バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

『神の愛としてのキリストの降誕』

2012-12-09 23:26:29 | Weblog
『神の愛としてのキリストの降誕』

ヨハネの手紙一4章4~21節

 日本では、クリスマスがまるでイベントのようになってしまっていますが、その本来的な意味である「救い主イエス・キリストの誕生」に込められた意味を、この聖書の箇所を通してこのクリスマスに心に留めたいと思います。この聖書の4章9節で、神は独り子を世にお遣わしになりました。ここに神の愛が私たちの内に示されました、とあります。クリスマスは、神の愛の表すものであったのです。

 作家O・ヘンリーが書いた「賢者の贈り物」という短編小説があります。その物語を通して、自分にとって大切なものを犠牲にしてでも、愛する相手に素晴らしいものを、持っているものをもっと輝かせるものを送ろうとした若く貧しい夫婦の話を通して、クリスマスの意味を伝えようとしたのです。神様も、私たち人間を愛しているが故に、イエス様をこの地上に生まれさせられたのです。それによって、神の愛を知って欲しいと願われたのです。

 それは同時に、神様の遜りでもありました。フィリピ2章6節以下で、キリストは神の身分でありながらも、人間と同じものとしてこの地上に生まれられた、それはへりくだりであったというのです。全知全能である神が、全く無力な赤ちゃんとして生まれるというのは、遜りの極みとも言えます。

 そして、ヨハネの手紙一4章10節では、私たちの罪を償ういけにえとして、御子イエスをお遣わしになったというのです。神様は、私たちを救いに導くために、ご自身を犠牲にされたというのです。イエスと言う名前は、「主は救う」という意味なのですが、マタイ福音書は、「自分の民を罪から救うためである」と記しています。

(以上、2012年12月9日の礼拝説教の要旨です)
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『キリスト告白』

2012-12-02 23:28:43 | Weblog
『キリスト告白』

マタイによる福音書16章13~23節

 クリスマスは、神の子イエス様の誕生を祝う日ですが、一年で暗く寒い時期です。このイエス・キリストの誕生は、この地上に光をもたらし、私たちの心の闇に光を照らし、滅びではなく救いをもたらすためのものでした。しかし、そのイエス様を受け入れずに拒絶した人々がいました。その代表格が、ヘロデ大王であり、イエス様が十字架につけられた時に集まっていた群衆でした。群衆心理というものがありますが、集団等の中では、判断力や理性的思考が低下して付和雷同する傾向があります。

 この聖書の箇所で、イエス様に従った弟子のペトロが、「あなたは、メシア(キリスト)です」と信仰告白をしています。この場面で、「人々は、私のことを何者だと言っているのか」とイエス様は弟子たちにまず質問します。弟子たちは、人々が語る様々なイエス像には、同調しませんでした。その次に、「あなたがたは、私のことを何者だと思っているのか」と、イエスは尋ねます。自分自身がイエス様のことを、どのように信じているのか、それがここで問われているのです。

 弟子のペトロは、それまでにイエス様の様々な教えを聞き、また様々な奇跡や癒しを見てきました。それらを聞き、それらを見ていき、従って行く中で、イエス様こそ救い主であると確信を持ったのでしょう。イエス様が、救い主であるしるしは、「ヨナのしるし」を通してと言われているのですが、ペトロは、この時にその意味することを知らなかったと思われます。しかし、イエス様が十字架につけられて復活された時に、イエス様を通して私たちにもたらされた救いの意味を知ることになるのです。

(以上、2012年12月2日の礼拝説教の要旨です)
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