バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「最も小さな者の一人に」

2021-03-14 21:38:37 | Weblog
「最も小さな者の一人に」
マタイによる福音書25章31~46節

 この箇所は、神様によって、神の国に入れる人と、そうでない人を選ばれているように、教えていますが、丁寧に見ていきたいと思います。その選びというものを、羊と山羊を分けるようにと、表しています。羊は、羊飼いに導かれて歩むものです。羊飼いによって、青草の茂る牧草地へと、水が湧き出る泉へと導かれて、養われていきます。一方の山羊は、逞しく山岳地帯の崖なども平気で飛びながら登って行きます。自由闊達に行くのですが、一歩足を踏み外せば、崖下へと転落してしまう危険性があります。

 別の視点からこの箇所を読むならば、神様はすぐ身近におられるということです。神様は天高いところにおられると考えられますが、この箇所を見るならば、神様はすぐ身近におられることを表しているのです(マタイ福音書25章35~36節)。すぐ身近にいる人を通して、神様と出会っていくことが出来るというのです。神様は、遍在される方である、神はどこにでもおられる方である、というのです。ルカ福音書17章21節では、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。と教えています。マタイ福音書18章20節では、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。このように、神様はすぐ身近におられて、私たちのことをよく見ておられ、よくご存じであるというのです(詩編139編1~6節)。

 この主なる神様が、人としてお生まれになったのが、イエス様です。それが、クリスマスの出来事です。神様が、人となってこの地上に生まれて私たちが経験する様々なことを同じように経験されたのです。そのイエス様が、エルサレムで最後の1週間を過ごし、十字架につけられて殺されて墓に葬られたのです。死さえも味わわれたのです。しかし、三日目に復活されたのです。変わらない愛で、私たちを愛して下さっています。大きな犠牲を払ってでも、私たちが神様のもとに立ち返ることを、切に願われているのです。
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「目を覚ましていなさい」

2021-03-07 21:43:32 | Weblog
「目を覚ましていなさい」
マタイによる福音書25章1~13節

 聖書を見ていきますと、婚礼の話しが出てきます。マタイによる福音書22章もそうですし、ヨハネによる福音書2章のカナでの婚礼の話しなどもそうです。結婚式というのは、大きな出来事でした。イスラエルの方では、1週間ぐらいその宴会が続くということを聞いています。聖書の中で、こうして何度も結婚式と宴会の話しが出て来るのは、神様と人とが、一つとされていく、ということを表しているのでしょう。もともと最初の人間のアダムとイブは、エデンの園で神様と共に生活をしていました。しかし、二人が蛇のそそのかす言葉に従った為に、神様から話してしまい、罪を犯してしまい、一緒におられなくなってしまいます。その関係の回復を神様が願われているのです。

 今日の箇所では、神の国に、その宴会に招かれるために、「花婿を迎える」という事が、大事な鍵となっています。別な言い方をするならば、イエス様に導かれて、「神の国に入って行く」ということが、ここで暗示されています。私たちが、神の国に入るには、神様によって入る、神様の招きに応えて入ることになるのです。

 乙女たちが持っていた、この火というのは、神様から一人一人に与えられている霊として、理解してもいいのかもしれません。その霊の油となるものは、神様から頂くものです。それを、人間の行いでもって代用しようとしても、不十分なのです。イザヤ書50章10~11節を見ると、「主の御名を信頼し、その神を支えとする者」ということが求められています。私たちは、神様から頂いている火、霊の火を灯し続けなくてはいけない。そのための油というものは、神様から頂くものである。日々、祈る中で、賛美する中で、神の御言葉に耳を傾ける中で、その油を受けていくのです。「目を覚ましていなさい」と言われますが、「神様に対して、目を覚ましていなさい」と言われているのです。神様の御業に、御恵みに、目が開かれている者でありましょう。
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「子ろばに乗って」

2021-02-28 21:41:15 | Weblog
「子ろばに乗って」
マタイによる福音書21章1~11節

 福音書は、イエス様の生涯について書いてはありますが、30歳になって伝道活動をされた3年間のことが主に書かれています。また、マルコによる福音書では、その3分の1が最後の1週間のエルサレムでの出来事について書かれています。それは、受難の出来事、十字架につけて殺された事と3日目の復活にクローズアップして書かれてあります。

 この聖書の個所は、イエス様が、12人の弟子たちエルサレムに近いベトファゲ村に来た時に、「向こうの村に行って、ロバとロバの子を連れて来る様に」2人の弟子に命じます。持ち主にとって大切な家畜で財産ですから、渡してくれるとは思えません。イエス様は、「主がお入り用なのです」と言いなさい、と言われます。持ち主は、その言葉を聞いて弟子たちにロバたちを渡してくれます。自分にとって大切なものだけれども、神様の御用のためにささげる姿が示されています。

 エルサレムに入場する時に、イエス様はあえて子ロバに乗って入られました。それは、道端の群衆と同じ目の高さだったと思います。目と目を合わせて向かい合われた、同じ目線に立たれたことが示されています。また、子ロバですから、ヨタヨタとした感じだったかもしれません。しかし、その弱さの中に強さがある、イエス様に見い出されるものは、まさにそれです。無力なようだけども、そこに大いなる神の御力が働かれるのです。十字架にかけられて殺されたけれども、神様の大いなる力によって、復活されたイエス様は、それを表しているのです。このイエス様を、私たちが迎え入れること、それは大いなる力を頂く事になるのです。「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリントの信徒への手紙二 12章9節)。
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「あなたは、救い主です」

2021-02-21 21:45:11 | Weblog
「あなたは、救い主です」
マタイによる福音書16章13~20節

 コロナ禍の中で、礼拝堂での礼拝が出来ない状況にありますが、「何を信じているのか」、これは大事な事ですが、多くの日本人の信仰感は、漠然としています。しかし、外国では、いずれかの宗教を一つだけ信仰しています。日本人にとって、神様とは、多種多様な受け留め方をしています。その時々の都合に合わせて選んでいます。また、人間は、自分が信じている物に影響されることもあります。お金を神のように考える人は、お金さえあればとか、お金で物事を解決出来ると考えたりすることもあります。しかし、それに、惑わされて、振り回される事が起きるから、何を信じるのかは、大事なことです。

 マルコ福音書の冒頭で、「神の子、イエス・キリストの福音の始め」と書かれています。最後の方の15章では、十字架で死なれたイエス様を見たローマ軍の百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった」と言います。つまり、「イエス様は、神の子である」、ということが強調してあるのです。そして、真ん中の8章29節で、弟子のペトロは、「あなたは、メシアです」と答えています。「イエス様が救い主である」という信仰告白が、中心に据えられているのです。マタイ福音書16章13節以下は、同じように書かれてあります。

 その弟子のペトロの言葉を聞いてイエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。この言葉に基づいたと思われますが、最初の教会の代表者にペトロが就きます。そして、カトリック教会では、ローマ法王は、ペトロの後継者という位置づけになっています。しかし、イエス様が言われた言葉の意図は、「イエス様は、救い主です」と信仰告白する言葉の上に教会が建てられていく、と言われているのです。マタイ福音書16章1節以下で、人々が天からのしるしを求めますが、イエス様はヨナのしるししか与えられないと言われます。それは、イエス様の十字架の死と復活を指していたのです。
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「何を見たのか」

2021-02-14 21:46:44 | Weblog
「何を見たのか」
マタイによる福音書11章2~19節

 バプテスマのヨハネは、ガリラヤ地方とペレア地方(ヨルダン川の東岸)の領主であったヘロデ・アグリッパによって牢屋に入れられたのですが、弟子たちをイエス様の許に遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか?」と、尋ねさせています。バプテスマのヨハネも、「メシア(救い主)待望」を持っていました。恐らくは、預言者エリヤのような救い主が来られると期待していたのではないでしょうか。

 イエス様は、バプテスマのヨハネの弟子たちに、「見聞きしたことを伝えなさい」と言われます。そして、「目の不自由な人は見え、足が不自由な人は歩き、重い皮膚病を患った人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」と言われます。つまり、失われたものが回復することが語られています。その続きに、「貧しい人は、福音を告げられている」と続くのですが、それまでの流れ通りなら、貧しい人は財産が与えられる、と期待するのですが、違います。ここで言われる「貧しい人」というのは、経済的に貧しい人ではなく、多くのものを失った人を指しています。つまり、ユダヤ人たちは、まさに多くのものを失い、苦渋を味わっています。そのユダヤ人たちに、福音(良き知らせ)がもたらされることがここでのメッセージだったのです。

 ここで考えさせられるのは、私たちは、失われた者という自覚を持っているでしょうか。自己充足してしまっているならば、イエス様がいなくても大丈夫、イエス様を抜きにした生活ができてしまうということになるのです。その代表例が、律法学者やファリサイ派であり、祭司長たちでした。自分達の行いに満足していたから、イエス様の言葉に耳を傾けず、反発をしたのです。私たちは、失われた者である、神様との関係を失っていたけども、イエス様を通して、神様との関係の回復をさせて頂いているのです。その豊かな恵みに与っているのです。日常の生活において、神様の言葉に耳を傾け、感謝をささげ、祈りつつ歩みましょう。
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「弟子を選び、弟子を遣わす」

2021-01-31 21:49:03 | Weblog
「弟子を選び、弟子を遣わす」
マタイによる福音書10章1~15節

 この箇所は、イエス様が12人の弟子を選ばれた場面です。弟子として訓練して、イエス様の地上の働きを託するために選ばれています。そのために3年間行動を共にされたのでしょう。それでも期間が短くも思えますが、不充分と思えても、イエス様は用いられたのです。また、その後の歩みの中で、鍛えられ、整えられたのです。私たちも、拙いとか、不充分だとか、能力が無いというのではなく、拙い私を通して神様が福音を届けて下さると心に留めたいと思います。

イエス様から遣わされた弟子たちは、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出したとあります。現代の私たちが、癒しや悪霊の追い出しを出来る者ではありません。ただ、その背後にある、その人たちの伊丹、悲しみ、苦しみを受け留めて、救いをもたらすものとなることを願います。イエス様のもとに集まった群衆を見て、イエス様は深く憐れまれて、同情されます。彼らは日々の生活の中で苦しみ、病いや問題を抱えていました。今から2千年前は格差社会でした。持てる者と持たざる者とで大きな差がありました。持たざる者は、今日の食の糧をどうしたらいいのだろうかと途方に暮れるような状況でした。その人々のことを深く憐れまれて、弟子たちを遣わしもされたのです。

弟子たちに「失われた羊」のところへ行きなさい、と言われます。失われた羊とは、神様を一度信じたけれども離れてしまって、弱り果てている人たちのもとにいって、再び立ち返らせることを願われているのです。日常の様々なことに目を奪われて、心奪われてしまい、神様との本来的な関係から離れてしまって、不安定になった人たちに目を向けておられるのです。かつては神様に依り頼んでいたけども、今は別のものを頼りとし支えとしようとするのですが、それは一時的であり、下手に寄り掛かると大きく転んでしまうことさえあるからです。イエス様の声を聞き分けて、従っていくことの大切さを教えています。
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「わたしたちの病いを担った」

2021-01-24 21:51:54 | Weblog
「わたしたちの病いを担った」
マタイによる福音書8章1~4節

 1月14日にから福岡県も緊急事態宣言の対象地域となりました。新型コロナウィルス感染症のために様々な影響を受けていますが、立ち止まって考える時でもあると思います。人類は、高度な科学技術と医学の発展を遂げていますが、ひとたび感染症が流行したら、大きな影響を受けてしまうことを経験しています。また、近年の激しい自然災害にも、私たちは無力な者でしかありません。その自然災害が、私たち人類による環境破壊によって惹き起こされていること反省しなくてはいけません。

 この聖書の箇所では、イエス様のもとに重い皮膚病を人がやってきて、平伏して、「主よ、御心ならば、」と病いの癒しを求めます。自分自身ではどうしようもない、ただ神様の御心にすがるしかない、そんな思いでイエス様のもとに来て、平伏したのです。その男性に、イエス様は手を差し伸べて、触れられたのです。その病いを恐れて、多くの人が逃げ出すような場面で、イエス様はその男性に触れて、関りを持たれたのです。イエス様は、自分にどんな不都合が起きるかを考えたのではなく、その男性の痛み、悲しみ、苦しみを感じ取られたからこそ、手を差し伸べられたのです。

 イエス様が、ここでその男性に手を差し伸べられたのも、関係性を表すためでした。そして、イエス様は、私たちの心の中にも、目を留めて下さり、友となって下さる方です。いかに病いを抱えていても、汚れた者とされていても、イエス様にとっては親しき友として見て下さったのです。そして、この箇所の続きの8章17節で、イザヤ書53章の言葉が引用されていますが、私たちの病いも担って下さる方であるのです。私たちは、病気になると、痛みや、苦しみを感じるのですが、また将来に対する不安に悩んだりもします。それをイエス様が一緒に担って下さるのです。自分ではどうしようも無いと思えても、イエス様が支えて下さっていることを感じたら、どれほど心強いでしょうか
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「律法と預言の成就」

2021-01-17 21:53:08 | Weblog
「律法と預言の成就」
マタイによる福音書5章17~20節

 この聖書の箇所も、イエス様の言葉の中からのものです。イエス様の言葉集(Q資料)からマタイが山上の説教にまとめて書いた戒めの一つです。イエス様が、「わたしが来たのは、律法と預言者を廃止するためではない、完成させるためだ」と言われます。イエス様の言動を表面的に見ると、むしろ律法を否定しているように思われますが、実際にはイエス様こそが、聖書の教えを本来的なものを完成させるお方なのです。つまり、神の御心を行うことの大切さを、イエス様の言動は表しています。

 マタイによる福音書5章21節以下を見ると、イエス様は「腹を立ててはならない」と言われます。これは、内面的な事を指しており、イエス様がそれを問題とされたのです。律法の書では、「~しなさい」、「~してはいけない」という具合に行動についての規定が書かれています。しかし、心の中を問題とされたのです。5章23節以下では、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。とイエス様は教えられています。喧嘩をした相手と仲直りをすることは、なかなか難しいことですし、裁判で争うつもりでいる相手と和解することも難しいことです。しかし、最後の1青銅貨も支払いなさい、借りがあってはいけないと言われるのです。

 神様は、仲直り、和解ということ、つまり関係の回復を願われています。それは、神様との関係の回復であり、また私たちが対立する者ではなく、共に生きる者となることを願っておられるのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下で、キリストにおいて私たちが一つとされるのです。様々な違いがあったとしても、敵意という壁をキリストが打ち壊して下さるのです。キリストに繋がることで、私たちは一つとされるのです。第1コリントの信徒への手紙12章12節以下参照。
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「荒れ野を超えて」

2021-01-10 21:55:22 | Weblog
「荒れ野を超えて」
マタイによる福音書4章1~13節

 聖書を見ていくと、時代時代で礼拝の在り方が変化していることが分かります。信仰の父と言われたアブラハムの時代には、アブラハムは行く先々で祭壇を築いて礼拝をし、主の名を呼びました。モーセの時代には、シナイ山で十戒と律法を受け取り、その後は幕屋を設置してそこで定められた犠牲をささげて礼拝がなされました。ただ、荒れ野の旅路の行く先々でそれは設置されました。ダビデ王以降の時代になるとエルサレムに神殿が建設されて、そこで礼拝がなされて犠牲がささげられました。しかし、バビロン捕囚時代は、エルサレム神殿は破壊され、遠くバビロンに強制連行されて移住させられました。そこでは、集まり、律法の書が読まれるという形の礼拝に変わりました。犠牲をささげる礼拝スタイルから、神の言葉を聞く礼拝スタイルに変わったのです。時代時代で礼拝スタイルが変わり、どこで礼拝するかも変わりましたが、主なる神を礼拝するということでは、共通していました。

 イエス様が、荒れ野で誘惑受けた場面なのですが、その背景にあって問われていることは、真の礼拝とは何かということです。第1の誘惑では、悪魔は「神の子なら、石をパンに変えてみよ」と言います。様々な奇跡をなされたイエス様にとって簡単なことですが、「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る言葉により生きる」と答えます。イエス様は、偉大な力を持っていたけども、それを何のために用いるのか、それは神の御心を行うことであることを示されたのです。第2の誘惑は、「ここから飛び降りたらどうだ、天使が助けてくれる」というのです。きっとイエス様を神様は守って下さるでしょう、しかしイエス様は、「神を試してはならない」と答えます。神様を自分の御用聞きのように用いようとすることを戒められたのです。第3の誘惑は、わたしを拝むならこれらのものを与えようと言います。悪魔が様々なものを使った私達を、神様から引き離そうとする事がよく分かります。
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「預言の成就」

2020-12-27 21:56:31 | Weblog
「預言の成就」
マタイによる福音書2章13~23節

 この箇所は、イエス様がお生まれになった後に起きた、悲しい出来事です。痛ましい事件です。権力者の恐ろしさがよく表れています。権力を持つ者が、それを捻じ曲げて使うと、このような悲劇を起こしてしまいます。それは、権力者だけでなく、私たち人間の抱える弱さの表れでもあります。自己保身ということで、相手を攻撃したり、誤魔化したり、偽ったりして、自分の身を守ろうとする事があります。このような人間の持つ罪、弱さ、そこから救われるために、イエス様がお生まれになったのです。

 救い主の誕生という喜ばしい出来事が起きたのに、多くの人がそれに気づかなかったことが、福音書を見ていくと分かります。彼らは、不思議だと思ったけども、心は動かなかった。自分の事として結びつかなかったのです。また、その知らせを聞いて拒絶した人もいました。ヘロデ大王などがその一人ですが、自分の地位を脅かす存在なることを恐れたのです。律法学者たちや、祭司長たちは、イエス様と敵対して、拒絶しますが、自分達が否定されると思ったからなのでしょう。

 ヨセフとマリア、そして羊飼いたちも、恐れ戸惑いますが、理解できなかったけども、天使からのお告げを心に収めます。そして、神様を心の有中に迎え入れたのです。自分の思いに執着するのではなく、心の中に神様を迎え入れることの大切さを教えています。

 ヨハネによる福音書の1章を見ますと、父なる神と子なるイエス様との関係が、神と言という形で表されており、それは一体であることを教えています(三位一体)。そして、その言は、光として暗闇に来られたけども、暗闇はそれを受け容れなかったとおあります。イエス様が地上にお生まれになった時に、多くの人々が受け入れなかった事に通じています。10~11節でもそれが表されています。しかし、言を受け容れた人、イエス様を迎え入れた人は、神の子となる資格を与えると書かれてあります。イエス様の言葉に耳を傾けましょう。
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