『ラザロを生き返らせる』
ヨハネによる福音書11章28~44節
私たちが、神様に希望を抱いて力を得ていくことを、イザヤ書40章28節以下で記しています。また、このヨハネ福音書11章においても、それを見ることができます。べタニヤ村に住むマルタとマリアの弟のラザロが病気となったために、イエス様のもとに呼びにやった場面です。その知らせを聞いてイエス様は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われます。病気をマイナスに私たちは考えてしまいますが、イエス様はそこに神様のご計画があることを教えています。
姉のマルタは、イエス様に「主よ、ここにいてくださいましたら、、、私の兄弟は死ななかったでしょう」と訴えます。私たちも、問題や悩みを抱えた時に、神様に救いを求めた時に、応えて下さらなかったと思うことがあります。そんなマルタに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と言われます。マルタは、この言葉をよく理解できませんでした。マルタは、イエス様から多くのことを学んだと思われるが、それが意味を持たなかった。ただ、イエス様を信じるのみでした。
妹のマリアも、「主よ、ここにいてくださいましたら、、」とイエス様に訴えます。マリアは、ラザロの死に嘆き悲しんだのです。ここでイエス様は、涙を流されたのです。イエス様が伝えようとしていたことが、十分には伝わっていなかったことを感じとったのでしょう。弟子たちにも、三度もご自身の受難と死と復活を語ったのに、伝わりませんでした。
「私を信じる者は、死んでも生きる」とイエス様が言われるのですが、実際に私たちは、肉体の死を迎えることになります。どう受け止めらたら良いのでしょう。私たちは、生きているのに、嘆き悲しみのために、死んだように生きることがある。逆に、如何なる状況の中にあろうととも、神様と共に生きる。主に望みを置いて、主と共に歩むのです。
(以上、2014年2月2日の礼拝説教の要旨です)
ヨハネによる福音書11章28~44節
私たちが、神様に希望を抱いて力を得ていくことを、イザヤ書40章28節以下で記しています。また、このヨハネ福音書11章においても、それを見ることができます。べタニヤ村に住むマルタとマリアの弟のラザロが病気となったために、イエス様のもとに呼びにやった場面です。その知らせを聞いてイエス様は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われます。病気をマイナスに私たちは考えてしまいますが、イエス様はそこに神様のご計画があることを教えています。
姉のマルタは、イエス様に「主よ、ここにいてくださいましたら、、、私の兄弟は死ななかったでしょう」と訴えます。私たちも、問題や悩みを抱えた時に、神様に救いを求めた時に、応えて下さらなかったと思うことがあります。そんなマルタに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と言われます。マルタは、この言葉をよく理解できませんでした。マルタは、イエス様から多くのことを学んだと思われるが、それが意味を持たなかった。ただ、イエス様を信じるのみでした。
妹のマリアも、「主よ、ここにいてくださいましたら、、」とイエス様に訴えます。マリアは、ラザロの死に嘆き悲しんだのです。ここでイエス様は、涙を流されたのです。イエス様が伝えようとしていたことが、十分には伝わっていなかったことを感じとったのでしょう。弟子たちにも、三度もご自身の受難と死と復活を語ったのに、伝わりませんでした。
「私を信じる者は、死んでも生きる」とイエス様が言われるのですが、実際に私たちは、肉体の死を迎えることになります。どう受け止めらたら良いのでしょう。私たちは、生きているのに、嘆き悲しみのために、死んだように生きることがある。逆に、如何なる状況の中にあろうととも、神様と共に生きる。主に望みを置いて、主と共に歩むのです。
(以上、2014年2月2日の礼拝説教の要旨です)