バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「罪人カインの生きる道」

2014-06-29 08:31:21 | Weblog
「罪人カインの生きる道」

創世記4章1~16節

 神様はどうしてアベルの贈り物にだけ、目を留められたのでしょうか。残念ながら答えは謎のままです。いくつかの解釈が考えられますが、すべてに共通して言えることがあります。人間の側から、神様の選びについて異議を申し立てることはできないということです。カインが腹を立てたのは、弟と比べられたからです。カインは父親のアダムと同じように土を耕す者になりました。アベルは羊飼いになりました。野菜も必要ですし、羊の肉や羊毛も必要です。どちらが尊いということはないのです。兄弟助け合えば、より豊かな生活を送ることができるはず。にもかかわらず、弟が憎くて許せない。それだけではありません。怒りの矛先は神様にも向けられています。カインが顔を伏せているからです。

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」。似たような場面が先週の主日礼拝で取り上げた創世記3章に出てきました。「どこにいるのか」。罪を犯すと、人は神様の前から逃れようとするものです。神様は聖なるお方ですから、合わせる顔がないわけです。

 けれども神様は罪を犯した者を咎めるために声をかけたのでしょうか。そうではありません。罪を恐れて隠れるような生き方から、罪を告白して悔い改める。新しい生き方へと招く恵みの機会として語りかけたのです。たとえ取り返しのつかない罪を犯した者であったとしても、救いの光は確実に届いています。

 「わたしの罪は重くて負いきれません」。罪を告白したカインに、神様はひとつのしるしを与えました。もしカインに危害を加えるものがあれば、7倍の復讐を約束する。神様からの保証をいただいたわけです。

 アダムとエバが善悪を知る木の実を食べてしまった場面でも、神様は裸であることを知ってしまった彼らに皮の衣を与えています。いちじくの葉はかぶれてしまうので、衣の代わりにはなりません。罪を告白した二人を、神様が憐れまれたのです。

(以上、先週の齊藤弘司先生の説教の要旨です)
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「罪におちたアダムとエバ」

2014-06-22 08:16:32 | Weblog
「罪におちたアダムとエバ」

創世記3章1~19節

 神様の恵みのもとにあったアダムとエバでした。彼らは働かずとも、エデンの園にある木の実を食べることができました。しかし、彼らは蛇の誘惑の言葉に従ったために、エデンの園から追い出されてしまい、額に汗を流して食べ物を手に入れなくてはならなくなったのです。女性は、産みの苦しみが増すこととなったと聖書は記しています。

 考えてみると、蛇が女性と会話するというのは、おかしな話で有り得ない話です。そこに焦点を当てるならば、この話は信じられないものとなります。しかし、この話が言わんとする所の部分、罪というものに焦点を当てるならば聞くことができるのです。昔話のウサギとカメの話も同じように、亀と兎が会話しているのを見たことはありません。しかし、この話を通して、人生訓というものが織り込まれているから、親から子どもに語られて行くのです。

 蛇は、最も賢いものとして言われています。しのびよるもの、その毒で命を奪うものです。誘惑というのは、人間の心の中にスーッと入り込んでくるものです。そして、その誘惑によって私たちは滅びに至ることがあるのです。それまでの本来的な関係が壊されることが起きるのです。アダムとエバの場合には、神様との関係が壊されてしまったのです。

 蛇は、女性に次のように語りかけます。「目が開ける」、「神のようになれる」、「善悪を知る者となる」。これを聞いて女性は、次のように思います。「おいしそう」、「目を引き付ける」、「賢くなる」。蛇が言っていることと、女性が思ったことにはギャップがあります。誘惑する外側の声があり、心の中にある様々な願望や欲求が存在しているのです。それが反応しているのです。彼らは蛇の言葉に従ったために痛み、苦しみを抱えたのです。そんな私たち人間の救いとして、イエス。キリストが私たちの罪を担い、痛みと苦しみを味わわれて十字架で犠牲となられたのです。神は、背き続ける私たちを、それほどまでに愛されているのです。

(以上、2014年6月22日の礼拝説教の要旨です)
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「わたしは、あなたと共にいる」

2014-06-15 07:45:38 | Weblog
「わたしは、あなたと共にいる」

創世記2章18~2章25節

 この聖書の箇所で、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。私たちは、一人で生きる者ではありません。様々なグループを作り、協力して共同体を作っていきます。それが家族であったり、村であったり、会社や学校や教会であり、国家というものを作ります。ギリシアの哲学者のソクラテスは、「人間は、社会的な動物である」と言いました。これは、よく生きることを目指す人間同士の共同体を形成していくという意味で言われています。

 私たちが集まり共同体を作って行く時に必要なものがルールです。私たちには、自我がありますから、それが嵩じると自己中心的な行動をすることがあり、人とぶつかり、トラブルになることもあります。だから、そのトラブルを生じさせないために、そのトラブルを解決するために、ルールというものが持たれています。神様は、私たち人間のことをよくご存知なので、私たちに助け手をつくって下さるし、また十戒などの律法を与えられたのです。

 神様は、もう一つ大切なことを言われました。「わたしは、あなたと共にいる」。信仰の父と言われたアブラハムの息子イサクに、そう語り掛けられています(創世記26:24)。恐れと不安の中にあったモーセにも語り掛けられています(出エジプト3:12)。モーセに代わり、リーダーとして立てられた若いヨシュアにも語り掛けられています(ヨシュア1:9)。

 そして、マタイ福音書1章では、イエス様が誕生された時に、イザヤ書7章14節の言葉を引用して、インマヌエル(神は、われわれと共におられる)としてのイエス・キリストが語られています。このイエス・キリストを通して、私たちは、神の愛と、神の国がいかなるものであるのかを表して頂きました。私たちが作る共同体は、ともすれば、よそ者をはじいてしまうことがある。しかし、イエス・キリストはあえて罪人とされる人に歩み寄られた。神の国というものが大きな広がりをもって表わされた。

(以上、2014年6月15日の礼拝説教の要旨です)
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「天地万物の創造主」

2014-06-01 08:17:38 | Weblog
「天地万物の創造主」

創世記1章1~2章4節前半

 地球は、46億年前に誕生したと言います。その当時を人間が見ることはできません。聖書の冒頭に、天地万物が神によって創造された話が書かれてありますが、これは神様からの啓示を受けて書かれたものであります。私たちは、そこに込められたメッセージを受け止めたいと思います。

 一つ目は、元々は混沌状態であったところに、神の言葉を通して秩序がもたらされていったということです。その最初は、闇の中に光がもたらされたということです。私たちの生活において光はとても大切なものです。光に照らされることで、目の前にあるものを知ることができます。神の言葉は、私たちの人生を照らす光でもあります(詩編119:105)

 二つ目に、神は様々なものを造り出された一つ一つのものを見て、それを良しとされたのです。この大地には、神様が創り出された様々な作品があるのです。神様の目には、とても大切なものです。今日、地球温暖化問題が深刻になっています。1992年の地球サミットでこの問題が取り上げられて20年後の今はそれを実感させられています。私たちの文明が進むにつれ、地球にある様々な物や資源を利用した代償として、地球規模の危機に直面しようとしています。私たちが、地球にあるものを、物として見るよりも、神様の作品として見て行くことを改めて考えなくてはいけないのではないかと思います。

 この神の作品であるということは、単に物だけでなく、私たち相互もお互いに神の作品として、神から愛されている存在であることを心に留めるべきです。人間の歴史において、同じ人間であるのに奴隷として過酷な扱いをした時代がありました。また、人間関係において良好な人間関係もあれば、排他的な人間関係もありました。それが酷くなると、民族や宗教や人種の違い、国の利害関係から戦争を繰り返してきました。私たちはお互いに、神様から造られ、貴い存在であることを、お互いに心にとめる必要があると思います。

(以上、2014年6月1日の礼拝説教の要旨です)
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