バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「神の憐れみ」

2019-03-17 18:27:49 | Weblog
「神の憐れみ」

ルカ福音書16章19~31節

 この譬え話は、ある金持ちが贅沢に遊んで暮らしていた一方で、金持ちの家の門の前にラザロがいたのですが、彼は貧乏で病気を抱えて道端に横たわっていました。この話の続きで、死んだ彼らは、立場が逆転してしまいます。ラザロは天国に引き上げられて、アブラハムの横で、天国での宴会の席に着いています。一方の金持ちは、地獄の炎の中で、悶え苦しんでいます。ここで考えさせられるのは、ラザロは、生前は何も良いことを出来る状況ではありませんでした。その彼が、なぜ天国に引き上げられたのか、それが神の愛なのです。神は、憐れみ深い方で、慈しみと真実をもって、私たち一人ひとりをご覧になっておられます。神の愛とは、無条件の愛、慈しみ深い愛です。それがここに語られています。

 ギリシア語では、愛は、4つの区分に分けられています。フィリア(友愛)、エロス(引き寄せる愛、恋愛)、ストルゲー(親子の愛)そして、アガペー(与える愛、慈愛)です。英語では、愛を、Loveと言いますが、神様の愛は別な言葉を用います。それが、Charity(チャリティー)です。マザー・テレサが設立した団体は、「神の愛宣教者会」と言いますが、Missionaries of Charityというところにも、よく表れています。たった一人で始めた活動でしたが、神の愛を届けていく彼女のチャリティー活動に、多くの方々が賛同して、家や食料やお金を喜んで提供していきました。そこに神の愛(アガペー、チャリティー)があったからこそ、人々をそのように動かしたのです。

 昨年ノーベル平和賞を受賞したコンゴ民主共和国のムクウェゲ医師は、武装勢力によってレイプされた5万人以上の女性たちのために、医療活動と支援活動をされてきました。武装勢力は、コンゴの鉱物資源を手に入れる為に、非道なことをしていますが、その鉱物資源は、私たちが日常生活で使用している電化製品に使用されています。「愛の反対は、無関心である」というマザー・テレサの言葉を心に留めましょう。

(以上、2019年3月17日の礼拝説教の要旨)
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「愚かな金持ち」

2019-03-10 01:26:12 | Weblog
「愚かな金持ち」

ルカ福音書12章13~21節

 東日本大震災から8年になります。死者・行方不明者は2万2千人以上にものぼる大惨事でした。そして、福島第一原子力発電所では、いまだに核燃料が取り出せないままです。ひとたび原子力発電所でのこのような事故が発生したら、それを復旧させるのに何十年、何百年もかかってしまうことを痛切に考えさせられます(チェルノブイリ原発事故から33年が経ちますが、蓋をしただけで、根本的な解決が出来ないままです)。津波の危険性が指摘されていても、「大丈夫だろう」という安易な考えがあった為に、対策が取られなかったのでしょう。

 この聖書の箇所で、イエス様は、「どんな貪欲にも注意しなさい」と言われます。この言葉は、私たち人間に対して、本当に大切な戒めです。人間以外の生物というものは、食物連鎖という中で、バランスが取られて存在しています。しかし、人類は、当初は石器などを用いて生活をしていましたが、今や様々な道具を用いて今日の文明社会を造り上げています。そして、世界人口は70億人も膨張しています。そして、対立が各地で起こり、食料不足や環境破壊が進んでいます。これらは、私たちの心の中にある「もっともっと」という貪欲に求めていく思いが生み出しています。

 そして、愚かな金持ちの譬え話をされたのです。この人は当たり前に、収穫が多いからもっと大きな倉を建てようと考えたのです。しかし、彼の命が次の日の絶たれると言うのです。突然に状況が一変することはあるのです。ヨブ記のヨブもそうでした。神様からの祝福を受けて裕福な生活をしていました。しかし、突然に強奪者がやってきてヨブの家畜が奪われてしまい、災害によってヨブの家族が多く死んでしまいます。そして、ヨブ自身も重い病気のために苦しむことになるのです。これらを読むと、私たちは、神により命を与えられて、生かされている存在であることを思わされます。そして、神の前に豊かになりなさい、とのメッセージを心に留めなくてはいけない。

(以上、2019年3月10日の説教要旨です。)
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「イエス様が教えた祈り」

2019-03-03 01:28:45 | Weblog
「イエス様が教えた祈り」

ルカ福音書11章1~13節

 今年は、3月6日から受難節に入ります。今年は、「十字架の道行き」の冊子を用意いたしました。イエス様受けられた受難を、1番目から13番目と、復活の14番目があります。聖書の箇所を読み、その祈りを祈りつつ、この受難節を過ごして参りたいと思います。

 今日の箇所では、イエス様の弟子たちが、イエス様に祈りの言葉を教えて貰いたいと願い出た場面です。マタイによる福音書6章では、偽善者のように祈ってはならないと教えています。人に祈っている姿を見てもらおうとしてのパフォーマンスのような祈りをしてはいけないと言われるのです。祈りの大原則は、神様に向かって捧げるものです。また、神様は、私たちが祈る前から、私たちに何が必要を良くご存じであり、また私たちの心の内をご覧になられる方でもあるというのです。ルカによる福音書18章9節以下で、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を通して、祈りについても語られていますが、徴税人が「罪人のわたしを憐れんでください」と祈った祈りを、神様が受け留めて下さったことを教えられます。

 ルカによる福音書11章11節以下で、神様は、私たちの祈りをしっかりと受け留めて下さり、良いものを与えて下さるというのです。しかし、現実においては、私たちが祈り求めたものではなく、神様がその答えを受け留めていくことが大事です。13節で「聖霊を与えてくださる」とあるのですが、これは霊の導きが与えられるというのです。

 11章2節以下で、主の祈りが教えられていくのですが、少しマタイ版との違いがあります。まず、冒頭に来るのは、「父よ」です。誰に向かって祈るのかと言えば、天地万物を創造され、人に命の息を与えられ、歴史を導かれる父なる神に祈るのです。そして、「御名が崇められますように」、と続きます。神様を賛美することを教えているのです。目の前の現実が如何にあろうとも、神を見上げ、神様を賛美して祈ることの大切さを教えているのです。

(以上、2019年3月3日の礼拝説教の要旨です。)
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「マルタとマリア」

2019-02-24 01:31:21 | Weblog
「マルタとマリア」

ルカによる福音書10章38~42節

 イエス様の弟子は12人なのですが、この二人の女性のマルタとマリアも、大事な弟子のような存在でした。福音書の他の箇所でも、二人の話しが出てきたりするからであり、エルサレムの近くにあるベタニヤ村にあった彼女たちの住居を、イエス様たちが訪問されたことからも分かります。彼女たちの弟にラザロがいましたが、イエス様が彼を生き返らせたことも、その背景にあったとおもいます。

 そんなマルタとマリアの家を、イエス様と12人の弟子たちが訪問したのが、今日の場面です。親しい友が訪ねて来ることは嬉しいことですが、一度に13人も来るとなると、その準備とおもてなしは大変です。足を洗う洗い桶とタオル、部屋の片付け、敷物などの用意、飲み物や食べ物の用意を、13人分となると大変です。だから、マルタは、何もしないでイエス様の話しを聞いている妹マリアに、腹を立てたのです。彼女の心の中には、多くの接待のことで思い悩み、心を取り乱してしまっていたのです。

 マルタは、イエス様がお弟子さん達に話しているのをいきなり中断させて、イエス様に「マリアに手伝うように言って下さい」と指図をします。マルタの心の中にあった焦りと怒りが、そういう行動を取らせたのでしょう。マルタは、一所懸命におもてなしをしようとしたのですが、ここでは主客転倒してしまったのです。このことは、私たちの日常生活の中でもあります。あまりにも一所懸命になり過ぎて、本末転倒みたいなことをやってしまうことがあるのです。背景にあるのは、焦り、怒り、思い煩いと言った私たちの心の中に生じる思いが影響しています。私たちの心の中に平安がないとついやってしまうのです。

 マリアの方は、おもてなしはしなかったのですが、しかしイエス様を心の中に迎え入れたのです。だから、イエス様の言葉に耳を傾けたのです。この二人の話しを通して、私たちがイエス様を迎え入れることについて改めて考えさせられます。

(以上、2019年2月24日の礼拝説教の要旨)
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「善きサマリア人」

2019-02-17 01:33:33 | Weblog
「善きサマリア人」

ルカ福音書10章25~37節

 善きサマリア人の譬え話は、有名な話なのですが、そのきっかけは律法学者による質問から始まりますが、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるのですか?」とイエス様に尋ねます。この質問に対して、イエス様は質問で返されます。「律法には何と書いてあるか。あなたは、それをどう読んでいるのか」。聖書は、神の啓示を受けて書かれたものです。しかし、それを読む側の人間の理解の仕方、受け留め方によって、違いが出てきます。律法学者は、間違った律法理解によって、人々を束縛していました(マタイによる福音書23章1節以下)。

 イエス様の問いに、律法学者は、申命記6章5節と、レビ記19章18節の聖書の箇所をあげて答えます。それに対して、イエス様は、正しい答えが、「それを実行しなさい」と言われます。聖書の言葉は、聞くだけに終わらず、それを行動に移すことが促されているのです。その時に、律法学者は、自分を正当化しようとして、私の隣人とは誰ですか?」と問いかけます。彼の中にある隣人とは、限定的なものでした。

 善きサマリア人の譬えは、あるユダヤ人がエルサレムからエリコへと下ってくる途中で強盗に襲われて瀕死の重傷を負ったところから始まります。そこに、祭司がエルサレム神殿での仕事を終えて通りかかったのですが、自分の仕事に不都合が起きることを心配したのか、道の向こう側を通って去って行きます。同じようにレビ人も、そのようにしました。しかし、ユダヤ人とは敵対していたサマリア人の商人がたまたま通りかかったのですが、その倒れている人の許に駆け寄り手当をして宿屋へと連れて行きます。実に多くの犠牲を払って、その人を助けたのです。おそらく、そのサマリア人は、倒れているユダヤ人に何が起きるかを考えて、助けようとしたのでしょう。その話しをされた後にイエス様は質問をされます。「誰がその人の隣り人となったのか?」。そして、あなたもそうしなさい、と私達にも語りかけています。

(以上、2019年2月17日の礼拝説教の要旨)
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「何に目を向けるのか」

2019-02-10 01:35:51 | Weblog
「何に目を向けるのか」

ルカ福音書10章17~24節

 この聖書の箇所は、イエス様から派遣された72人が帰って来て喜びの報告をした場面です。他の福音書では、12人の弟子たちが派遣された話になっていますが、ルカは6倍の人々が派遣されたと書いています。そこには、選び出された弟子たちだけでなく、周りにいた多くの人々にも、イエス様によって派遣されていったことが込められています。つまり、私たちもまたイエス様によって、神様の福音、良き知らせを届ける者として、その働きが託されているのです。

 イエス様のお名前を使って、悪霊さえも屈服した報告がなされた時に、イエス様は彼に注意を与えます。人間というのは、何らかの力や、武器を手にすると、自分が強くなったように思い、それをドンドンと使ってみたくなるものです。そして、失敗することがままあります。力というものには、魔力が働きます。詩編8編では、神様による天地創造の業について書かれてありますが、5節以下で「神にわずかに劣る者として、人間が造られた」とあります。私たちは神では無いのです。そのような謙虚な思いをもって、神の御前にひれ伏すことが大事です。創世記に見られる人間たちの失敗は、「神のようになりたい」という人間たちの傲慢さからのものでした。アダムとイブも、カインも、バベルの塔を築いた人たちもです。

 ルカ福音書10章19節に、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をあなたがたに授けた」とあります。しかし、実際の弟子たちは、弱さと愚かさを抱えていました。そして、その弱さと愚かさの象徴が、イエス・キリストの十字架に込められています(第1コリント1章23節以下)。ギリシア人やユダヤ人には、愚かさ、呪いでしかないイエス・キリストの十字架は、神の力であり、神の知恵であると使徒パウロは言うのです。使徒パウロは、これを福音として生きました。何度も死ぬような苦難にあっても、立ち上がることが出来たのは、自分を頼りとするのではなく、神に希望をおいたからです。

(以上、2019年2月10日の礼拝説教の要旨)
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「もう泣かなくともよい」

2019-02-03 01:39:54 | Weblog
「もう泣かなくともよい」

ルカによる福音書7章11~17節

 この聖書の箇所の少し前の6章46節以下で、「家と土台」の話しが書かれてあります。この箇所は、マタイによる福音書では山上の説教の締めくくりの部分で書かれてあります。わたし(イエス様)のもとに来て、わたしの言葉を聞いて、それを行う者となることをすすめてあります。その人は、岩の上に土台を据えて建てられた家のようであるというのです。しっかりとした土台の上に建てられているからこそ、試練の時にも揺るがないというのです。

 私たちは、人生の旅路における様々な出会いを通して、成長していきます。成長という言葉には様々なイメージを持たれると思いますが、木の成長ということを通して考えると、種から始まり、芽を出して葉を出して茎を伸ばし、枝を張り、葉を茂らせ、花を咲かせて実を結びます。そればかりでなく、根を出して、地下に深く伸ばし、広がり、大地に根差して、木や枝葉を支えています。私たちの信仰の成長においても、土台の部分はとても大事なのです。その土台とは、神様との交わりであり、具体的には賛美、祈り、御言葉を通しての交わりなのです。
 その後に、7章でローマの兵隊である百人隊長が、イエス様に言われた大事なことがあります。百人隊長が部下に命じたら、部下は必ずそれを行うように、神の言葉は必ず実現するということが語られているのです。そのような信頼を持って、イエス様に語りかけたのです。そしては、それは民族の枠組みを超えて、全ての民族に開かれているというのです。

 7章11節以下では、ナインという村のやもめが、一人息子を亡くした場面です。彼女は、息子を亡くした悲しみと、これからの自分の人生が絶望状況に追い込まれたのです。このとても弱い立場の女性に、イエス様は歩み寄られて、声をかけられたのです。そして、イエス様の言葉を通して、その息子は生き返るのですが、これは神の言葉が死者にも及ぶものであることを象徴しているのです。

(以上、2019年2月3日の礼拝説教の要旨)
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「ガリラヤ湖に漕ぎ出せ」

2019-01-20 01:42:35 | Weblog
「ガリラヤ湖に漕ぎ出せ」

ルカによる福音書5章1~11節

 イエス様のもとに多くの群衆が集まった時に、イエス様は舟に乗られて、その上から話をされました。多くの群衆全体に聞こえるようにとのお考えだったのでしょうか。もう一つ考えられることは、イエス様のもとに行くには、その隔てを越えていかなくてはいけないということです。これは、信仰というものをよく表しています。単に話を聞くだけでなく、その隔てを信仰をもって超えていく必要があるということです。

 イエス様は、舟の持ち主であるペトロに、「沖に漕ぎ出して、網をおろし、漁をしなさい」と言われます。この時のペトロは、驚くやら呆れるやらだったことでしょう。何故なら、漁師であるペトロたちは一晩中漁をしたのに一匹も取れなかったからです。その結果にがっかりしていたのです。それなのに、漁師ではないイエス様からそんなことを言われて、反発さえ覚えたかもしれません。ペトロは、不満を持ちつつも、イエス様が言われるように、網を降ろしたところ、たくさんの魚が網にかかり、仲間の舟に手を貸してもらうほどでした。彼らは、とても驚いたことでしょう。自分たちは、一晩中苦労して魚が取れなかった結果にがっかりしていたけれども、イエス様の言葉に従った時に、神様の栄光を見たのです。その大いなる御業を見せてもらったのです。

 この出来事と、イエス様が5千人に食事を与えられた出来事と通じるものがあります。集まった5千人の人々がいるのに、手元には5つのパンと2匹の魚しかなかった。その現実の中で、イエス様が賛美の祈りを唱えて分かち合うと、そこにいた5千人の人々を満たした出来事です。目の前の現実がいかにあろうとも、それでおもイエス様の言葉を聞いていくことを通して、神様の恵みの業を見るのです。

 ペトロは、神様の栄光を見た時に、自らの罪深さを示されて、恐れを抱きます。他の箇所では、慌てて水に飛び込んだと書かれていたりします。そのようなペトロをイエス様は弟子として迎え入れます。

(以上、2019年1月20日の礼拝説教の要旨)
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「神の言葉の成就」

2019-01-13 01:44:51 | Weblog
「神の言葉の成就」

ルカによる福音書4章16~30節

 イエス様が30歳になって、出身地のナザレ村に行った時に、会堂で聖書を読まれました。ナザレ村の人たちにしたら、ついこの間までナザレ村で一緒に生活していたイエス様の言葉に驚き、違和感を覚えたようです。自分たちはイエスのことを良く知っている。大工のヨセフの息子ではないか。マリアの息子ではないか。彼の兄弟たちのことも知っている。彼らは、イエス様の言葉を聞いて反発し、崖から突き落とそうとしたのです。

 イエス様は、聖書からイザヤ書を読み上げ、聖書に基づいて話をされているのに、ナザレ村の人々は、イエス様の話しを聞こうとせず、反発したのです。マルコによる福音書4章で、イエス様が種蒔きの譬え話をされますが、弟子たちがイエス様に質問をします。「どうして、譬え話で話をされるのですか。もっと分かり易く話をされた方がいいのに」と言うのです。それに対してイエス様は、イザヤ書6章9節以下の言葉を引用して、「彼らは、見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち帰ってゆるされることがない」と言われます。

 せっかく神の子イエス様が現れたのに、彼らは反発して、排除しようとしたのでしょうか。彼は、自分たちが期待するものに注目していた為に、それ以外のものに目を向けようとしなかったのです。他の聖書の箇所を見ても、ユダヤ人が同じ間違いを繰り返しています。使徒パウロも、彼の自負心として、「私は、今日に至るまで良心に従って神の前で生きてきた」と言うのですが、しかし、復活したイエス様と出会った時に「なぜ私を迫害するのか」と問われる程に、神様と敵対していたのです。彼が3日間も目が見えなかったのは、「本当には見えていなかった」ことを示されたのです。イエス様の十字架の死と復活の3日間と重なる形で、古い自我が死に、新しい人として生きる者とされたことを意味されているのです。この信仰の奥義とも言えることを、使徒パウロは、ダマスコの途上で示されたのです。

(以上、2019年1月13日の礼拝説教の要旨)
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「神礼拝に立ち返る」

2019-01-06 01:47:27 | Weblog
『神礼拝に立ち返る』

ルカによる福音書3章7~20節

 今月から4月21日のイースターの前まで、ルカによる福音書から学んでいきます。イエス様が伝道活動を始める前に、バプテスマのヨハネがヨルダン川の畔で悔い改めを唱えていました。悔い改めとは、方向転換です、つまり神様へと向きを変えることです。この当時のユダヤ人たちは、大きく分けて2つのグループに分かれていました。一つが、神殿での捧げもの大切に考える祭司たちやエルサレムの住民たちでした。もう一つは、律法を守ることを大切に考える律法学者やファリサイ派の人々でした。しかし、彼らの行為は、形骸化したものでした。間違った神礼拝の在り方を、悔い改めよ、方向転換しなさいとバプテスマのヨハネは訴えたのです。「マムシの子らよ!」と厳しく非難したのは、彼らの持つ毒が、人々を害して、蔑ろにしていたからです。

 このバプテスマのヨハネが「悔い改めよ」と唱えたことと合わせて、イザヤ書40章に書かれている言葉が引用されています。これは、真の神礼拝を通して実現していく世界が語られているのです。谷はすべて埋め尽くされ、山と丘はみな低くされるとは、私たち人間社会の有り様が正されることを表しています。私たちの世の中は、身分が高いとか低いとか、持っているとか持っていないとか、そのような差が生み出されていますが、神の前においては等しくされることを表しています。そして、歪められた道が、真っ直ぐに整えられていくことを語っているのです。神によってもたらされる救いが表されているのです。

 ヨハネ福音書1章17~18節で、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とありますが、神の恵みがいかなるものであるのかは、イエス様を通して表されているのです。神の御心がいかなるものであるのか、を尋ね求めることが大事です。「わたしが願うことではなく、(神の)御心に適うことが行われますように。」とイエス様ご自身が、ゲッセマネの園において祈られたように、それに倣いましょう。

(以上、2019年1月6日の礼拝説教の要旨)
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