バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

『父なる神を表わすイエス・キリスト』

2014-02-23 04:57:10 | Weblog
『父なる神を表わすイエス・キリスト』

ヨハネによる福音書1章1~18節

 ユダヤ教においては、申命記6章4~5節にある「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」を礼拝において毎回唱えられています。ユダヤ教が起こった当時は、周辺の国々では様々な神々が信じられていました。その神々は、人間の願望の写しのようなものでもありました。しかし、旧約聖書が語る神は、唯一の神であり、絶対的な神としてあがめられたのです。そして、主なる神を愛することの表れとして礼拝がささげられたのです。

 その主なる神は、歴史を導く神であり、初めであり終わりでもある方です(黙示録21章6節)。その神が、私たちと共に歩みをなして下さるのです(出エジプト記3章12節以下)。どれほどに心強いことでしょうか。クリスマスにお生まれになられたイエス・キリストを、インマヌエルと呼ばれると書かれてありますが、「神は我らと共におられる」という意味が込められているのです。

 しかし、唯一である神であるのに、聖書を読みますと、父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神の三つの神がおられるように思えます。キリスト教では、この三つに思える神は、一つであると教えています。それが、三位一体の教えです。このことを理解するのに、ヨハネによる福音書1章を見ましょう。神と言葉との関係性と一体性がそこで言われています。神と、発せされる言葉は、別物であるようでも、一体である。また、18節では子なるイエス・キリストを通して、父なる神が表わされているとも語られます。三つの人格(すなわち位格)があるようでも、本質において一つであることを聖書は教えているのです(コリントの信徒への手紙一8章6節、エフェソの信徒への手紙4章5~6節、コリントの信徒への手紙二13章13節)。

(以上、2014年2月23日の礼拝説教の要旨です)
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『救い主イエスを証しする聖書』

2014-02-16 07:36:25 | Weblog
『救い主イエスを証しする聖書』

ヨハネによる福音書5章31~40節

 オリンピックが開催されていますが、見事にメダルを獲得したり、あともう少しでメダルに手が届きそうだったり、見ていてハラハラしますが、世界中から集まったアスリートとの競い合いであり、出身国の大勢の人たちからの期待という重圧や緊張が、選手のプレイに影響を与えることもあります。私たちの人生の歩みというものも、人生における様々な出来事に左右され、右往左往させられるのですが、しっかりと神様を見上げつつ歩んでいきたいと思います。

 単に神様を信じているというだけでは怖いと思います。私たちの人間関係においても、日頃付き合いが持たれて行く中で、段々と信頼関係がつくられていきます。神様と私たちとの信頼関係というものも、日々の生活の中で、神様のことを心にとめ、また神様に感謝する、そのような関係性は大事なことだと思います。ですから日曜日の礼拝だけでなく、日頃の生活の中でも、祈りと、賛美(感謝)と、御言葉(聖書)を通しての神様との交わりを大切にしたいと思います。

 信仰告白も、私たちが何を信じているのかを、整えてくれるものです。つまり、私の期待する神様ではなく、聖書が示す神を信じることが、私たちにとって大切だからです。律法学者たちは、聖書に書かれた表面的なところを読み、それを守れば良いと考えていました。しかし、聖書は、神様の御意志を聞いていくことを大切にしています。

 イエス・キリストが目の前に現れたにも関わらず、律法学者たちは拒絶し排除しようとしました。彼らの中にあった価値観と合わないために、イエス・キリストの言葉を聞くことができませんでした。このことは、私たちにもまた言えます。聖書を読み、イエス・キリストの言葉を、私たちが自分の価値観に基づいて聞こうとしても、同じように拒絶することがあるのです。砕かれた魂となり謙って、聖書の言葉に耳を傾ける必要があるのです。

(以上、2014年2月16日の礼拝説教の要旨です。)
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『主を求めよ』

2014-02-09 05:16:54 | Weblog
『主を求めよ』

イザヤ書55章6~13節

 イザヤ55章6節には、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」とあります。イスラエルの人々は、預言者の呼びかけに応えることができませんでした。主を求めようともしませんでした。その一方で自分たちはアブラハムの子孫だから、主によって選ばれている。もはや出エジプトの恵みは忘れ去られていました。

 主からの招きはいつまでもあるとは限らないと預言者は警告します。今日の私たちに置き換えるならば、「キリストは私の救い主です」と告白するように導かれるその瞬間を逃してはならないということです。そうは申しましても、罪にまみれた自分を振り返るとき、「こんな私を主が一回で赦してくださるはずがない」と思いたくなる。そのお気持ちに私は大いに共感いたします。けれども聖書には、主が罪の赦しを少しずつ行われるとは書いてありません。私たちが罪を言い表すならば、「神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。悔い改めるならば赦してくださるのです。

 私たちが思うこと考えることよりもはるかに高い次元で、主は日々新しいことを起こしてくださいます。雨が大地を潤して実りをもたらし、また川から海に注いで、再び雲となる。主が私たちに備えてくださっているみ言葉もそのようなものであると預言者は言います。「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。

 「わたしの口から出るわたしの言葉」とは、神を賛美しながらエルサレムへと帰る日が来るという預言です。主のみ言葉が成就する日は必ず来ます。そこでは私たちの律法を全うすることではなく、み言葉に堅く立って、福音を信じ抜くことが求められているのです。

(以上、2014年2月9日の齊藤弘司先生の礼拝説教の要旨です)
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『ラザロを生き返らせる』

2014-02-02 23:29:21 | Weblog
『ラザロを生き返らせる』

ヨハネによる福音書11章28~44節

 私たちが、神様に希望を抱いて力を得ていくことを、イザヤ書40章28節以下で記しています。また、このヨハネ福音書11章においても、それを見ることができます。べタニヤ村に住むマルタとマリアの弟のラザロが病気となったために、イエス様のもとに呼びにやった場面です。その知らせを聞いてイエス様は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われます。病気をマイナスに私たちは考えてしまいますが、イエス様はそこに神様のご計画があることを教えています。

 姉のマルタは、イエス様に「主よ、ここにいてくださいましたら、、、私の兄弟は死ななかったでしょう」と訴えます。私たちも、問題や悩みを抱えた時に、神様に救いを求めた時に、応えて下さらなかったと思うことがあります。そんなマルタに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と言われます。マルタは、この言葉をよく理解できませんでした。マルタは、イエス様から多くのことを学んだと思われるが、それが意味を持たなかった。ただ、イエス様を信じるのみでした。

 妹のマリアも、「主よ、ここにいてくださいましたら、、」とイエス様に訴えます。マリアは、ラザロの死に嘆き悲しんだのです。ここでイエス様は、涙を流されたのです。イエス様が伝えようとしていたことが、十分には伝わっていなかったことを感じとったのでしょう。弟子たちにも、三度もご自身の受難と死と復活を語ったのに、伝わりませんでした。

 「私を信じる者は、死んでも生きる」とイエス様が言われるのですが、実際に私たちは、肉体の死を迎えることになります。どう受け止めらたら良いのでしょう。私たちは、生きているのに、嘆き悲しみのために、死んだように生きることがある。逆に、如何なる状況の中にあろうととも、神様と共に生きる。主に望みを置いて、主と共に歩むのです。

(以上、2014年2月2日の礼拝説教の要旨です)
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