小幌駅に到着した時から目に飛び込んできた枯れアジサイだった。
小幌駅を離れる前、最後の通過列車の動画を録ろうとした時、なぜか「通過列車の灯りと風に踊る枯れアジサイを録ってみようか」と思い立ち、アジサイにレンズを向けていた。
人は誰しも人生の途中で少なくとも一度は、「もう自分の人生を終えてしまおうか」と考えることがあるのではないだろうか。
私も何度かそんな思いが頭をかすめたことがあるが、実行に移すことなく今日に至っている。
小幌から戻って、2週間。インターネットで小幌に関する情報を拾っていた時に見つけた情報に私は狼狽した。5年以上前の話だが、小幌駅から夕方下車した母子が翌日海岸で変わり果てた姿で見つかったという。
小幌駅からは二つの海岸に出ることができるが、そのどちらもがきびしい勾配の坂道になっている。子どもを連れて夕暮れ時ではなおさらのことだ。そんな中を子どもの手を引きながら海岸へ下りていく母親の姿、表情を思った。その急な勾配さえも、その母親の”自分と子どもを殺そうとする衝動”へのブレーキとなりえなかったということに、私は狼狽した。それはどれほどの怒り、悲しみ、辛さ、恐怖だったのかと思った。
そして、闇の中揺れるアジサイの中に、母子の、そして小幌駅の、小幌海岸の、オアラピヌイの浜の、悲しみを見たように思った。
小幌の悲しみ