知り合いから、エゾシカ肉をいただいた。知り合いの知り合いの方にハンターがいて、毎年エゾシカ肉をもらうのだそう。その話しを聞いて、「いいなあ、いいなあ。」と言っていたら、分けてくださった。
ずしりと重い冷凍肉。5キロは超えていたのではないだろうか。
まずは、一度解かして切り分けなければと思い、解凍した。一晩かかりやっと解けた。塊の肉を伸ばしてみると、直径12センチ長さ40センチくらいもあった。
足の付け根かどこかの肉なのだろう、肉というより筋肉という感じがした。
こんなに大きな肉塊を見たのは初めてだったから、一瞬ドキリとしてひるんだ。
肉というより、まさしく”命の部品”だと思った。
現代では、あまりにも便利になり過ぎていて、肉もほとんどの人たちは、「豚肩」とか「鶏もも」というひとつのパーツとしてお目にかかるだけになっている。
だから、そのパーツを見ても、それが”命”あるものの一部であったことはあまり考える必要がないものになってしまっている。
けれども、少し甘いにおいがただよい、血のしたたるエゾシカの大きな肉の塊を見たとき、大きな感動と神聖な思いがわいてきた。
このエゾシカは北海道の、どのあたりでくらしていたのだろう。
オスなのか、メスなのか。メスなら、子どもを生んだのだろうかとか想像は広がる。
そんな高まりの中で、肉塊を切り分ける。
気持ちが悪い気もする。けれど、いただいた命を大切にしようと懸命に切り分け、また冷凍した。一部はさっそくビーフシチュー(エゾシカ肉シチュー)にしてみた。あっさりしていて、ポクポクと食べられた。
肉を見て、切り分けながら、天都山にある北方民族博物館の展示にあるイヌイトや北方民族の人たちの狩猟のことを思い出していた。
彼らは、狩猟で獲物が与えられるのは、神様がプレゼントしてくれるからだと信じていた。だから、シーズン最初に獲れたシャケや獲物は一旦神に供え、感謝の祈りをささげてから、食したという。
北方民族博物館には、さまざまな北方民族の狩猟用器具や、狩猟の様子のビデオもあるが、私の好きなビデオは、イヌイト族の男性が氷原の上に空いているアザラシの呼吸するための穴を探し出し、その穴に薄く雪を盛り、水鳥の毛を置いてアザラシが来た際に感知できるようにして、何時間も待ち、しとめる、という内容のものだ。
昔の人々は、たいへんな苦労をして、獲物を捕らえ、それを解体し、食していたから、生き物の生命循環(連鎖)や、他の生き物の命を奪って人間は生きているということに、敏感でいられたのではないかと思った。
私もエゾシカの肉塊のおかげで、”命の一部”を食していることに感謝することができた。まさに道東のこの地でしか、経験できない貴重な体験であった。感謝。
※写真は、3月末娘と行った知床で撮ったエゾシカ
ずしりと重い冷凍肉。5キロは超えていたのではないだろうか。
まずは、一度解かして切り分けなければと思い、解凍した。一晩かかりやっと解けた。塊の肉を伸ばしてみると、直径12センチ長さ40センチくらいもあった。
足の付け根かどこかの肉なのだろう、肉というより筋肉という感じがした。
こんなに大きな肉塊を見たのは初めてだったから、一瞬ドキリとしてひるんだ。
肉というより、まさしく”命の部品”だと思った。
現代では、あまりにも便利になり過ぎていて、肉もほとんどの人たちは、「豚肩」とか「鶏もも」というひとつのパーツとしてお目にかかるだけになっている。
だから、そのパーツを見ても、それが”命”あるものの一部であったことはあまり考える必要がないものになってしまっている。
けれども、少し甘いにおいがただよい、血のしたたるエゾシカの大きな肉の塊を見たとき、大きな感動と神聖な思いがわいてきた。
このエゾシカは北海道の、どのあたりでくらしていたのだろう。
オスなのか、メスなのか。メスなら、子どもを生んだのだろうかとか想像は広がる。
そんな高まりの中で、肉塊を切り分ける。
気持ちが悪い気もする。けれど、いただいた命を大切にしようと懸命に切り分け、また冷凍した。一部はさっそくビーフシチュー(エゾシカ肉シチュー)にしてみた。あっさりしていて、ポクポクと食べられた。
肉を見て、切り分けながら、天都山にある北方民族博物館の展示にあるイヌイトや北方民族の人たちの狩猟のことを思い出していた。
彼らは、狩猟で獲物が与えられるのは、神様がプレゼントしてくれるからだと信じていた。だから、シーズン最初に獲れたシャケや獲物は一旦神に供え、感謝の祈りをささげてから、食したという。
北方民族博物館には、さまざまな北方民族の狩猟用器具や、狩猟の様子のビデオもあるが、私の好きなビデオは、イヌイト族の男性が氷原の上に空いているアザラシの呼吸するための穴を探し出し、その穴に薄く雪を盛り、水鳥の毛を置いてアザラシが来た際に感知できるようにして、何時間も待ち、しとめる、という内容のものだ。
昔の人々は、たいへんな苦労をして、獲物を捕らえ、それを解体し、食していたから、生き物の生命循環(連鎖)や、他の生き物の命を奪って人間は生きているということに、敏感でいられたのではないかと思った。
私もエゾシカの肉塊のおかげで、”命の一部”を食していることに感謝することができた。まさに道東のこの地でしか、経験できない貴重な体験であった。感謝。
※写真は、3月末娘と行った知床で撮ったエゾシカ