暮れにハイデッガーを読む
~ 「長い時間」と「短い時間」について~
暮れに ハイデッガーの「形而上学の根本概念」というのを 町の図書館から借りてきた。ハイデッガーさんは、「退屈に」ついて まじめに哲学したひとである。 貸し出し期限までに そこから何を読むか おぼつかないが 期限がなければ 多分 こんな‘退屈’な本に一生懸命には取り組まないから 暇つぶしには 恰好であった。
かつて 「こころの解毒剤はあるか?」ということを ある会のワーキンググループのなかで投げかけたことがあった。 ご存知西尾幹二さんの 「国民の歴史」のあとがきに、ハイデッガーの「退屈」についてとりあげていたが あのときは、それをヒントとしたが、実は そのハイデッガーの原典には直に 接しておらず、忸怩たる気持ちを持ってきたのであった。
ところでドイツ語で‘退屈’を Langweilという。つまり‘長い時間’, 英語に直訳すれば long while, という意味となる。「長い」があるから 「短い」もあろう。たしかにKurzweilというドイツ語があり、英語のshortに対応するKurxである。 この意味は ‘暇つぶしの気晴らし’ という意味らしい。 長く感じる時間を 短く感じる時間にするということである。
そういえば、ドイツ語で「いま 何時?」という会話を テレビで、Wie spaet ist es? と聞いた。英語に直訳すると How is it late? でいま どんくらい遅い?ということになるところがおもしろいと思っていた。 時間を気にするのは 予定されていることにあるいは自分が感じている時のながれより 遅くなっていないかという問いで、 すぐれて主観的であるところが 妙味である。 時間と空間とを人間がもっている尺度として、人間というフィルターを通さなければ それらは存在しないとしたカントの哲学をふと思い出す。時間(While)が主観のなかに存在するという意識であるなら、退屈が ‘長い時間’で ‘暇つぶし’がこれを ‘短い時間’にする行為となっているのも なんとなく頷けるように思う。
そう、飲み屋のカウンターに来て座ったときと やがて調子があがってきたときとで 時のながれがちがうのは あのマダムがおれの時間を食っているというのがあった。阿刀田高のエッセイであった記憶がある。こんなことを書いている筆者も 暇つぶしをやっていることになるが、もう陽は傾いていることを気にしていない。「いま 何時?」と聞いたのは、あるいは 日没までのどのくらいあるかということだったのかもしれない。
注 (ハイデッガー 「形而上学の根本諸概念 世界―有限性―孤独」(川原・ミューラー訳) ハイデッガー全集 第29・30巻 創文社)
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読者からのコメント;
山の時間 (pipida)氏から
山の時間 (pipida)2005-12-27 12:58:30「あのマダムがおれの時間をくった」は傑作。
この間、山に登った。
「蛭」に喰いいつかれて散々な山行。
喰いつかれて「血」を吸われるだけでなく、「蛭」取りに「時間」まで吸いつくされた。
なんと言うか、「暇つぶしでもない」「退屈な時間でもない」、特別な時間が山にはある様だ。
この間、山に登った。
「蛭」に喰いいつかれて散々な山行。
喰いつかれて「血」を吸われるだけでなく、「蛭」取りに「時間」まで吸いつくされた。
なんと言うか、「暇つぶしでもない」「退屈な時間でもない」、特別な時間が山にはある様だ。