瀬戸瀬には、もうひとつ行かなければならない場所があった。
その場所を求めて夕暮れ迫る中を、急ぎ自転車で走っていた。
求める場所は、道路から一段低い湧別川の河川敷の近くにあったが、不思議と遠くからも、そこが探している場所だとわかった。
写真を撮り始めると、遠軽からムリをして飛ばし過ぎたためか、ふいに気が遠くなる感じを覚えた。
しかし、ここで倒れたのでは、”囚人のたたりだ”なんて言われて囚人の方があらぬ汚名を着せられかねないので、必死でふんばって気をしっかりもった。
碑の後ろ側に湧別川が流れている。
道路までの間は、広い空き地となっていた。
国道開削殉難慰霊之碑
建立の趣旨
中央道路は政府の北辺警備と北見地方の開拓促進のため明治十九年に着工され、明治二十四年に
完成された札幌、旭川、網走、釧路、を結ぶ当時の大動脈でした。
このうち、明治二十四年四月から同年十二月にかけて集治監網走分監の囚徒を一九七〇人使役して工事を
行いました網走、中越間一六三、七キロの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため二三八人に及ぶ死者を
出しております。
この場所は、仮監跡で六七体が仮埋葬されておりましたので、昭和三十三年四六体を発掘いたしまして供養を続
けてまいりましたが未だ二七体地下に眠っております。
こうして北見地方開発の【判読不明-「労を担った」か】犠牲者をこのまま放置したのでは忘れられ霊が浮かばれないのではない
かと思いつき、暗い歴史は歴史として真実を後世に残すのが七〇年代に生きる私達に果せられた義務と考へ
囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに四六体の遺骨を納め地下に眠る二一体と合わせて
殉難慰霊碑を建立するものであります。
昭和五十一年九月
瀬戸瀬婦人会
もどって、碑文を転写していて初めてそこにまだ六十七体の遺骨が眠っていたことを知った。
この花の下にも眠っていたのだろう。
知らぬこととはいえ、写真を撮るためにその上をウロウロ歩き回ってしまったことを申し訳なく思った。
『鎖塚-自由民権と囚人労働の記録-』に、遺骨発掘の様子が描かれている。
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瀬戸瀬の囚人墓地は、昭和三十三年に発掘された。その時のことを、参加した秋葉氏は記録している。
「墓標は早くになくなってしまったが、その後このそばの道路を通ると、人魂がとぶのを見たり、地の底からのようなうめき声が聞こえる。あるいは畠をたがやすと白骨がでるなど、怪談めいたうわさが絶えなかった。
昭和三十三年、瀬戸瀬青年団は、『この地方の発展をもたらした貢献者であり、その犠牲となった人々を、たとえその身は囚人であったとはいえ、あたら畠の中に埋もらせたままにしておくのは忍びない』として、この遺体を発掘し、他に移葬することになった。五月三日だった。
作業は約二メートルの巾で地下一.五メートルの深さに掘り下げ、東西に三、四十メートルの長さのものを、四メートル間隔で掘りすすめた。僧侶の読経のうちに、四十六柱の遺骨が発掘されたのである。
遺体は、だいたい雑然と並べて埋葬されており、道路寄りの東の方は座棺、川寄りの仮監の方は寝棺を用いたらしく、いずれも棺の痕跡が認められた。
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碑の建立の趣旨を見るとこの本が書かれた後のいきさつがわかる。
四十六体を発掘したものの、すべての遺骨を発掘できなかったため、囚人墓地があった場所にその後、慰霊之碑を建立したということのようだ。
碑の『暗い歴史は歴史として真実を後世に残すのが七〇年代に生きる私達に果せられた義務と考へ』という文に、地域の人たちの歴史への誠実な思いがこめられていると思った。
慰霊之碑を、山神の碑がある薬師山がやさしく見守っていた。
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