アセンション アシスト ASーAS

地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

自分の人生を愛する、荘子のメッセージ、1986年

2018年11月18日 | 精神世界
これは、今から三十余年前に、あるチャネラーを通して語られた、荘子という方のものとされるメッセージです。元はインタビューですが、内容が変わらない程度に編集しております。


(ここから)

あなた方が、度々、現象界に出るかどうかは、その人の性格にもよります。それだけの、必要性を感じて生まれて来るということであって、感じない人は生まれて来ません。

生前の、一連の出来事は、死後、霊界へ還ったら分かります。過去世の中(うち)には、人間はいろんなことを学んでいますが、肉体を持っていると、そのうちの一部分しか使っていないということです。ですから、あなたの頭の中には、あなたは憶えていないけれども、過去世で学んだ様々の宗教的なこと、密教も法華経も一杯詰まっているし、キリスト教、その他、いろいろなものが一杯詰っているのです。

私は、中国に肉体を持って出て、老子様の弟子筋に当たりますが、思想自体は、別に中国の思想でも、なんでもないわけです。人間の考え方には色々あると思いますが、他の神々には、(人間は)「発展」或いは「生長」していくという、こういう教えを説かれる方も居られます。ですが、そうとばかりもいえない、ということなのです。この狭い地球で、あるいは、狭い宇宙で、何を発展し、何処へ行くの、というような気持ちも一方にはあるわけです。何が「発展」であり、何が「退歩」なのか、こんなことを考えてみると、特に何か、しなければいけないということで、努力努力で、肩を凝らして頑張るというのも、いま一つ、考えものだということなのです。

人間は元々悟った存在ですし、大らかな存在です。ですから、仏教系の方は、特に精進ということを言われます。努力、努力ということで、まだまだ足りないから、もっと頑張りなさいと、ハッパをかけて居られますが、努力、努力とやっているうちに、その努力が、逆に、お荷物になることもあるのです。――ふと、歩くのを止めた時に、自分は何のために歩き何のために旅行しているのだろうかと、初めて気がつくこともあるのです。ただ、道中を、歩かねばならぬ、歩かねばならぬと思っていると、歩くこと自体が目的になってしまって、何のために旅をしているのか、分からなくなることがあるのです。

ですから、ただ歩けばいいのではないのです。時々は立ち止まって考えなさい。私達の「老荘思想」というのも、そういうことなんです。

人間は、とかく、旅だということで、目的に向かって歩きたがるのです。歩いているうちに歩くこと自体が目的になってしまって、何のために歩いているのかが分からなくなって来るのです。ですから、私達は言います。――立ち止まりなさい――。昼寝をしても結構です。一休みしなさい。そして、翻然として何かを悟りなさい。そういうことを言っているわけです。

特に、仏教系の方、日蓮さん、この方などは、自力の教えであり努力の教えであります。これ自体は、尊いものですけれども、あまり、こちらの方でいくと、人間は、ガリガリ、キリキリと生きていかねばならないわけで、苦しむことも多いのです。努力精進は大切ですが、努力、努力、精進、精進といっていると、いつもせっつかれ、いつも焦っている、いつも何か足りない自分、を考えてしまいます。ですから、目的地はあるかも知れませんが、だからといって、道中を焦って歩くだけではないのです。

時折、草の上に腰を下ろして、白い雲の流れていくような空、その白い雲の流れていく姿を悠々と眺めるような、そうした心を持たなければ、人生には、何の意味も見出せないのではないでしょうか。ただ、歩きに歩いて、草鞋(わらじ)をすり減らして、疲れて宿屋に辿りつくだけが人生ではないのです。その途中に、腰を下ろして、ポッカリと空に浮かんだ雲を眺めるような心、これが無ければ、人生の本当の美しさも、本当の意義も分からないのではないでしょうか。

ですから、あなたも、永い人生の旅路を、苦悩し、苦闘しながら歩くように、思っているかも知れませんが、そうではないのです。藁草履(わらぞうり)を履いて、歩いていると思うから、日暮れて道遠しと思っているから、そうなるのです。必ずしも、そうではないのです。腰を下ろして、空の雲の流れを見なさい。土手の上から、川の流れを、草花を見てみなさい。そうした草花は、一生懸命、道を急いでいるうちは眼に止まらないのです。

タンポポの花もあり、菫(すみれ)の花もあります。道草というものは、必ずしも悪いものではないのです。道中、最後の旅の最後まで行けば、何か素晴しいものがある、というのではありません。その、道中そのものの中に素晴しい発見があり、そのための旅でありそのための人生航路なのです。人生が、ただ目的に到達するためだけの人生ならば、人間は、こんなに永い間、転生輪廻を繰り返す必要はないのです。

そうした、長い魂の旅路を辿るのは、その旅路をも楽しみなさい、という神の配慮なのです。ですから、努力精進は大事だけれども、あなた方の周囲の方々にも、悩んでおられる方は多いと思いますが、悩みの底には、今の自分を何とかしたい、という焦りの気持ち、改善したいという気持ちがあるのです。それ自体は悪くはありません。けれども、悩みとか焦りは、すり切れた草鞋(わらじ)を気にしている旅人のようなものです。まだ先が永いのに、わらじがこんなに傷んでしまっては、私は、どうしたらいいんだろうと、これが悩みであり焦りなのです。けれども、草鞋のことはしばらく忘れて、旅の素晴しさを味わうような、あなた方でありなさい。

決して、目的地だけに、本来の素晴しいものがあるのではありません。その途中にも素晴しいものは用意されているということ。ですから、悩んでいる人に対しては、悩みが尽きたら素晴しい世界が来るのではなく、悩んでいる途中にも、人生の素晴しい煌(きらめ)きはあるのだということを、教えてあげなければいけません。

人は、病気になれば、全て不幸でしょうか。そうではないのです。病気になれば、健康体だけを希(ねが)うでしょう。健康にさえなれば、私は幸せになると人は思うでしょう。けれども、そうではありません。健康になっても、また別の悩みは現れて来ます。ですから、病気なら病気の途中、病気の中において、人生の中の花を探すべきなのです。――経済的な困苦なら経済的困苦の中において、人生の花を咲かせるべきなのです。もちろん、経済的困苦は克服されて、大金持ちになれればいい、豊かになれば素晴しいです。ただ、豊かになるということだけが、目標、目的となってはいけない、ということです。

人生の方向としては、そちらを目指されて結構です。ただ、その途中を楽しむ気持ち、つまり、貧困の中にあっても人生の花を咲かせ、それを愛(め)でるような気持ち、というものは大切にしなければなりません。それは、人間はともすれば欲に振り回されるということです。目標といえば聞こえはいいです。けれども、或る意味では、それは欲望、欲です。これが欲しい、手に入れたい、という気持ちです。

人間が欲の動物だというのは、ともすれば、それさえ手に入れば自分は幸せになれるのにそれが無いから幸せになれない、という気持ちになるということです。これが愚痴です。愚痴は、足ることを知らないところから出てくるのです。人間には、誰にも、そういった愚痴はあります。例えば、子供なら、早く大きくなってこういうことをしてみたい、年輩になれば、ああいう仕事が出来ればいい、と――そして今度は、もっと若ければ私はこんなことが出来たのに、と思う。いつの年代でも、人間は愚痴が出てくるのです。

それは、現在、満たされていないけれど、それが手に入りさえすれば自分は幸せになる、と、そう考えるからです。そうではありません。どのようなものが欠乏していようとも、その途中、その時点時点で、人生の花を見出していく工夫、これこそが本当に素晴しいのです。百里の道を歩むとすれば、その一里一里の中で、素晴しい草花、素晴らしい風の香りを嗅いでいくべきです。そうではないでしょうか。ですから、努力精進の、自力の教えの中には、余りにも、目的、目標に対して焦っている気持ち、というものがあるのです。

今、この時代において、例えば、仏教を志して出家するという人も居ます。或いは、尼僧になったりする人もいます。或いは、千日回峯といって山の中を潜ったり、滝行といって滝に打たれたりしている人が居ます。これらの方々は、皆、何らかの目標があって、これに達したいと思って焦っておられるのです。何んとか、早く、その目標に達したくても、現在のままではいけないと思っています。出家か、在家かで悩んでおられます。しかし、そうした姿自体は、関係がないのです。どのような場面であっても、人生の花を咲かせるということ、これが大切なことなのです。

あなた方が、悩みごとの相談を受けるとします。そして――「私はこんなことで困っています。どうか助けて下さい。」そう言われます。助けというのは何でしょうか。自分が、目的、目標を持っている。そこに達しない自分がある。これを、どうにかして早くそこに着けるようにしたい。こういうことです。わらじはすり切れています。どうか新しい草鞋(わらじ)を下さい。こういうふうに言っておられるということです。そうした人に対して、そのものずばり、つまり、新しいわらじを与えてあげることも大切です。けれども、しばし草鞋のことは忘れなさい、ということも大事なのです。

宿屋まで着けなくてもいい、野宿しても、いいではないですか。野宿すれば、夜空に素晴しい星が瞬いています。そうした余裕も大事だということです。ですから、様々の悩みを訴える方に、悩みの中にも悟りはある、ということを言ってあげる必要があります。その悩みがなくなったら悟る、のではないのです。悩みの中にこそ悟りはあるのです。あるいは、身体が不自由な方、愛情関係で悩んでおられる方もあります。しかし、そのような、悩みの中にこそ、本当の悟りという一輪の花は咲いていくのです。

女性の方の悩み、例えば、女性でありながら、何とかして女人成仏は出来ないか。こういう焦りの心はあるはずです。しかし、何かを努力すればそうなるのではなく。現在ただ今の中に、悟りはあるのです。その人が住んでいる生活の中、生活空間において、悟りへの崩芽、芽はあるのです。ですから、悩んでいる人に、逆に、あなた方は一喝(いっかつ)してあげなさい。その悩みを抱きしめなさいと。その悩みを抱きしめたときに、その大いなる悪魔のような悩みが、素晴らしい「女神様」のようになって輝いてくるでしょう。

病気をしている人には、病気をするだけの何かがあるのです。その病気の中で、何らかの人生の糧を得るために、そうした、病気というものがあるのです。これは、なくなればいいのではありません。寝た切りの方もいるでしょう。これを、例えば、神の光によって、心霊治療などと言って治してしまうことも一つかも知れません。けれども、簡単に、そうした形で治してしまうということは、奇跡、あるいは神の力を世に知らせる、ということでは意味がありますが、その人個人の修行ということでは、どうでしょうか。

その人の病気を、いっぺんに治してしまうことが、その人の魂にとって、プラスになるかといえば、必ずしもそうではない、ということです。病気で悩んでおられるには、それだけの原因、理由があり、その中に、その人の悟りがあるのです。ですから、突き放すようですが、草鞋がすり切れましたといわれた時に、新しい草鞋を出すだけではなくて、草鞋が擦り切れたら旅をやめてもよく、その土地を楽しみなさい、というだけの余裕が必要です。目的達成だけが、あなた方の目的ではない、ということです。人間、もともと神の子です。もともと悟った人間なのです。

ですから、悟ることだけが目的ではありません。もともと悟っているのです。ですから、もともと悟った人間が、様々な衣を着て、分からなくなっているだけで、その途中、もう一回、悟りなおす、途中において新たな経験を積んでいく、ということなのです。ですから、悟りという、明鏡止水の澄んだ心を得ること、これを目的にするのは結構です。けれども、何もしないで、何も悩まないでじっと人生を終えて、悟ったかといえば、そうではないのです。

人生の意味は、苦しまないことでも、単に幸福になることでもありません。人生の意味は豊富な経験を積むということなのです。このことが、人間が転生輪廻をする、という意味なのです。ですから、いろんな苦しみ、悩みがあること、それは、むしろ有難いことなのです。心の中に富を積むということです。別に、苦しめと言っているのではありません。ただ、苦しみのない人生はないのです。

それが取り払われたら幸福になるかと言えば、そうではないのです。それがなくなれば、あなた方の人生は、非常に安っぽいものになるということなのです。ですから、悩んでいる人に、こうしたら悩みがなくなりますよ、という言い方も一つですが、もっと徹底的に悩んでみなさい、と突き放すことも大切です。こうした度量も必要です。何故、そういう悩みがあるのか。その悩みを抱きしめていったときに、新たな経験を人間は積んでいくのです。どうも、安易に、人間というものは、救われたい、悟りたい、幸福になりたい、こう思ってしまいますが、幸福になったと思った瞬間、その幸福はすり抜けていくのです。

ですから、苦闘していく中(うち)、不幸と闘っていく中にこそ、本当は、魂の糧が貯えられているのです。それぞれの人に、その人に応じて、いろんな環境が用意されていますが、それは、その人のために用意された環境です。他人の環境をうらやんでも仕方ありません。自分の環境の中で、魂の糧を得ていくということです。ですから、いろんな経験を積むということは、むしろ嬉しいこと、素晴しいことだ、と思って頂きたいのです。

だから、大病する人がいるでしょう、その方には、言ってあげなさい、そんな貴重な体験は誰もは出来ないんですよ、ということなのです。その人が、今世において、それだけの経験を積むということは、それは貴重な体験なのです。交通事故は不幸かもしれません。けれども、交通事故に遭うということは、長い人生の中においても、転生輪廻の過程においても、また、珍らしいことなのです。文明が発達した現代であるからこそ、そうした、交通事故というものが、はやってきています。こうした中で、人は苦しむわけですけれども、そうした経験を積むということは、どこかに、あなた方の糧が築かれていく、ということなんです。

だから、幸せになるということ、それ自体は結構ですけれども、それだけが目標ではなくて、悩みの中において人生の花を咲かせるということです。足が、びっこになったとしたならば、びっこの足を治(なお)すということも大事だけれども、びっこはびっこのままで、果たして、自分は、どのように素晴しくなれるか、ということに心を使うべきであります。女性の方は美しくなりたいでしょう。美しくなりたいという気持ち自体は正しいものです。努力されるといいと思います。ただ、美しくない自分であったとしても、何らかの美しい花を咲かせるべきだ、ということであります。それは可能なのです。

それぞれの人間が、与えられた環境の中において環境を変えることも大事だけれど、環境が変わらずとも、その環境の中において一輪の花を咲かせる、という努力が大事だということです。たとえば、あなたは、今、晩年を迎えています。あなたは言うでしょう。十年前なら、あるいは、二十年前なら、自分はもっともっと多くのことが出来たに違いない。人々を救えたに違いない。もっともっと力強く法が説けたに違いない。あるいは、体も動けたに違いない。そういった考えは、あると思うんです。

それは、その通りです。けれども、それを言ったところで、はじまりません。現在ただ今の中で、いかにして花を咲かせるかということなのです。ですから、本当の救いは未来にはないということ、人間の本当の救いは、目標を達したときにはない、ということです。人間の本当の救いは、どのような環境におかれようとも、現在ただ今、その場において、一輪の花を咲かせるということなのです。

ですから、あなたが壮年期を過ぎたということは、これはこれで結構なのです。この中で花を咲かせるということ、未来にどうなる、ではないのです。現在ただ今です。あるいは他の方々も一緒です。子供を亡くした方も、夫を亡くされた方もいるでしょう。あるいは病気に、あるいは、霊障に悩んでいる人もいるでしょう。結構です。その中にこそ花を咲かせるから素晴しいのではないでしょうか。あるいは、悪霊に悩まされている方々もいると思います。結構です。悪霊に悩まされている中において、どれだけ自分の人格を磨けるかということです。どのように彼らに憑依されようとも、あなた方が人々から愛されるようになるならば、それは十倍、二十倍の輝きとなってくるでしょう。

苦難があるからこそ、輝きもまた素晴しいのです。苦難を「是(よ)し」としてはいけません。「悪(あ)し」としてもいけないのです。苦難は苦難です。苦難の中において花を咲かせ、輝くということです。この考えを忘れて、ただ努力、精進だけを思ってはいけないのです。努力精進を、未来に向けての、自分の歩み、とだけ考えてはいけないのです。歩みを止めた中にも、やるべきことはあるということです。

運命論についてですが、運命は、逃がれようとするとどこまでもついて来ます。ですが、運命は、それを抱きしめようとすると消えてしまう、変わってしまうものなのです。喩えて言いますが、夜道を歩いていると、ヒタヒタと後ろから追ってくるものがあるような気がする。それで、逃げようとすると、そのヒタヒタ追ってくるものも、また同じ速度でついてくる。そこで、立ち止まって、ふり返ってみたら、ヒタヒタと従いてきたものは何もなく、それは自分の影なのです。そういうものです。ですから、徒らに逃げようと思うなということです。別に、運命をそのまま愛せよ、と言っているわけではありません。その時点、その時点で、花を咲かせていったならば、あなた方の人生は、素晴しい花の道、花道になっているということなのです。未来に花を咲かせようと思っていると、様々な現在の悩みに捉(つかま)ってしまうのです。

たとえば、自分に、ある運命、ある環境が与えられた場合に、その環境を呪ってはいけないのであって、そういう環境が与えられた意味を、よく考えてみるのことです。その中で自分にしか出来ない経験、考え、人生観が、何か出て来るのではないか、ということを、しっかりと見つめて頂きたいのです。

目が見えず、耳が聞こえず、語れないという人は一杯いたのです。ただ、彼女らは、ヘレン・ケラーを目指してなかった、ということです。結局、その中で、運命から逃れようとすると、運命はどこまでもついてくるんです。ヘレン・ケラーが、その目を治したい、耳が聞こえないのを治癒したり、どうにかなれば、自分は幸せになるのに、と、その方向に向かって逃げて行ったならば、どこまでも、彼女の運命は彼女を追いかけて来たのです。彼女は逃げることをやめた。立ち止まって、振り返って、その影を抱きしめたのです。そうすると、そこに光が出て来たのです。苦難が大きいからこそ、輝き、光が大きかった、花が素晴らしかった、ということなのです。ですから、安易な環境においては素晴しい花は咲かないということです。

けれども、苦難礼讃、受難礼讃はいけません。キリスト教者の中にあるような、受難礼讃は、間違っています。ただ、自分が、そうした苦労が多いならば、苦労を愚痴(ぐち)るのではなくて、その苦労があるからこそ、自分の花は、また素晴しいものになれるんだという気持ち、これを、忘れてはいけないということです。これが運命を抱きしめるということです。たとえば、いま、あなたは人生の殆どを、難もなく過ごしてきました。そして今、晩年になって宗教的活動を始めようとしています。例えばですが、あなたが有名な政治家で、現在、一国の総理大臣であるとします。そうすると、そのあなたに「神理」の伝道ができるかというと、これは難しいことです。逆に、そのような地位にある方ならば、かえって出来ない束縛、制約が多いのです。

自分の人生を愛しなさい。別な言葉で言えば、自分にしかない、その個性ある人生を愛しなさい、ということです。悩んでいる人、苦しんでいる人は、自分の人生を愛していないのです。人生を愛するということは大事です。人々には悩みがあります。何で、自分にはこんなことがあったのだろうかと。たとえば、あなたではなくて、あなた方のグループの他の人もそうです。霊能というものがあります。霊能には、例えば、私のような者の言葉を伝える、という場合もありますが、悪霊の跳梁、悪霊に妨害される、あるいは、憑依されることもあるわけです。その時は苦しいのです。ただ、そこから逃れることばかりを考えていたならば、彼らの人生は、不幸なものとなっていくでしょう。しかし、その中で、自らの意志を錬え、自らをたくましくして行って、自らを霊的な巨人としていくならば、それは、また、素晴しいものとなるということです。

イエスにして然りです。イエス・キリストにして、四十日間の悪魔の誘いがありました。荒野に悪魔の呼ばわる声がありました。彼にしてそうです。しかし、そうした試練があったからこそ、彼も、また、神性が輝いたのではないでしょうか。

釈迦もそうです。釈迦は六年間の難行苦行をしました。その果てに、初めて、中道、中庸の大切さを知りました。悟りは、極端な修行の中にはないということ。また、栄華に溺れた生活の中にも悟りはない。極端な修行の中にもない。悟りは、その日そのままの、その生活の中にある。人間として普通の生活をしている中にこそ、本当の悟りを見出すことができる。釈迦はそれを考えました。

極端な修行ということは、要するに、自分の人生から逃れようとしている、ということです。極端な栄華ということは、今度は、自分を甘やかしているということです。どちらも本来の自己というものを失っているのです。そうした両極端を捨てて中道に入った時に、はじめて、神の子としての自分を、悟ることが出来たはずなのです。ですから、その中道ということは、ある意味においては、焦って人生行路を歩いている人が、その歩みを止めて、はたと、自分自身を振り返った、ということなのです。それが中道です。

とにかく前に進まねばならぬと一生懸命歩いているうちには、なかなか悟れないのです。悟りの彼岸に到達しようとして道を急いでいるわけです。そうすると、なかなか悟れないのです。ところが、その歩みを止めて、ふと空を見上げて、満天の星空を見上げた時に、初めて、自分というものを悟る時がある、ということなのです。

中道という言葉でもいいですが、本当の悟りの中には、静的なるもの、受動的、受身的なるもの、全ての能動的な歩みを止めて、はたと、全てを止めて、現在ただ今の、自分の心の中を見つめた時に、そこに、悟りというものが得られることがある、ということです。悩みや苦しみの中で、人は、何とか、脱出しよう、脱出しようと焦っておられるのです。その脱出しようという気持ちを止めて、現在ただ今の、自分の心を深く見た時に、そこに悟りという名の一輪の花を見出すことが出来る、ということなのです。

私が言っていることを要約しますと、努力、これは大事です。人生の基調は努力です。
ただ、努力に追い廻されていると、努力が、また自分を縛ってしまう、ということです。努力を捨てたところに、また、新たな道、悟りがあるということです。釈迦が六年間の難行苦行をやったのは努力でありましょう。彼は、努力によっては悟ることは出来なかったのです。それは、彼にとっては一つの経験でありましょう。そういった努力精進の中に、彼は悟れなかった、という事実があるのです。それを捨てた時に、彼は悟ることが出来ました。人間には、人間としての道がある。誰も彼もが、山の中に入って難行苦行しなければ悟れないのであるならば、人間は、生まれてきたこと自体が間違いではないかと、彼は思いました。その通りなのです。

山の中に入って飲むものも飲まず、食うもの食わず、妻帯もせず、人とも話をせず、坐禅を組んで一日中坐っていなければ、人間が悟れない、そうした人間であるならば、この世の中に生まれて来て、集団生活をしている人間こそ間違いです。ですから、そうした極端な努力の世界の中には、悟りはなかった、ということなのです。悟りは、案外、平易な所にあるのです。それは、自分の運命を抱きしめるということです。運命から逃れるのではなくて、それを抱きしめた中に光は迸(ほとばし)って来るということです。ですから、あなたも人生を愛しなさい。自分の人生を愛しなさい。そう人びとに説きなさい。

あなた方に悩みを訴えてくる人々に説きなさい。そのような人生から、こういうふうにしたら逃れられますよ、こういうふうに克服したら幸せになりますよ、と、そう説くのではなくて、あなたには、あなたにしかない人生があるのです。その人生を愛しなさい。人生を愛するということがどういうことか、ということを考えてみなさい。あなたは、あなたの人生を、他人の人生と交換することは出来ないのです。ですから、あなたにしかない、固有の人生なんですから、その人生を愛しなさい。人生は、愛そうとした時に、初めて、自分の人生が、いかに素晴しいものであったかということが分るのです。

自分の人生から逃れようとする時、そこには幸せはないのです。全ての人に言いなさい。あなたは、あなたの人生を愛しなさい、ということです。悩んでいる人に、言いなさい。人生を愛しなさい、と。その時、その人は、初めて、立ち止まって考えるでしょう。私は今、逃れよう逃れようとしていたと。逃れようとするのではなくて、踏み止まって、自分の人生というものを、もう一度、見つめ直してみよう。この中にも、幸せの種子はあるのではないか、これを考えてみよう。そうして欲しいのです。

人間は、ともすれば、自分の人生を、他人の人生とすり替えようとしているのです。それが幸福だと思っています。その人の目には、幸せに見える他人が、たくさんいます。お隣は素晴らしい車を購(か)いました。お隣のご主人は非常にいいご主人です。それにひき較べ、うちの主人は、酒は飲んで帰る。車は買ってくれない、子供たちには当たる。こんな主人は嫌だ。隣の主人のような人と、もし、とり換えることが出来たら、私はどんなに幸せだろう。こんなことで、主婦の方々は悩んでおられるのです。しかし、他人の人生とすり換えることは出来ません。それが、あなたに与えられた人生なのです。その人生を、いかに愛するかということです。私は、こういう人生を与えられた。ならば、この人生の中に、いかに素晴しいものを発掘するかということを考えねばならないということです。

だから、世の人々に言ってほしい。他人の人生とすり換えようとするな。他人の人生を、わが人生としようとするな。自分の人生の中に、愛し足りない面があるではないか、と考えて頂きたい。その中にこそ幸せはあるのです。幸せは、彼方に、山のあなたにあるのではないのです、幸せは、自分の人生を愛することから始まります。不幸な人というのは、自分の人生を呪っているのです。人生を呪っていて、人生が微笑(ほほえ)みかけることはありません。人生を愛しなさい。他人と同じであることを願ってはいけない。他人と違うことをむしろ喜ぶことが大事なのです。ともすれば、人は、ある他人を想定して、それと同じでありたいと願うのです。しかし、同じであることを願うよりは、違うということを喜ぶことが大切です。その個性の煌(きら)めきの違いを喜ぶような余裕が必要なのです。あなたに悩みを訴えてくる人に、あなたは言いなさい。自分の人生を愛しなさいと。その時に、その人は悟るでしょう。それは、新しい草鞋(わらじ)ばかりを求めてはいけない、ということです。

昔のキリスト教ならば、人間を罪の子として指摘して、そのままではいけない、キリストによって、救われねばならない、と、こういう指摘があったと思います。それは、あなたは、マイナスではいけないから何とか立ち直りなさい、という指摘だったでしょう。それから、あなた方の今の発展の思想は、零のままではいけない、プラスを生み出して行かなければならないということです。それはそれで大切なことです。ただ、現状から逃れようとする心の中には、また新たな苦しみを作っていく、ということなのです。

地球は住みにくいから、宇宙に逃れたら人々は幸せになるかといえば、そんなことはないのです。そこには、新たな苦しみが出てくるでしょう。ですから、この地球上では幸せになれない人は、宇宙空間に出ても幸せにはなれない、ということなのです。この地上は、住みにくいから、あるいは、この日本という国は住みにくいから、月に新たな楽園を造れば、そこが住みやすくなるかと言えば、そうはならない、ということなのです。現在、自分が、ある会社に勤めていると、その中でうまく行かない、では辞めて独立すれば、全てうまく行くかと思うと、そうではないということなのです。会社勤めをしていて、その中で、他の人とうまくやっていけない人ならば、独立して自分で事業を興しても、また、うまくいかないのです。結局、彼岸の地、カナンの地があるわけではないのです。そこ、ここにカナンの地はあるのです。彼岸の地は、ここにあるのです。現在ただ今、の中にあるということです。現在ただ今の中で、会社の中で素晴しく生きている、他の人々とうまくいっている方々であるからこそ、また転職するなり、独立するとうまくいくのです。

会社の中で、歯車の一つとして生きているのに虚しさを感じて、一国一城の主になりたいと思っておられる方は、現代には多いのです。その中で、会社に勤めている、ということ自体が、不満で不満でしょうがない人は、それから飛び出して、一国一城の主になったとしても、仕事はうまくはやっていけないということなのです。それは、また、新たな苦悩となっていくでしょう。しかし、現在ただ今、いる会社の中で成功しながら、更に自分を磨くために、一段上の新世界を求めて独立していく方々、このような方々は、また新たな地でも、素晴しい生活環境を築いていかれるでしょう。

ですから、発展ということも、こういうことなのです。逃避に基づく発展ではいけない、ということなのです。現状が悪いから良いものを求めて、の発展ではないのです。現状も素晴しいんです。現状も素晴しいけれども、また見方の違った素晴しさを求めようとする気持ちがあるならば、発展の思想は正しいのです。間違っておりません。そういうことなのです。

現在ただ今の中に、人間が「心の王国」を築くことが出来て、更に、これ以上のものを求めること、はいいのです。現在ただ今の中に「心の地獄」を築いておりながら、別のことをすれば、全く素晴しい新世界が開けるか、といえば開けないのです。宗教においても、キリスト教とか、仏教とか、神道とか、いろんなものがあります。キリスト教を勉強しながら、その中で満足できない人がいます。そして仏教に行きます。仏教でも満足できません。新興宗教を次から次へと遍歴します。放浪します。どこでも悟ることは出来ないし、どこでも満足できない。けれども、では、その人は、本当に、どこかで素晴しいものに出会って、一躍、悟りの世界に入れるか、といえば、そうではありません。

キリスト教の中においても、ある程度の悟りを得ることは出来ます。キリストを信じながら、その中で、素晴らしい人間になることは出来るのです。キリスト教徒として素晴しい人間になれる人です。そして更に、一段の高いものを求めて、他のものを求める、ということは正しいことなのです。

ただ、キリスト教をやっても、こんなものでは何にもならない、人間は良くならない、と捨ててしまって、何の為にもならないとして仏教をやり、また、こんなもので自分の生活は改善できない。仏教を分っても自分は救われない。自分の病気は治らない。家族の悩みが治らない、キリスト教をやっても治らない。新興宗教に走る。ご利益宗教がある、これで治るだろうか、家内安全を祈願する、一家が幸福になることを祈願する。どんどん、どんどん教祖にすがりついていく。けれども、ほとんど幸福にならないで、周りがどんどん悪くなっていく。こうしたことを繰り返している人が多いのです。

それは、どこかにすがりついたら、一躍、悟れると思っているのです。けれども、その人は不幸だと思っているかも知れないけれど、キリスト教の中でも、その人は、幸福になる道はあるのです。仏教の中においても、幸福になる道はあるのです。ですから、現在ただ今の中において、最高度に自分を発揮できた人であるからこそ、他のものを求めていっても、もっと素晴しいものを創っていけるのです。ここにも幸せはない、あそこにも幸せはないと、次つぎ捨てていったところで、本当のものは得られないのです。

中国の昔にこんな譬(たとえ)話があります。猿が木の世話をする喩(たとえ)話です。ある王様が、山に苗木をを植えました。ある時、王様が一週間ほど旅行することになりました。そこに賢い家来の猿がいました。王様は、その猿に、「お前、この苗木に水をやってくれ、しかし、水は多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない、毎日ほどよく水をやってくれ」と、こう命じたのです。猿は「分りました王様。私は賢いですから、水は適量の水をいつも与えます。多すぎもしない、少なすぎもしない水を与えて、ちゃんと木を守ってみせます」と、こう語ったのです。

王様は旅に出かけました。猿は、バケツに水をくんできて、山に植えた木に水をやりました。ところが、本当にそれが根まで届いているか、心配でしょうがありません。ですから水をやっては、その苗木を引っこ抜いて見ます「あ、根まで水が達している。よかった、よかった。」と、これで、また木を戻します。そして、また、他のところに水をやっては根まで適当な水がいっているかどうかを、苗木を抜いて、また見ます。こうして水をどんどんやっていくのですが、とうとう、苗木は全部、枯れてしまいました。結局、適量の水を与えることは難しくて、何が適量かということが、猿には分りません。けれども、何が適量かということが分らないために、木を引っこ抜いて、根を一々調べていると、木は全部枯れてしまいます。適量の水、というのが、本当の意味での悟りであり、本当の意味での救いだと思うのです。それがはっきり分らないために、いちいち根を引っこ抜いて見たがる、これが猿ならぬ人間なのです。

キリスト教の中においても、その適量の水というものが分らない。だから、自分は少し救われたような気がするけど、本当かな、と思って、根をひっこ抜いてみる。そうしているうちに枯れてしまうのです。次に、仏教の苗、これに水をやるのだけれど、適当の水かどうか分らない猿知恵で、引っこ抜いて見てみます。で元に戻します。ああ丁度よかった、湿りが足りなかったら、もうちょっと水をやってみる。そして、元へ戻す。こんなことをやっているのです。苗木は全部枯れていきます。人間には、こんなことが多いのです。これは古い中国の譬話です。けれども、こんなことをしている人がいます。キリスト教の根をおろしても、それを抜いてみる人がいる。仏教の根をおろしても抜いてみる。新興宗教に入っても根まで水が入っているか抜いてみる人がいる。そして全部枯れていくのです。こんなバカなことをやる人がいるということです。身につまされるような話であろうと思います。

少なくとも、現状の中で、最高度の自分を発揮できない人は、別な環境でも、一躍素晴しい世界に入れるわけではないということです。現状の中で、最高度の自分を発揮しようとしている人であるからこそ、発展を求めて素晴しいのです。地球で素晴しく住んでいける人類であるからこそ、宇宙空間に出て行っても、また素晴しい経験を積むことが出来るのです。

地球の人間と、いがみ合っている人間が、地球から脱出しようとして、宇宙空間に逃れたところで、そこにはユートピアは出来ないということです。ですから、逃亡という意味、逃避という意味での発展であってはならないということです。

ユートピア、理想郷というものは、はるか彼方にあるのではありません。理想的な環境が出来たら人類が幸せになるのではないのです。理想郷は、現在ただ今の中にあるのです。現在ただ今の中に理想郷を築ける人、であるからこそ、さらに一層発展した理想郷を造っていける、ということなんです。現在ただ今、物質的には必ずしも恵まれていないかも知れない。健康にも恵まれていないかも知れない。けれども、この中で、理想郷を営める、理想郷を創り出せるからこそ、さらに素晴しい、宇宙時代の理想郷を創っていくことが出来るのです。環境が整えばそういうふうになるのではないのです。

例えば、地獄にいる人には、自分が悪いなどと思っている人は一人もいません。環境が悪い、周りが悪いと思っています。神様が悪いと思っているのです。これは皆んな地獄にいる人たちです。自分が悪くて地獄に堕ちているなどと思っている人は、地獄にはいないのです。自分はいい人だったのに、自分は一生懸命真剣だったのに、神様が悪い。あの人が悪い、環境が悪かった。病気をしたからだ。あるいは、あれで、手形が不渡りになったからだ。あの時殺されたからだ。こんな、人のせい、環境のせいにして恨み心でいる人が、地獄にいるのです。

どのような環境にあろうとも、その中で、理想郷を造ろうと志した人たちは、絶対に地獄になどいません。環境も大事です。環境のせいも大事ですが、ともすれば人間は、自分ということを忘れて、周囲のせいにしていくのです。地獄にいる人の中にも、成仏したい、天国に行きたいと思う人がいるでしょう。ただ、自分は、そう思っているけれども、ああいう悪魔の手先たちがいて邪魔をするから、自分は天国へ行けない。そう思っている人が一杯いるのです。実際、現象としてはその通りです。悪魔の手先たちが来て、彼らを苦しめています。天国へ行けないようにしています。けれども、人のせいであると思っているうちは、決して、彼らは成仏することは出来ないのです。自らのうちに非があった、間違いがあったからこそ、今、地獄に置かれているのです。

少なくとも、穴居時代に、ユートピアを築けないような人であるならば、文明が発達した時代においても、ユートピアは築けないということです。そうした、狩猟生活、洞穴生活の中に、調和の生活、大調和の世界を創りあげて、それなりのユートピアを創った人が、今の時代に出てきてユートピア建設をしてこそ意味があるのです。彼らは、そうした前の役割を卒業したからこそ、新たな環境の中で、素晴らしいユートピアを創ろうとしているのです。

ですから、洞窟時代、狩猟生活時代にユートピアを築けなくて、殺戮(さつりく)の世界に行っていた人たちは、現代に生きたら、もっとひどい、殺戮の世界を繰り広げていくのです。それは、あなた方が目のあたりにしているはずです。どのような環境にあっても、素朴な環境においても、ユートピアを造ることは出来るのです。そうしたことに成功した人が、初めて、更に素晴しい環境の中において、もっと大いなるユートピアを築くことが出来るということです。その基本の原型は、いつも一つだと言うことです。

ユートピアは、心の世界にあり、心と心のつながりの世界の中にある、ということです。その心の中で、あらたな経験を得るということが、また一層、ユートピアに彩(いろど)りを与える、ということなのです。ユートビアはユートピアなのですが、ただ彩りが変わってくるということです。鮮(あざや)かなもの、より壮大なものになっていくだろうということです。ユートピアというのは、決して、理想的な国家の建設ではありません。心の王国の建設なんです。一人一人の人の、心の中に王国が築かれて、初めて、神の国が出来上っていくのです。神の国は、人の心の中にあって地上的にあるのではないのです。人の心の中に王国が出来て、初めて、この世界、この世の中、この三次元世界が神の王国となっていくのです。これを間違えてはいけません。

神の法にも、新陳代謝という事はあります。大自然の中でも、木々にも、春があり、夏、秋、冬がある。若芽が芽吹(めぶ)いて若葉が出てくる。そして繁り、そして秋になって紅葉(こうよう)し、冬になって落葉する。また、春が巡って来て、若い芽が吹いて来、そして、葉になり繁って来ます。神様は一本の木でさえ、そのように仕組み、そのような化粧をさせていらっしゃるのです。ましてや、人間が生きていく上で、そうした様々な教えの中で、いろんな彩(いろど)りを、与えて下さるのは当然です。

法ということで言えば、同じ神の法であっても、同じ環境がいつまでも続くならば、それに倦(う)んでしまう。飽きてしまうのです。分らなくなります。そういう意味で、新たな環境が出て来て、新たな教えが出てくる。ですから、それはある意味では、新陳代謝があるということです。

ですから、いろんな教えは、あっていいと思うのです。あなた方の世界には、スーパーもありデパートもあります。デパートにはいろんな衣料品も売っており、例えば、ネクタイというものも何百種類も売っています。ネクタイは、これは神の法をネクタイという言葉で表すならば、機能としては一つです。これはワイシャツにしめつけて、飾りにしているわけです。いろんなネクタイがあるから、また日々が楽しいのではないでしょうか。毎日毎日、同じ紺色のネクタイをぶら下げるなら、人生は味けないものです。ですから、ネクタイを締めるということでは同じで、ただ、色んなネクタイが用意されているということなのです。

それは、孔子様の教えもあれば老子様の教えもあるということなのです。で、好みというものは人によって違います。ある人は赤いネクタイをいいと言い、また、ある人は、紺のネクタイがいいと言い、ある人はまだらのネクタイ、ある人は格子縞(じま)のネクタイがいいと言っています。この趣味の順番は決められません。決して、この赤のネクタイが一番いいとは言えないんです。人のそれなりの好みがあるということで、どれが一番素晴しいとは言ないのです。

孔子様的な教えに共感される方は、その方はその方でよろしいと思います。ただ、私どもの教えも、また一つの教えとして、考えてみてほしいということです。人には、いろんな悟り方があります。ですから、悟りにも、いろんな入口があっていいと思うのです。神の光にも、いろんな役割があって、病気の人は、まず治してしまう、というやり方もあります。癒(なお)してしまえば健康体になります。――神様ありがとうございました。これから私は、世の中の役に立ちます――。こういうふうな導き方もあると思うのです。これも一つの方法です。ただ、病の中においても悟ることは出来る、という教えもあります。教え方は違います。ただ、そういった、いろんな教えが必要だということです。その人にとって、全て心霊治療によって病気を治すわけにはいかないのです。

いわゆる唯物論についてですが、この三次元世界の中で、三次元世界を、うまく工夫することによって、素晴らしい世界を造ろうとしたその試み自体は、私は、評価されるべきだと思っています。ですが、唯物論自体は、はっきりと間違っています。唯物ではありません。この世界も、また霊的なるものなのです。四次元以上の力によって、三次元を変えていこうとしている方々がおられます。他次元、高次元の人々の力を借りて、この三次元を浄化し、良くしていこうというのが、その試みでしょう。

けれども、例えば、荘子なら荘子という人間の言葉なら、私の名を騙(かた)って、誰かの口を借りて、出て喋る霊だっているわけです。だから、非常に不明確なものです。そうした不明確な高次元の者たちの声によって、この世を左右されるよりは、三次元の中で、うまく工夫することによって、素晴しい世界を築いていこうじゃないかと、こういう考えが出るのは、至極当然なことです。ただ、神が無いとか、霊的なものが無い、というのは間違っています。ですが、三次元の中で、工夫をされることは間違っていません。それはそれで結構なことです。唯物論というのは、いわば外科、外科手術です。外科によって治す、メスを入れて治していくということです。

現代の政治思想についてですが、共産主義が、全て悪いわけではないのです。共産主義が本当に悪いものであるならば、その中に住んでいる人は、とっくに反乱を起こしているのです。しかし、その中にいる人は、これで「是(よ)し」と思っている人も多いのです。何故でしようか……何らかの真理はやはりあるのです。その中で、彼らから見るならば、自由主義諸国の中の一部の人間が繁栄していくような姿、他の多くの弱い人間が虐(しいた)げられているような姿を、彼らは見ているのです。それよりは、やはり平等な世界の方がいいと、思っておられるのです。

これは自由と平等の問題です。どちらをとるか、どちらも大切です。平等も大切、自由も大切です。そういう意味においては、自由主義社会の中においても、いわゆる共産主義的な考えも出てきています。共産主義の中にも自由主義的なものが入っています。そして、そういった世界観が、いま、一つの方向へと動いていることは確かです。例えば、あなた方は、いま、自由主義社会を満喫しているように言っているけれど、あなた方の世界の中に、組合、労働組合というものがあるでしょう。なぜ、こんな、唯物的な考え、共産主義的な考えがあるのでしょう。それが法規によって認められて、現にあるのです。それは、共産主義は。現在、あなた方の体制の中でも生きているということです。また、共産主義社会の中においても、彼らが反省する材料はどこにあるかというと、結局、自由主義社会の中にあるということです。ともに相補完するものがあるということです。ただ、どちらが神の意に沿っているか、という結論はあります。それはあるんですが、完全に間違っているものではありません。

ですが、自由主義においては、決して、神的なるもの、霊的なるものを認めている、とは言えません。共産主義においても、神的なるもの、霊的なるものを認めていません。こうした二つの体制があって、競いあって、やがてこの後に、神的な国、政治体制、霊的な政治体制が生まれてくるのです。そういう意味において、あなた方の言う、弁証法的発展ということも正しいのです。こういうものが出て来て、また新たな違うもの、その共産主義と自由主義を融合する立揚が出て来るのです。これは「神の国」という概念です。自由主義国家体制と共産主義国家体制、これを止揚(しよう)して新たに統一するものは何か、それは「神の国」ユートピアということです。

ユートピアという概念こそが、この両体制を統合していくものです。共産主義国家も自由主義国家も、ともにユートピアを目指しているのです。(両者の違いは)その試み、方法論の違いなのです。ですから、ユートピアという概念で、新たな政治体制が、また出来てくるでしょう。ただ、それも、いつまでも続くものではありません。新陳代謝が必要だと私は申しました。新たなものが出て来るでしょう。少なくとも、あなた方は、現段階で、この時代に生きている以上は、そうしたユートピア、共産主義、自由主義を、包摂(ほうせつ)するような、ユートピアを造っていかねばならないということです。

今後の世界には、あなた方の教えを「核」として、さらにそれを「政治」の方向に生かしていく人たち、「経済」「芸術」「医療」「道徳」の、それぞれの方向に生かしていく人たち、こうした専門家たちが、いろいろと出て来るのです。

宗教においても、あなた方は、今、そういう意味では、総合的な時代、全てのものを一つに統合する時代に生まれています。あなたが過去世で学んだ、儒教も、あるいはキリスト教も、仏教も、総てが渾然(こんぜん)一体となった、そういう法になろうとしているのです。それは、その規模において、その質において、かつてなかった最大のものを、いま創(つく)ろうとしているのです。マホメットには、その、地域的な制約がありました。キリスト教にも、仏教においてもそうです。それらを、全てを摂取(とりい)れた上で、地球的な宗教を、いま創ろうとしているのです。これは最終的な法です。現在において、あらゆる宗教の形態としては最終のものだということです。また、環境は変わるかもしれません。宇宙時代が起きてくるでしょう。ただ、発展して来た、地球の時代における現代では、これが最終の姿だということです。

宗教というのは、今は、もう、片隅(かたすみ)に迫いやられています。ですが、本来、科学するということは宗教するということであり、哲学するということも宗教することにある。政治も経済も、皆んな宗教をするということなのです。それが、人々には分かっていないのです。

今、共産主義というイデオロギー、また自由主義というイデオロギーがあります。(将来的には)これと違った新たなイデオロギーが出て来ます。これは何かというと、いわば、「霊知主義」です。霊を知る、霊的な知識に基づく、という、「霊知主義」というようなイデオロギーが、これから出てくるでしょう。霊知主義に基づいて、政治も、教育もなされねばならない。こういった世界になって来るでしょう。これからは、そういう意味で、「霊知の時代」です。これから、地上に神の国を創るというような大きな事業ですから、これはもう大変なことです。頑張ってほしいと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿