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般若心経講義・・・高神覚昇

2015年12月07日 12時38分03秒 | 慈しみと悲しみと

                山形県 正善院 観音菩薩

数ある般若心経関連書物の中で最もよく読む本。毎日リュックに入れて折りに触れて読み返す。

初版は昭和27年発行、昭和42年41版発行、平成16年改版56版発行。著者の高神覚昇氏は明治27年愛知県生まれ。智山大学卒業後大谷大学、奈良東大寺で仏教を学び、大正大学教授を経て54歳で亡くなるまで本書のほか「密教概論」「弘法」「仏教概論」などの著書がある。

般若心経講義は文庫本234頁にわたり、難解な般若心経を12講に分けて、国内外の文人、俳人などの金言、名句なども引用しながら解説しているので、親しみやすく何度も読み返している。

般若心経を毎朝唱えて18年余りになるが、わかってきたのは「執着心をなくすこと」「無心になること」ぐらいかもしれない。毎日のように庭に出て、花がら摘みや草取りをしたり、掃き清めているときの自分が「無念無想」になっていることに気づく。

「無念無想」とは無我の境地に到達した無心の状態をいう仏教語であるが、邪心を持たない、余分なことを考えない状態になっていることで、これも修業の一つかもしれないと思うようになった。類語として「無二無三」「唯一無二」「一心不乱」がある。

般若心経講義130頁から「周利槃特の物語」というのが書かれている。

塵といえば、この塵について、こんな話がお経(増一阿含経)の中に書いてあります。それは周利槃特(しゅうりはんとく)という人の話です。この人のことは、近松門左衛門の「綺語」の中にも、「周利槃特のような、愚かな人間でも」と書いてありますくらいですから、よほど愚かなひとであったに相違ありません。あの「茗荷」という草をご存じでしょう。あの茗荷は彼の死後、その墓場の上に生えた草だそうで、この草を食べるとよく物を忘れる、などと、世間で申していますが、物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓名さえ忘れることがあったので、ついに名札を背中に貼っておいたということです。だから「名を荷う」という所から、「名」という字に、草冠をつけて「茗荷」としたのだといいます。まさかと思いますが、これにヒントを得て作られたのが、あの、「茗荷宿」という落語です。ところで、その周利槃特の物語というのはこうです。

彼は釈尊のお弟子の中でも、いちばんに頭の悪い人だったようです。釈尊は彼に、「お前は愚かで、とてもむずかしいことを教えてもだめだから」とて、次のようなことばを教えられたのです。

「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」ていうきわめて簡単な文句です。「三業に悪を造らず」とは、身と口と意に悪いことをしないということです。「諸々の有情を傷めず」とは、みだりに生き物を害しないということです。「正念に空を観ずれば」の「正念」とは一向専念です。、「空を観ずる」とは、ものごとに執着しないことです。「無益の苦しみは免るべし」とは、つまらない苦しみはなくなるぞ、ということです。たったこれだけの文句ですが、それが彼には覚えられないのです。毎日彼は人のいない野原へ行って、「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず・・・」とやるのですが、それがどうしても暗誦できないのです。(中略)

ある日のこと、祇園精舎の門前に、彼はひとりでションボリと立っていました。それを眺められた釈尊は、静かに彼の許へ足を運ばれて、「お前はそこで何をしているのか」と訊ねられました。この時、周利槃特は答えまして、「世尊よ、私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子になることはできません」

この時、釈尊のいわれたことこそ、実に意味深いものがあります。「愚者でありながら、自分が愚者たることを知らぬのが、本当の愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だから、お前は真の愚者ではない」とて、釈尊は、彼に一本の箒を与えました。そして改めて左の一句を教えられました。「塵を払い、垢を除かん」 

正直な愚者周利槃特は、真面目にこの一句を唱えつつ考えました。多くの坊さんたちの鞋履(はきもの)を掃除しつつ、彼はこの一句を思索しました。かくて、永い年月を経た後、皆から愚者と冷笑された周利槃特は、ついに自分の心の垢、こころの塵を除くことができました。煩悩の塵埃(けがれ)を、スッカリ掃除することができました。そして終には「神通説法第一の阿羅漢」とまでなったのです。ある日のこと、釈尊は大衆を前にして、こういわれたのです。

「悟りを開くということは、決してたくさんのことをおぼえるということではない。たといわずかなことでも、小さな一つの事でも、それに徹底しさえすればよいのである。見よ、周利槃特は、箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」と、まことに、釈尊のこの言葉こそ、われらの心して味わうべき言葉です。「つまらぬというは小さな知恵袋」、私どもはこの一句を改めて見直す必要があると存じます。                                                                                                                   

いつも、いつまでも、私の心に残る一節です。

 

 



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