函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

囚人道路を訪ねて-8 留辺蕊町白龍山遍照院

2009-06-09 | ”囚人”道路を訪ねて



囚人道路の歴史をおった『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録』1973年-現代史出版会
タコ部屋労働について調査した『常紋トンネル-北辺に斃(たお)れたタコ労働者の碑』1977年-朝日新聞社

両冊ともに、北見工業高校の教員をしながら、オホーツク民衆史講座の活動として民衆史の掘り起こしをしておられた、故小池喜孝氏がまとめられた本で、すでに販売は終了されており、古書以外手に入れる方法はなくなった本だ。
このような北海道の、日本の、忘れられてはならない歴史に関する本が、絶版になっているということはたいへん惜しむべきことだと思う。

その二冊に、路傍のタコ労働者の、囚人たちの遺骨の掘りおこしの際に、「白い手甲、脚絆に墨染めの衣を着、菅笠をかぶって読経し続ける」尼僧の集団のことが触れられている。
その尼僧のお寺が、この白龍山遍照院だ。


出かける前に、何度も地図で確認しようとしたのだがわからず、あきらめていたのだが、留辺蕊町の入口、国道沿いに入口を見つけ、すぐにかけこんだ。




本にはこの寺の尼僧についてこう書かれている。

-林隆弘尼は、留辺蕊町東端の武華川沿いの山腹にある白龍山遍照院の尼僧で、網走刑務所外の網走湖畔二見ヶ岡の景勝の地に、「国道開削殉難慰霊碑」を建てた方である。隆弘尼はその動機をこう語る。
「私が十歳のとき、この寺の山の道路で鎖を拾ったんです。母に聞くと『この道をつくった、網走の囚人の足につけられていたもんだ。死体を埋めた場所からよく出るんだよ』と教えられました。そのとき子どもごころに、死んでまで鎖と一緒だなんて不憫だなあと感じました。戦後尼僧になり、開道100年(1968年・昭和四三年)を迎えたとき、国道開削で亡くなった方々こそ本当の開拓功労者だと思い、囚人の墓を探して供養して回り、その土を集めて網走刑務所を訪ね、あの碑を建てていただきました。
初めはなかなかわかってもらえませんでしたが、何度も通っているうちにわかっていただき、『刑務所内は広いから、どこでもいい所へ建てよう』と言われたので、思わず『死んでまで塀の中に葬られるなんて、かわいそうです』と言って、刑務所外に建てさせてもらったんです。
わたしはね、肉親の死に遭っても涙を流さないので、気の強い女だと言われます。それなのに、囚人やタコの遺体に接すると涙が出てとまらないのです。誰にも見とられず、とむらわれなかった人たちが不憫でたまらないのです」
【上記『常紋トンネル』より】

本で読み、尼寺のことと、林隆弘師という尼僧のことが忘れられずにいたので、お寺に寄らせていただいた。
お寺の前で、農作業姿の女性の方が二人草をとっていたので、「囚人の方の碑を建てたのはこちらの先生でしょうか。」と尋ねると、「そうです。先代の先生が大変熱心であられて、網走の二見ヶ岡の囚人の慰霊碑は、今でも毎年7月9日に慰霊祭をやっています。」とのことだった。
 私が、網走から”囚人”道路の跡を通って遠軽まで自転車で行くところだと説明すると、私の質問に答えてくれた方が、「こちらには囚人の方のご位牌がありますから、どうぞお参りしていってください。」と言ってくださったので、お参りさせていただくことにした。
私が、すまなそうに「あのう、写真も撮らせてもらえないでしょうか。」と尋ねると、その方は「えぇ、いいですよ。どうぞどうぞ。」と言ってくださった。








位牌は慈弘塔と呼ばれる建物にあるとのことで、本堂の隣に作られたまだ新しいそちらにおじゃました。

国道に面した看板にもあるように、水子供養も行われているため、建物の中には亡くなった子どもたちへの供え物として、おもちゃやおかし、ミルクなどが多く供えられていた。
よく、「亡くなった子の歳を数える」と言われる。それは、”無駄なこと”の例えのように言われるが、32年前に友人二人を亡くした私にはそれは無駄なこととは思えない。
むしろ、亡くなった子の歳が、自分を支えてくれているのがわかるから、人は亡くなった子の歳を数えるのだろう。
館内は、子を亡くした人たちの悲しみで満ちていた。


館内は、先ほど私の質問に答えてくれた方のお弟子さんと思われる方が案内してくださったが、私は再度その方に「囚人の方の位牌の写真を撮りたいのですが。」と申し出た。その方は、ちょっと当惑した様子で、「そんなことはあまり例がありませんので、ちょっと聞いてまいります。」とおっしゃったので、「先ほど、農作業をされていた左の方に伺ったところ、『いいですよ。』とおっしゃっていました。」と伝えると、「そうでしたか。あの方がこちらの先生ですので、先生が『よい』とおっしゃったのなら、よいでしょう。写真を撮る前に『撮らせていただきます。』と手を合わせてから撮影してください。」とのことだったので、言われるように、「撮らせていただきます。」とお祈り、ごあいさつしてから撮らせてもらった。


”囚人”の方々の位牌は、赤ん坊を抱いたご本尊の右側、ご本尊に向かって左手に安置されていた。先ほどの先生が「”囚人”とは何も書いていませんよ。」とおっしゃっていた通り、ただ普通に簡素な木の位牌が何重にもずらりと並んでいた。
おもちゃやお菓子に包まれた空間の中に、そこだけいろいろな銘柄の煙草が供えられていた。


しかし、それはまったく違和感はなかった。むしろ子どもたちとは縁が無かったり、子どもがいても囚われ一緒にいられなかったであろう”囚人たち”には、子どもたちと一緒のすてきな空間なのだろうと思われた。


私は、「”囚人”の方々は、こちらでは手厚くとむらわれているんだなあ。」と胸が熱くなった。
慈弘塔を出ると、先ほどの先生に礼を伸べお寺を後にし、また遠軽へと向かった。


寺の前にもタコ部屋労働でつくられた鉄路が通っていた。
小池喜孝氏の書かれた『常紋トンネル』の本文は、白龍山遍照院の先代との会話の場面で締めくくられている。

ある日、隆弘尼の自室に招かれた小池氏は、かつてこの場所で隆弘尼から一喝を受けたことを思い出していた。出会いの最初、囚人の中から自由民権運動の国事犯のみを探し出そうとする小池氏を、林隆弘尼が「」あなたは、死んでからまで、自由民権の国事犯と他の囚人とを差別なさるんですか」と指摘し、その中から囚人やタコの掘りおこし運動が始まったのだった。そんなことを小池氏が回想していると、
---部屋にはいってきた隆弘尼は、仏壇の前にピタリと着座して話された。
「小池先生、この地方のどこかの広場に、銅像を建てたいですね、三人の群像なのです。ひとりはツルハシを振りかぶった逞しい身体の青年です。あとの二人は、モッコをかついでいます。ツルハシを持った青年は、下半身に腰巻は下帯をしています。モッコをかつぐ二人の脚は、鎖でしばられています」
隆弘尼は、この地方の開拓功労者として、囚人とタコの銅像を建てようというのである。その話を聞く私の胸にはこみあげるものがあった。
【上記『常紋トンネル』より】


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