函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

囚人道路-中央道路開削資料展行ってきました

2010-08-27 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連


博物館網走監獄で、網走監獄設立120年記念の
『中央道路開削資料展』をやっている。
先日、学芸員の今野さんによる資料展解説会が開かれ、行ってきた。
場所は博物館網走監獄の中の教誨堂。
この建物も他の建造物同様、網走監獄で実際に使われていたたいへん貴重なもの。


最初北海道開拓のために、当時集治監と呼ばれた監獄が北海道内につくられたが、最初は道東は釧路にあるのみだった。
しかし、明治20年代になり、帝政ロシアの南下、北海道の占領ということをおそれた政府はそれまでの北海道の海岸線沿いに道路を整備してからの開拓から方針転換し、北海道を横切る形の道路を開削する必要に迫られた。
そこで、それまで、釧路に近い標茶に置いて、屈斜路湖近くのアトサヌプリ硫黄山の硫黄の採掘をさせていた囚人たちを網走に移動させ、網走から昔は忠別とよばれていた旭川までの間の道路開削にあたらせることにした。
アトサヌプリ硫黄山の労働では、有毒ガスの影響で多くの死亡者や失明者を出していたことも、網走に監獄を移した理由の一つでもあった。




それで、釧路から網走に移ってきた囚人たちと看守たちは、8ヶ月という短期間で人跡未踏の原野の木を切り倒し、木の根を掘り、橋をかけの作業にあたった。
それも囚人たちは逃走防止のために鉄丸と呼ばれる鉄球を足につけた状態で二人一組で鎖でつながれた状態の中での作業だった。




当初、北海道庁は民間会社に道路開削の見積もりをさせているが、たいへんな金額と工期も「2年は必要」と積算されたために、安価で使え、「もし死亡しても、誰も泣く者もいない罪人であればいいだろう。死んで囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる。」という上の判断もあり、苛酷な労働に駆り出された。
囚人を使役する側の看守たちも、それぞれに工区をつくって競わせたと言われている。
そんな中で、多くの囚人が死亡。

こちらにも書かれているような鎖塚と呼ばれる土まんじゅうを盛った簡素な墓標が建てられていたそう。
特に網走から遠くなり、未開の内陸部に入れば入るほど、物資の輸送に困難を生じ、野菜の欠乏からくる栄養不良から、遠軽の瀬戸瀬あたりでは多くの囚人が亡くなっている。


こちらが、今回の解説会の様子。博物館網走監獄友の会のメンバーら約20人ほどが学芸員の今野さんのお話しをうかがった。
いつものことながら、今野さんの解説はたいへんくわしく、微にいり細にいり説明してくださる。また、年号や人名が次々と出てきて、感心してしまう。


今回の解説で知り、深く考え込んだこと。それが下の看守長のことだ。



網走監獄の典獄とよばれる所長の次の責任者として、中央道路開削の任にあたった方。


明治24年4月5日付けの道路開削のための出張命令書が残っていた。


8ヶ月の難工事を、211名の犠牲者を出し終了。
その褒美として、拾五園をもらった。


しかし、工事を終えたわずか3年後、依願退職している。
資料には「工事の責任者として囚徒の犠牲があまりに大きかったことに対する自責の念が看守の依願退職につながったことは想像にかたくない。」と書かれていた。

囚人たちの多くの命と看守たちの重たい使命感の上に、今の北海道があるのだとつくづく思い知らされた。

【『中央道路開削資料展』は、9月30日(木)までです。ぜひ、どうぞ。】


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