをとり戻しませんかという考えなのです。努力の教えではないのです。

人間そのものの中に、素朴さ、清らかさを発見していこうではありませんか。そして自分自身の心を、素朴に清らかにしていこうではありませんか。その、素朴な心、清らかな心になって、神の童(わらべ)となった心は、そのまま、天国に在るあなた方そのものなのです。これが私の教えなのです。素朴さと純朴さ、清らかさ、これを、もっともっと価値あるものとして認められるような世の中になってほしいと思います。

都会の子ばかりが増えて、田舎の子が減っているような現在であります。機械文明が進んだり、秒刻みの世界があるようなことが、決して進歩ではありません。人間に、本来ある素朴さ、その美しさに人々は醒めてほしいのです。私の世界観では、都会に住むのを止めて、田舎で子供を育てたいと思う人が増えるような社会が、私の理想に添うものです。

都会に住む方は、忙しい中で、立ち止まって自らを振り返り、自らの心の中に、澄んだ湖があるかどうかを見つめてみようではありませんか。自らの心の中にある湖に、さざ波が立ってはいませんか、大嵐に、なってはいませんか、大波が立ってはいませんか、大波が立っているなら、波を鎮めましょう。自らの心の中にある湖を、美しく照り輝いた静かな凪いだ湖にいたしましょう。そういうことを私は言っているのです。

いま現に大自然に恵まれている方々は素晴しい方々です。その方々は、自らの恵みを十分に感謝して生かして下さい。残念ながら自然に恵まれていない方々は、やはり宗教的な何らかの精神的な修養を重視され、その中で、心の中に大自然をとり返すことはできるはずです。″淫祠邪教(いんしじゃきょう)″ではなく、本来の心、心の王国を築かせてくれるような、精神主義、精神運動の中に自分を没頭させていくこと、それが、瞑想であり祈りではないでしょうか。

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