Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

暮れにハイデッガーを読む~ 「長い時間」と「短い時間」について~ 

2005-12-25 18:02:02 | 絵画と哲学

 暮れにハイデッガーを読む 
  ~ 「長い時間」と「短い時間」について~
 暮れに ハイデッガーの「形而上学の根本概念」というのを 町の図書館から借りてきた。ハイデッガーさんは、「退屈に」ついて まじめに哲学したひとである。 貸し出し期限までに そこから何を読むか おぼつかないが 期限がなければ 多分 こんな‘退屈’な本に一生懸命には取り組まないから 暇つぶしには 恰好であった。
 かつて 「こころの解毒剤はあるか?」ということを ある会のワーキンググループのなかで投げかけたことがあった。  ご存知西尾幹二さんの 「国民の歴史」のあとがきに、ハイデッガーの「退屈」についてとりあげていたが あのときは、それをヒントとしたが、実は そのハイデッガーの原典には直に 接しておらず、忸怩たる気持ちを持ってきたのであった。
 ところでドイツ語で‘退屈’を Langweilという。つまり‘長い時間’, 英語に直訳すれば long while, という意味となる。「長い」があるから 「短い」もあろう。たしかにKurzweilというドイツ語があり、英語のshortに対応するKurxである。 この意味は ‘暇つぶしの気晴らし’ という意味らしい。 長く感じる時間を 短く感じる時間にするということである。
 そういえば、ドイツ語で「いま 何時?」という会話を テレビで、Wie spaet ist es? と聞いた。英語に直訳すると How is it late? でいま どんくらい遅い?ということになるところがおもしろいと思っていた。 時間を気にするのは 予定されていることにあるいは自分が感じている時のながれより 遅くなっていないかという問いで、 すぐれて主観的であるところが 妙味である。  時間と空間とを人間がもっている尺度として、人間というフィルターを通さなければ それらは存在しないとしたカントの哲学をふと思い出す。時間(While)が主観のなかに存在するという意識であるなら、退屈が ‘長い時間’で ‘暇つぶし’がこれを ‘短い時間’にする行為となっているのも なんとなく頷けるように思う。 
そう、飲み屋のカウンターに来て座ったときと やがて調子があがってきたときとで 時のながれがちがうのは あのマダムがおれの時間を食っているというのがあった。阿刀田高のエッセイであった記憶がある。こんなことを書いている筆者も 暇つぶしをやっていることになるが、もう陽は傾いていることを気にしていない。「いま 何時?」と聞いたのは、あるいは 日没までのどのくらいあるかということだったのかもしれない。 

注 (ハイデッガー 「形而上学の根本諸概念 世界―有限性―孤独」(川原・ミューラー訳) ハイデッガー全集 第29・30巻 創文社)

====

読者からのコメント;

山の時間 (pipida)氏から

山の時間 (pipida)2005-12-27 12:58:30「あのマダムがおれの時間をくった」は傑作。

この間、山に登った。

「蛭」に喰いいつかれて散々な山行。

喰いつかれて「血」を吸われるだけでなく、「蛭」取りに「時間」まで吸いつくされた。

なんと言うか、「暇つぶしでもない」「退屈な時間でもない」、特別な時間が山にはある様だ。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 暮れにハイデッガーを読む ... | トップ | No.06 暮れの昼寝言 ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
山の時間 (pipida)
2005-12-27 12:58:30
「あのマダムがおれの時間をくった」は傑作。

この間、山に登った。

「蛭」に喰いいつかれて散々な山行。

喰いつかれて「血」を吸われるだけでなく、「蛭」取りに「時間」まで吸いつくされた。

なんと言うか、「暇つぶしでもない」「退屈な時間でもない」、特別な時間が山にはある様だ。
返信する

コメントを投稿

絵画と哲学」カテゴリの最新記事