函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

きみは忘れるな囚人道路を-北見峠をめざして 9 完

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて




網走に来て2年が経過したこの春に、囚人道路のことやタコ部屋のタコ労働者の
苛酷な労働の跡を、相次いで見せられた。
私にそれらを”見せた”のは、「なにものか」だ。運命とも言えるし、神とも言える。

それらを”見せられた”とき、私は”囚人たち”、”タコ部屋のタコ労働者たち”と、
自分とが、どれほど違う存在なのかと自問した。

私にも、他人に許しを請いたい罪があり、自分を罰したい思いがある。
私にも多くの借財があり、それを法的に解決してもらった体験がある。
私と、囚人道路に使役された”囚人たち”、借金のかたにタコ部屋に監禁され体が弱ると
道端に埋められた”タコ労働者”との違いは、ない。

違いがあるとすれば、それは、「生まれた時代が違っていた」というその一点な
のだ。


私の中の小さい私、インナーチャイルドの私が、「忘れたら、かわいそうだよ。」
と言った。
私の若いころ自殺していった井下、妙木のことを、忘れようと努力していた
44歳の私に言ったのと同じように、「”囚人”の人たちのことも、忘れたら
かわいそうだよ。」と言ったのだ。

私は、つき動かされるように、囚人道路を走りまわった。
そこには、囚人たちの生きていた痕跡はもはや残っていなかったが、私にはそれ
でもよかった。
囚人たちが見たであろう景色を見、囚人たちが聞いたであろう野の鳥たちの声を
聞き、なにより囚人たちを見ていた木々が私を見ていた。



 
網走から北見峠に着いた時、ふと思った。
北見峠まで着いた囚人たちは何名くらいいたのだろうか。
そして、その人たちは無事に刑を終えて社会へと戻っていけたのだろうかと。
たぶん、北見峠を見たときには、看守たちも囚人たちも、同志としてよろこび
あったのではないかと。

私が、自転車で網走から北見峠へ走ってきたところで、監視付きで原始林の
中を切り開いてきた囚人たちの労苦が知りえるはずはない。
けれど、その囚人たちの劣悪な人権から、今の人権につながっていることは、
知っていたい。自覚していたい。

そのための、北見峠行だったのだ。










溶け出た成分が、まるで碑が泣いているように思えた。


中央道路開削殉難者慰霊の碑
碑文
中央道路開削経過
中央道路は網走に起り北見、留辺蕊、佐呂間、野上を
経てこの「北見峠」を越え上川、愛別、旭川に至る当時全長
五十七里十四町十一間(二二五粁四〇二米)の殖民道路であり拓殖と
北辺防衛上極めて重要視されて開削されました
しかもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より
網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役として
開削されたものであり明治二十四年春着工以来わずか
七ヶ月余りを圣た同年十一月にはこの北見峠まで網走から
三十九里(一五六粁)の道路が完成を見るに至りその作業能率は
今にして見れば驚異的なものでありました。したがって
作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使
不眠不休の労役が続けられ特に最も惨を極めた
野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた
死者百八十余名にも及び死亡者は路傍に仮埋葬
されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない
墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従
消え去り 今になっては埋葬された場所もほとんどが
不明になりました。
その後、昭和三十二年春 白滝村字下白滝で
六体を発見収容 昭和三十三年遠軽町字
瀬戸瀬で四十六体を発見収容 更に
昭和四十八年十月白滝村字白滝東区で六体を
発見収容 それぞれ供養の上改葬しましたが
未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことと
想い こゝに殉難者慰霊の碑を建立し この道路
建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを
念ずるものであります

【裏面】
昭和四十八年八月建立
白滝村長 國松 一敏


『中央道路駅逓区間見取り図』




通る人も車もめっきり減った北見峠だが、山は囚人たちを忘れない。


木々も囚人たちの苦労と功績を、覚えている。

そしてあなたも、覚えていてほしい。明治時代に、囚人たちが世紀の大事業で
成し遂げた、多くの命と引き換えに成し遂げた、通称”囚人道路”、中央道路開削のことを。


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6 コメント

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Unknown (622D)
2020-05-19 13:58:36
ご返答ありがとうございます。
遅くなってしまいすみませんでした。
瀬戸瀬ですね。
渡道する機会に恵まれたら
是非伺ってみたいと思います。
ありがとうございました!

返信する
Unknown (goo5comodo)
2020-05-09 21:55:06
ご丁寧にありがとうございます。


そうですか。
622Dさんも、北見峠の慰霊碑を訪ねたことがあったのですね。
今は通る車も少なくなってしまい、慰霊碑も道路を作った囚人たちも少し残念に思っていることでしょう。

少しでも多くの人に、囚人道路の歴史を知ってもらい、北見峠の慰霊碑や、遠軽町瀬戸瀬の慰霊碑や山神の碑を訪ねてもらえたら嬉しいです。
特に、遠軽町瀬戸瀬の山神の碑には、私自身ひどく心を揺さぶられました。私の特推しの場所です。
622Dさんもぜひお訪ねください。


これからもどうぞよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (622D)
2020-05-09 00:00:51
ご返答ありがとうございます。
わたしも北見峠の慰霊碑で手を合わせたことがあるのですが
この時、道を間違えて峠の頂上に来てしまい、偶然囚人道路のことを知りました。
亡くなった方々のお導きなのかもしれません。


健康へのお気遣い、感謝いたします。
goo5comodo様もお体に気をつけて
これからもいい記事を書き
発信し続けてください!
期待しております。
ありがとうございました!

返信する
Unknown (goo5comodo)
2020-05-08 06:40:19
函館深信をご覧頂きありがとうございます。
私も、網走監獄博物館で囚人道路のことを知り、深く感動し誰かに伝えたいと思い、こちらのブログにまとめた次第です。

今は高規格道路ができ、ほとんど利用されなくなった北見峠ですが、北見峠の歴史は決して忘れてはならないことだと感じます。
一人でも多くの方々に囚人道路の歴史、北見峠の歴史を知ってもらえたらと願っています。

時節柄、健康に留意されお過ごしください。
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Unknown (Unknown)
2020-05-07 22:05:55
すみません
陣屋ではなく深夜のタイプミスです。
謹んでお詫び申し上げます。
返信する
Unknown (622D)
2020-05-07 22:05:17
とても感動しました。
常紋トンネルの話は有名ですが
石北トンネルでも
囚人の方々を陣屋2時まで働かせたり
木の上に囚人を登らせて
重みで樹林を倒したという話があります。
それも囚人の方は今でいう政治犯の方が多かったと耳にしますし
北辺の地で酷使され
故郷や親兄弟を思いながら
無念の涙の中亡くなられた方々のことを
決して忘れないようにしたいと思いました。
良い記事をありがとうございました。
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