バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

珈琲豆のお話 その1

2008-04-25 13:53:24 | Weblog
 私は、元々は、紅茶党でした。ところが、今から25年ほど前に、母が近所に出来た自家焙煎の珈琲豆の販売店から、珈琲豆を買って来て飲ませてくれたのですが、その味と香りに驚いてしまいました。

 私にとって、珈琲という飲み物は、インスタント・コーヒーや、ファミリーレストランで出てくるコーヒーが、コーヒーの味と思っていました。つまり、苦く、そして眠気覚ましに飲むものというぐらいのものでした。

 ところが、自家焙煎の珈琲豆でいれた珈琲は、とても美味しく香り立ち、そして驚くことに甘みを感じたのです。勿論、砂糖を入れないで、そのままストレートに飲んだのですが、本当に驚いてしまいました。

 この自家焙煎のお店は、南区横手というところにある小山珈琲(おやまこーひー)なのですが、こだわって焙煎しておられます。珈琲豆は、粒揃いなのですが、それは、欠点豆と言われる形が悪い豆や虫食いなどの豆を、一つ一つ手作業で取り除いてあるのです。

 聖書的な物の見方をするならば、全てが神様の作品であり、神様から愛されたものである、という見方になるのですが、珈琲豆の場合には、欠点豆を取り除くことで、珈琲の旨味が十分に出されるということなのです。
 この辺を聖書的になんとか結びつけて考えるならば、私たちの抱える罪の問題が取り除かれることが、私たちが神様から与えられた恵み、賜物が豊かに輝くであろうということになります。

 私たちは、日々の中で様々なものを身に付けて行きます。力、知恵、お金、人間関係、その他、様々なものがあります。しかし、それらと罪とが結びついてしまうならば、様々な問題を引き起こす結果となってしまいます。ここで言う罪とは、犯罪というよりも、神様に背を向けて生きることを指しています。その一つの姿が自己中心な在り方です。

 私たちの自己理解は、どのようなものでしょうか?
 神様から創造され、愛されている存在であると聖書は教えています。そして、あなたが愛されているように、神様の眼差しは、全ての人に注がれているのです。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
                   ヨハネの手紙一 4章9~11節


小山珈琲のWEBサイトは、以下をご参照下さい。
http://oyamacoffee.main.jp/
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このストレス社会の中で、、、

2008-04-20 22:30:48 | Weblog
 先日、ある週刊誌を読んでいたら、今の中学や高校でのイジメの問題が書かれてありました。昔は、イジメがあったとしても、小さな人間関係でのことだったように思うのですが、最近のイジメの怖さは、一人対クラス全員という具合になってしまうところがあるというのです。つまり、イジメが起きた時に、それに注意したりすることで、自分が今度は、そのターゲットになってしまいかねないことを恐れて、注意できない、したくはないけどイジメる側に回らざるを得ないという具合のようですね。そんな一対全員ということになると、個人ではとても跳ね返す気力を持ちにくいですよね。

 そして、最近のイジメに見られるパターンとして、パソコンや携帯電話を通して、WEBサイトの掲示版に書き込んだりすることで、まったく見ず知らず外部の人々からの干渉が入ってくるということです。こうなると、その被害者は、学校での苦痛だけでなく、目に見えない恐怖を感じてしまいますよね。

 なぜ、ここまで、イジメがエスカレートしていくのでしょうか?
 相手に対する攻撃がドンドンと過剰になっていき、歯止めが効かなくなっているように思います。まるで、ゲームを楽しむように、どうやって相手に攻撃をして、ダメージを与えるかに関心を向けているのでしょうか。

 相手の痛みを感じ取ることができるならば、必要以上の攻撃は止めるのでしょうが、メールや無視をするなど自分にはまったく痛みを伴わない攻撃をすることで、相手の痛みというものに考えが及ばないのでしょうか。

 合わせて考えさせられるのは、そのようなイジメをすることにしか、喜びを見い出せないのでしょうか? 
 私たちは、多くの知恵と、知識と、力と、様々な技術と、道具などを持っていますが、それは誰かを傷付けるためだけにしか使わないとするならば、また、人を傷つけることにしか喜びがない、とするならば、、、、惨いですね。

 今の日本は、多くのストレスに押し潰されかねないところがあるように思います。そのストレスの捌け口として、他者へとぶつけられて解消しようとしているとするならば、単に「イジメは、いけない」とだけ言っても問題の解決にならないと言えます。
 競争社会、格差社会、生き残り競争、バブル崩壊以後の日本の景気の悪化など、様々なストレスが、日本全体を覆っているようです。その社会のストレスが、子ども達に敏感に反応させているのかもしれないですね。

 また、ここ20年くらい続くテレビ番組の内容の低俗性は、目に余るものがあります。芸の無い芸人達が出てきて、イジメやカラカイのようなことを、テレビ番組の中で繰り返して、馬鹿笑いをしている。このような物ばかりを見て子どもが育つならば、その子どもの性格が、イジメやカラカイを好むものになっても当然と言えます。また、テレビゲームなども、自分には痛みを伴わずに、攻撃を加えてダメージを与えることに快感を感じるのであれば、また達成感を感じるのであれば、イジメにおいても、どんどんと過激になっても必然的と言えます。

 高度経済成長の後に、これからは「心の時代」と言われながらも、大人社会が提供し続けたものは、物欲(ブランド漁り)、個人主義、イジメというようなものだったのでしょうか。

 このようなストレス社会の中で、「癒し」を求める人が多く有ります。それは、疲れた心、傷ついた心の癒しを求めているのでしょう。そのような時だけの癒しを持つ事ができればいいのでしょうか?

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネによる福音書16章33節

 癒し以上の、神から来る平安を持って私たちが歩んでゆけるならば、私たちに与えられている豊かなる恵みを賜物を生かす者となってゆくでしょう。
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